見出し画像

『人間の証明』[各話解説]第三回

昭和29年の流行歌『岸壁の母』(歌・菊池章子)をバックに、復員関連の記録写真が数点映し出され、棟居の父も復員する。しかし母親は、闇屋のブローカーと消えてしまい、バラックには弘一良しか居ない。

そして映像は、望遠レンズで捉えられた現代の雑踏へ。
棟居が淡々と独白する。
「母親に一度でも会いたいと思ったことはない」
このように、少年時代を少しずつ回想することで、棟居の屈折とその原因が、徐々に明らかになっていく。連続ドラマならではの構成だ。
今回、初めて現代のカラー映像にメインタイトルが表示される。

■棟居の恋人・立花典子登場

警察署のソファで朝を迎える棟居。
寝起きの棟居と、テキパキとした女性事務員の会話がちょっと楽しい。
そのやり取りの中で、前日が自身の誕生日であったことに気づき、渋い表情をする棟居。誕生日の夜を共に過ごす約束を思い出したのだ。原作にはない本作完全オリジナル・キャラ、立花典子(多岐川裕美)の登場である。

棟居のアパート。閉められたカーテンに朝日が透過する。卓袱台には昨夜食べるはずだった冷め切った料理が。棟居のぶっきらぼうな詫びの電話、窓の外の洗濯物を手際よく取り込むところなどから、棟居と典子はそこそこの付き合いであること、そして今回のようなすっぽかしが、いつものことであることが端的に描かれる。

その典子が、いきなり多摩川堤防で陽子と交差する!

ここでの会話によると、典子は陽子の存在を棟居から聞いていたようだ。クソ真面目で女性嫌いの棟居とは言え、河原でオカリナのレッスンをしている女性がいるなんて、典子もかなり気掛かりだったろう。しかし典子は、陽子がまだ子供っぽさの残る少女であると知って「安心した」と言う。
・・・本当だろうか?
中高年男性が中学生アイドルのオタクになったりする現在の感覚からすると、「棟居やべえ」とも思えるが、本作が制作された当時は「まだ子供だから性的対象外」と言い切れたのだろう。
と言うか、早い段階で「陽子との関係が不純なものではない」と典子の言葉でお墨付きを施しておかないと、視聴者に要らん疑惑が膨らんでいく可能性がある・・・という脚本的な配慮のようにも思える。
・・・いや。さらに想像力を加速すると、これは「典子に火が付いた」ことを表わす場面とも考えられる。
前述の棟居のアパートの場面で、典子が棟居父子の写真とオカリナを同時に確認するという、ちょっとした細かい描写がある。おそらく典子は、棟居にとってオカリナが特別なアイテム(父親のメタファー)であることを知っている。そんな重要アイテムを自分には使わず、棟居の名前も職業も知らない小娘に熱心に教えている姿を、典子は穏やかでない気持ちで想像していただろう。性的関係は無かったとしても、棟居の人格形成を象徴するオカリナで繋がる陽子に、何も思わないはずがない。そう考えると、河原から去る典子の後ろ姿に、メラメラと燃え上がる闘志の炎が見えるような気がしてくる。

「あの人は棟居さんの何だろう・・・?」
典子は自身については一切語らず、
振り返りもしないで河原を去る。

■棟居、言語学者を訪れる

棟居は、大学の研究室らしき部屋を訪れ、スペイン系アメリカ人が「ストローハット」を「ストウハ」と発音する可能性があるという見解を、言語学者から引き出す。学者を演じるのは橋爪功。最近はユーモラスな老人を演じることも多いが、その軽妙なセリフのトーンを活かして、言語学の捜査という硬い場面を、テンポよく一気に見せている。

2人の立ち位置移動と凝ったカメラワーク。
恩地日出夫監督の演出力が光る場面だ。

言語学の捜査と言えば、松本清張の『砂の器』が想起される。捜査線上に浮かんだ「カメダ」という言葉から山陰の「亀嵩(かめだけ)」という地名に辿り着く際、今西刑事が国語学研究所を訪れている。映画版で刑事を丹波哲郎、言語学者を信欣三が演じた場面を思い出す。
森村としては、清張が確立した社会派推理というジャンルの後継者として、オマージュの意を込めた場面かもしれない。「特定の地域や人種で使われる発音による謎のキーワード」という点においてもそっくりである。

■危険なスラム街も平気な恭子

恭子の渡米目的は、周囲に告げた講演会などではなく、ジョニーの父親=ウィルシャー・ヘイワードに会いに行くことであった。原作には無い場面だが、わざわざアメリカ・ロケを敢行するくらいだから、ドラマ化に際して極めて重要な描写ということだ。

冬のニューヨークの寒さが映像から伝わってくる。
スラム街の治安など気にもしない恭子

タクシー運転手に行き先を告げると、「やめた方がいいよ」と忠告される。
「じゃあ、近くまで行ってちょうだい」
恭子は微塵も動じることなく、運転手に頼む。
この少し前の捜査会議の場面で、「ニューヨーク市警の警察官ですら容易に潜入出来ない」とまで言われているエリアに、構わずどんどん入っていく。
しかし、ウィルシャーはすでに死亡していることが判明する。
墓前に花を供える恭子。
この一連の場面は、原作や映画では描かれなかった恭子とウィルシャーの心理的な距離感を示すとともに、2人の死によって「もう一つの家族」を完全に喪失した恭子の、「現在の家族」を死守するために罪を重ねていく運命が決定した瞬間でもあった。ロケ時の天候が終始重苦しいほどの曇天で、恭子の心理描写がさらに際立つ映像になっている。

■陽子まさかの多摩川連続交差!!

典子が河原から去った直後のことと思われる。帰宅しようとする陽子の前に、またまた驚きの人物が現れる。
小山田文枝と、その不倫相手である新見(中丸忠雄)である。
みんな、どんだけ多摩川が好きなんだ?と思うくらいの大集合ぶりだ。
たまたま前後して同じタクシーに乗車した2人が、数日後に多摩川堤防で出くわす確率は、かなり低い。
しかし早坂暁は、そんなことは気にしない!
強引な偶然の不自然さよりも大事なことがある。後半、文枝失踪の捜索の際、ここでの交差がひとつのきっかけなるが、むしろそれよりも重要なのは、《大人たちの不貞の現場を陽子が目撃する》ということだ。このドラマ版『人間の証明』は、世の中への抗体を持たない陽子が、大人世界の現実を次々に目の当たりにし、少女から離陸していく物語なのだから。
以降も、陽子は大人たちの嘘、欺瞞、虚像などを次々と目撃し、最終回での臨界点へと向かっていく。

新見「まだ見てる…」
岸本加世子の目ヂカラが不倫の2人を射抜く。

■交差の連続連鎖、その先には・・・

愛人に経営させているバーで、ダン安川に会う陽平。
しつこく援助を頼んでくる安川に、何やら政界の黒幕的大物らしい人物の名刺を渡す。露骨に迷惑そうな陽平に、常に笑顔で語りかけるダン安川(笑)。
・・・が、そんなことよりインパクトのある場面がこの直後に展開する。

「ワタシを助けることは、
アナタにとって決して詰まらないことじゃアリマセン」

ダン安川に付いたホステスが、なんと小山田文枝!!

しかし、この程度の偶然で驚くのはまだ早い

昼間の多摩川から、交差の連鎖が止まらない。
しかも、陽平と文枝が同じ空間に存在するなど、原作読者には想像も付かなかったことだろう。ただでも人工的な人間関係の森村原作を、さらに徹底的に再構築する早坂脚本。もちろんこれで最後ではない。次回以降も、想像を超えた交差が次々に巻き起こる。「原作と違うじゃん」などと言わずに、そうした再構成による交差パズルを楽しむのも、本作の醍醐味だ。
それにしてもこの交差、後にどんな展開を生む伏線なのか?
・・・それを予想する暇もなく、文枝は急展開に巻き込まれる。
恭平が運転するクルマが文枝をはねてしまうという、原作のプロットにようやく戻っていく。

恭平が文枝をはねる場面は、原作、映画、ドラマ、それぞれ描き方が違っている。
原作では、まず小山田が妻の失踪に気づき、自動車事故の疑いで調査を進める。その後、時間が巻き戻され、恭平のクルマが文枝を…という流れだ。
映画では、新見がタクシーで文枝を自宅付近まで送るところから。激しく叩きつける雨が、唐突にはねてしまう状況にリアリティを持たせているし、映画的な画作りでもある。
本作は、連続ドラマという時間的な余裕から、事故までのプロセスをかなり丁寧に描いている。恭平が調子に乗って猛スピードを出し、パトカーに追われる。恭平は、ヘッドライトを消し、灯りのない道路へ逃げ込む。そこで文枝をはねてしまう…という具合に。
取り返しのつかないことをしてしまった恭平は、涙を流しながら「ママ…」と呟くが、こうした細かい人物の彫り込みの積み重ねが、恭平および母親との関係性を鮮明に織り上げていく。
原作では「恭平にとって母であって母ではなかった」「見せかけの母」と、母子関係の断絶が綴られている。しかし早坂脚本は、そこを180度変えている。息子に盲目的な母と、マザコンの息子。その設定変更がもたらす効果については、最終回の項で解き明かしていく。

「ママ・・・」とつぶやく恭平。
しかし恭子は、まだニューヨークの寒空の下にいた。

こうして恭子は、さらに重い運命を背負うことになっていくのであった。

■第三回まとめ
今回の目玉は、やはり典子の登場だろう。連続ドラマという長丁場の中で、天涯孤独の棟居を深く描き込んでいくために追加投入された重要な人物である。勤務時間も定まらないような多忙な警察官であり、性格的に極端に屈折している棟居に耐えているものの、ただ従順なだけの女性ではない。面倒臭い棟居をコントロール出来る稀有な人物であるが、母性的な雰囲気とは違う。棟居の心理を本人以上に直視する視線は、ときに批評的ですらある。シリーズ後半、母親との再会を力技で実現するところなどは、実践的カウンセラー(そんな言葉があるか知らないが)のようでもある。いずれにしても、そうした人物像を、多岐川裕美が、持ち前のちょっと不思議なキャラクターでナチュラルに演じ、独特の存在感を示している。
それも含めて第三回は、これからのさまざまな展開を引き起こす「タネ撒き」の回だと言えるだろう。難航するジョニー事件の捜査と並行して、恭平・路子の逃避行と、それを追う男たち(お待ちかね!岸部シロー・中丸忠雄の名コンビ!!)のラインがいよいよ始動する。
(第四回につづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?