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『人間の証明』 [各話解説]第一回

■物語のエッセンスを凝縮したオープニング

古い記録映画のような粗いモノクロ映像。
助けを求めながら逃げる若い女性。
それを追う4人のアメリカ兵。
途中、マッカーサーや進駐軍等、終戦直後の記録写真が挿入される。
ほぼ全裸にされた女性と、それを取り囲む米兵。
そこにメインタイトル『人間の証明』。

このオープニングはおそらく、棟居刑事の父親が米兵に殺されるエピソードを、プロローグ用に「抽象化」したものと思われる。後に“正式に”描かれる米兵たちによる恭子・棟居父への暴行シーンは、女性や野次馬たちの役者が違うし、全裸にもならない。カメラワークも違う。つまりこの初回プレタイトルは、登場人物に起きた出来事の写実ではなく、これから展開する物語が、敗戦直後という時代を源流としていること、その時代を生きた人々の《深い傷心の物語》であることを暗示するための、本編から独立したイメージ・シーンなのである。

原作でも、襲った米兵のみならず、父を助けようともしない日本人の野次馬や、進駐軍相手には全く機能しない警察官も、棟居の深い怨念の対象となっていると書かかれているが、第十二回で棟居が言うように、襲われた女性=八杉恭子にとっても「女性の人生観を変える」出来事だった。原作では物語の進展とともに明らかになるような主人公たちの闇の源流を、視聴者にいきなり突きつける、極めて大胆なオープニングだ。

本作にはほぼ毎回、こうした終戦直後のエピソードをドキュメンタリータッチで見せる場面が登場する。そこには本物の記録フィルムやスチルが挿入されることもしばしばあるが、それらと映像的質感を合わせることで、回想シーンにリアリティを与え、物語の背景や棟居の人物像を生々しく描き込んでいく。

■ジョニーとともに入国するダン安川

メインタイトル後は現代に移行。羽田空港への着陸態勢に入った飛行機内のジョニーが登場する。
ジョニーの日本入国からスタートするところは映画の構成と似ているが、一筋縄ではいかない本作は、単にジョニーの入国描写だけでは終わらない。
なんと機内の隣席には、早坂脚本オリジナル・キャラであるダン安川が座っているのだ!!
しかもジョニーの「Are you Japanese?」に対して、こう毅然と答える。
「No,I'm American」
初見の視聴者なら誰だって「戸浦六宏がアメリカ人だって?!」と突っ込みたくなるだろう。まあ、そのいかがわしさこそがダン安川なのだが、この時点ではこの人物についての説明は一切ない。当然、戸浦六宏がただの通りすがりの訳がなく、しばしば現れては、郡・八杉夫妻の闇を刺激する厄介な人物として機能していくことになる。

「あなたは日本人?」「アメリカ人です」

■原作より深く描かれる郡・八杉一家

ジョニーが機内から眺める東京の空撮カメラが、有楽町、新宿を経て、小田急沿線の大きな邸宅に降りていく。郡陽平・八杉恭子の豪邸である。
ここで本作名物〈陽子のモノローグ〉が初登場する。

「10月30日、日曜日。晴れ。私のパパは、暇があると弓を引いている」

この日記のような構文によって、〈郡・八杉ライン〉の出来事をメランコリックに記述していく。鋭利で硬質な森村文体とは対照的なこのトーンが、「もう一つの『人間の証明』」を形成する要素のひとつとして、全編を包み込んでいく。
続いて、場面は雑誌取材へ。

このとき取材班が撮影した家族写真は
最終回の冒頭で効果的に使われる

取材テーマは「日本を代表する家族」。本作が郡陽平・八杉恭子の〈家族〉を深く描いていくことを明示する場面だ。
郡家4人のキャラクター、
・総理の座を狙う元軍人の陽平
・生花で国際的に活躍する恭子
・不良っぽい息子・恭平
・引っ込み思案な娘・陽子
を、手際良い演出で紹介していく。
この辺りの恩地監督の手腕は、実に冴えている。

原作の郡・八杉一家は、壊れた家族が壊れたまま描かれている。教育評論家の恭子は、恭平を自分の教育論のために利用し、恭平もそれを承知している・・・という具合いに。
一方、本作では、恭子が恭平を溺愛して甘やかし、恭平もマザコンっぽく振る舞い、「今日のママは素敵だよ」などとリップサービスにも余念がない。
それをひとつひとつ暴いていくのが陽子のモノローグである。
「兄ちゃんは嘘をつくのが上手い。コンタクトを付けてないと、ママの顔はぼんやりとしか見えないのです」
というように。
それは、あどけなさが残る陽子が、大人の邪な世界を知っていくプロセスでもある。それを表現する上で、岸本加世子の個性を生かしたキャスティングは、実に絶妙と言うほかない。

■「オカリナさん」として初登場する棟居刑事

そして陽子は、多摩川堤防に向かう。
陽子が「オカリナさん」と呼ぶ男性に会うためだが、そのオカリナさんこそが棟居弘一良である。そう、本作で棟居は、刑事である前に陽子の知人として登場するのだ。

背後に見えるのは小田急線・和泉多摩川〜登戸間の
多摩川に架かる多摩川水道橋

この場面では、当時、侵略的外来種として社会問題になっていたセイタカアワダチソウが会話に出て来る。アメリカからやって来たアワダチソウは、もちろんジョニーに引っ掛けているわけだが、対話の内容は「花に目や耳があるか」というなんとも乙女チックなもので、女性やアメリカに対する強烈なアレルギーを発揮する棟居の意外な一面である(笑)。
以降も棟居は、陽子の前では、刑事であることや、女性への強い不信感すら封印し、オカリナを通じて陽子と穏やかな時間を共有していく。
そしてこの場面は、原作と大きく異なるクライマックス~最終回ラストシーンへの布石にもなっている。

■「ストウハ」に遭遇する陽子

そしていよいよ、赤坂ロイヤルホテルにジョニーが現われる。
映画版のように実際のホテルで撮影が行えなかったため(予算の関係?)、ロビーは丸の内の東京会館、エレベーターは浜松町の貿易センタービルで撮影された。
エレベーターがスカイラウンジに到着したとたん、ジョニーが「ストウハ」というダイイングメッセージを残して絶命するーー『人間の証明』最初の大展開であるが、そこに陽子が居合わせるというオリジナル展開。居合わせるどころか、ジョニーの傷口から漏れた鮮血が、陽子の純白の足袋を赤く染める。

ジョニーを演じたジャーニー・カイナって誰?
ネットを探しても情報が見つからない

[総論]にも書いたように、本作では、並行するラインの人物たちが、原作には無い越境交差を至る所でしまくる。中には強引と思える交差もあるのだが、この場面は「陽子が同ホテルで行われている恭子のセレモニーに呼ばれていた」という設定になっているので、それほど無理な印象はない。
このあと、ショックを受けた陽子の帰路がやけに丁寧に描かれるが、その理由は第二回に判明する。

■ダン安川、陽平に第5種接近遭遇

一方、郡陽平の前にダン安川が現われる。
「助けてください」と、しつこく握手を求めるダン安川。露骨に嫌がる陽平。良からぬ秘密につけ込んでピンチを救って貰おうという魂胆を、怪しい笑顔で強烈に匂わす演技はさすがだ。

この場面、ダン安川の執拗な要求に対して、陽平が微妙な笑みを浮かべるアップでCMとなる。当時のドラマは、CMに移るアクセントとしてアイキャッチ(番組タイトル)が表示されることが多い。そのアイキャッチを映像のテンポに意図的に組み込んだ演出もしばしば見られるが、本作も完全にそのスタイルだ。
この場面では、陽平の不敵な薄ら笑いにアイキャッチのアクセントが付くタイミングがあまりに絶妙で、思わず笑ってしまう。(というか、昭和の腹黒政治家を見事に表現する山村聰が本当に素晴らしい)
今後も、私の独断ではあるが、お気に入りのアイキャッチ演出をときどき紹介していこうと思う。

アイキャッチが独特の余韻を生む

・・・長い1日が終わり、ベッドに就く陽子。
日記を閉じるように第一回が終幕する。
夜の郡邸ロングショットからのエンド・クレジット。
ラストカットの静寂を破って流れる『さわがしい楽園』のイントロがたまらなくカッコいい。

■第一回まとめ
第一回は、原作のストーリーラインからすると、冒頭に発生するジョニー刺殺事件までしか進んでいない。なんと冒頭の6ページ(角川文庫版)くらいなのだ。全体で約440ページだから、2%も進んでない。
ということは、それ以外は本作オリジナルのシーンということになるが、そのほとんどが、主要人物たちのキャラクターをあらかじめ紹介しておくことに費やされている。
そして、陽子のモノローグで始まり、モノローグで終わる、言わば「陽子の長い1日」として一話が構成されている。
以後、さまざまなラインが稼働し始めると陽子の比重は後退していくが、最終回ラストも陽子のモノローグで締め括られていて、全体的には〈陽子の物語〉であるとも言える。
『人間の証明』は、複数のストーリーラインが並走し、主要人物が入れ替わっていく、森村ミステリー特有の構成ギミックが駆使されている。それを連続ドラマとして見やすく収めるため、全体を貫く「第3の視点」で串刺しにした。その役回りとして、原作ではあまり登場しない、色の付いていない陽子が抜擢されたのではないだろうか。素直な感情移入が難しいキャラクターばかりの中で、陽子に寄り添うように見ていた視聴者も多かったに違いない。

次回は、第一回で撒かれた種がそれぞれに動き始める。
(第二回につづく)

【コラム】
放映当時、朝日新聞のラテ欄に「映画の主題歌は良かったが、ドラマの曲は良くない」という主旨の投書が掲載された。(当時の朝日新聞のラテ欄には、「はがき通信」という、読者の番組感想などを載せる欄があった)
その投書に猛烈な異論を持った私は、すぐに反対意見をハガキで送った。すると、私と同じ行動を取った人が他にも居て、翌週辺りに「さわがしい楽園、良い!」という投書が掲載された。とても嬉しかったが、私の投書は文末に「同様投書2通」と処理されていた。それでも「この2名の1人は自分だ!」と、小学六年生の私は、それなりに感動したものである。

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