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『人間の証明』[各話解説]第八回


冒頭のテロップで示される昭和24年は、下山事件、三鷹事件、松川事件と、国鉄電車にまつわる事件が連発した年で、それらの記録写真が映し出される。そのバックに流れる歌謡曲『別れのタンゴ』は、この年に公開された同名の松竹映画で、高峰三枝子が歌っていた曲である。しかしそれは、単に本作の主演に引っ掛けた選曲であるにとどまらない。歌詞にはこうある。

 別れの言葉は 小雨の花か
 「さようなら」と濡れて散る
 あつい情に 泣いたあの夜も
 はかない ひと夜のつゆか

今回のオープニングは、まさに雨の夜、少年棟居が母親の姿を最後に目撃したときのエピソードなのだ。

場末のキャバレーに母を尋ねる少年棟居

しかも、だ。
少年棟居は、母の名前を「棟居みつこ」と言っているのだ。そう、第五話で登場した、八杉恭子が愛用する香水の名と同じ「ミツコ」なのである。棟居の母親の名前は、原作には明記されていないので、早坂暁によるネーミングと考えていいだろう。
しかしこれ、放送当時、3週間前に出て来た香水の名前を覚えていて、「棟居の母親もミツコか!!」と膝を打った視聴者は、どれくらい居ただろうか。少なくとも私は、後年に再見するまで全く気づかなかった。
いずれにしても、棟居にとって八杉恭子は、限りなくニアリーイコール・棟居みつこであり、敗戦直後という時代が深く心に刻んだ憎悪の対象である、ということだ。もちろん刑事としては、かなり度が過ぎる公私混同なのだが(笑)。
しかし、誤解を恐れずに言えば、そもそも『人間の証明』とは、そういう〈推理小説〉なのである。
原作でも、八杉恭子の逮捕状を取るに十分な物証が得られず、最後は恭子の人間性に賭けた尋問を行い、自白を取る。そうした泣き落としが本格ミステリーとしてアンフェアと批判されることなど、森村誠一は百も承知である。いや、むしろそこを狙った作品だ。松本清張は推理小説に〈社会〉を持ち込んだが、森村は本格推理の枠組みの中で〈人間〉に食い込もうとしたのだ。推理作家による文学への挑戦、と言ってもいいだろう。
そうした森村の大胆な試みは、本作でも最終回にしっかり再現されている。その最後のゴールに向けて、棟居と恭子の内面を、あらゆる場面と手法で彫り込んでいくのが、本作のメイン中のメインのラインであると言えるだろう。
それにしても、高峰三枝子の持ち歌をここで使うとは、実に良く考えたものである。素晴らしい。

◾️棟居弘一良の休日

郡陽平から政治的圧力を受け、那須警部から3日間の休暇を命じられた棟居。しかし、棟居の休暇が穏やかであるはずがない。
署を出ようとして、いきなり小山田&新見の姿を見つけてしまう。

ぬいぐるみの血痕から、文枝の失踪は事件性が濃厚であると直感した2人が、警察署に捜査を依頼に来ていたのだ。それに対応する警察官が、なんと高品格。ほんのちょい役なのに、贅沢なキャスティングだ。
だが、文枝失踪は家出としてしか扱えないと言われてしまう。

小山田たちは、失踪現場に残されたぬいぐるみの話を棟居に話すと、棟居は「クルマが絡んでいるのではないか?」と推理する。しかし、それはさほど重要ではない。棟居が、以前担当した幼児誘拐事件で、その熊のぬいぐるみを見たことがある、と言うのだ。セントフェリス幼稚園が園児に配布しているものだ、と。
何という偶然。何という奇跡。
しかしこれ、原作でも偶然性の高い発見方法なのだ。新見の妹夫婦の子どもが同じものを所有していたことから、ぬいぐるみの正体が分かる、という展開だ。インターネットが普及していない時代に、レアなぬいぐるみの出所を調べるのはかなり難儀だろう。原作は、その調査プロセスをショートカットするだけでなく、教育問題に触れる会話がセットで展開する。八杉恭子は教育評論家であり、そのくせ自身の家庭は仮面家族・・・という設定に引っ掛けた場面にしているのだ。
ちなみに映画版では「日本にはまだ4個しか輸入されていない時計」に変更され、恭平の幼稚園のくだりは省略されている。

◾️恭平の「頭脳作戦」

小山田たちよりも一足先にセントフェリス幼稚園を訪れた恭平と路子。そこでもまた、ちょっと楽しい2人の漫才的会話が展開する。

路子「(こういう幼稚園は)みんなお金で入るんでしょ?」
恭平「実力だよ」
路子「あなたも?」
恭平「当たり前だよ。俺は昔、頭良かったんだ」
路子「じゃあ、今は?」
恭平「今は悪いふりをしてるだけだよ」
路子「(笑)」
恭平「何がおかしいんだよ。すぐに俺の頭の良いところ見せてやるから」

恭平が言う「頭の良いところ」とは、家に帰る途中のセントフェリスの園児から熊のぬいぐるみを奪う、という作戦だった。園児の横をクルマで通過し、ぬいぐるみを奪って走り去る。奪ったぬいぐるみをダッシュボードで何度も擦って古さを捏造し、万一ぬいぐるみから足がついたときに備える・・・というわけだ。

しかし、結果的にそれは致命的なアダとなるのである。

◾️奪ったクルマは「赤のトランザム!!」

小山田&新見は、セントフェリス幼稚園の園長を訪れ、ぬいぐるみがその幼稚園で配布されたものであること、そしてぬいぐるみの刻印から、昭和35年の入園児に配られたものであることが判明する。ここでも、新見の大企業の名刺の信用だけで、個人情報=過去の園児リストが易々と手に入ってしまう。
さらに、最近ぬいぐるみを盗られたという園児に会ってみると、奪ったクルマの車種を瞬時に答える。
「赤のトランザム!!」

ロン毛の園児(笑)

・・・その頃、トランザム車中の路子が、マズいことに気づいていた。ぬいぐるみの年号刻印を見つけたのだ。

重要なことはだいたい路子が気づく
恭平と路子の関係性を示す脚本手法だ

作戦失敗。ぬいぐるみを叩きつける恭平。
この場面は、洗車しながら進行し、洗車機に吸い込まれていくトランザムの後ろ姿でアイキャッチが入り、CMとなる。なかなかセンスの良い演出だ。

◾️典子の棟居改造計画

典子は棟居の闇を全て見抜いていた。
母親への憎悪。それが転じて、女性全体に対して屈折していること。そのために、なかなか結婚に踏み切れない棟居に苛立つ典子。
そんな典子が、棟居との関係を賭けた大勝負に出る。棟居に「お母さんに会ってください」と頼むのだ。
棟居は烈火の如く怒る。そりゃあ当然でしょ・・・と、8話にわたって棟居の闇を見て来た視聴者なら、誰でも思うだろう。その鋼鉄の闇に、典子が遂にメスを入れるという。

「父さん、どうするよ。 会ってぶん殴ってきていいか?」
父の遺影に語り掛ける棟居

なんだかんだで結局、母親が働く店の最寄駅、京浜急行・横須賀中央駅で待ち合わせることになる。
ところが、向かう電車内で何気なく読んだ西条八十詩集に、とんでもない詩を見つけてしまう。

麦わら帽子、そして霧積。
原作では頭から4割くらいのページ、映画では1時間15分で登場する「母さん、僕のあの帽子」が、本作では8週目、2ヶ月である。ともすると麦わら帽子ともども存在を忘れてしまいそうなくらい、西条八十詩集はご無沙汰だった。
ともかく、ストウハとキスミーを同時発見した棟居は大興奮である。待ち合わせの典子を吹っ飛ばす勢いで、公衆電話に飛び込む。
「悪いけど、電話したら、すぐに東京に帰る!」
「棟居さん!すぐそこなんです!1時間、いや、30分、私のために時間をください!」

多岐川裕美の熱演が光る名場面

この場面の多岐川裕美の演技は、本当に素晴らしい。何度観ても泣けてくる。婚約者という立場を超えて、最早、棟居のカウンセラーと化した典子。母親と会うことが、棟居の心の闇を解く唯一の方法であると信じている。いや、棟居のことだから、どういう結果になるか分からない。それでも典子は、会った方が良いに違いないと確信している。
さすがの棟居も、そんな典子を無視出来なくなる。2人は、母親がいる歓楽街に向かう・・・。

この辺りの展開の運び方は、さすが早坂暁と唸る巧さである。母親に絶対に会いたくない棟居。母親に絶対会わせたい典子。一旦は横須賀に向かうものの、麦わら帽子の詩を発見することで、東京に戻る理由が出来てしまう。それを全力で引き戻す典子。そうしたプロセスが無ければ、棟居がいとも簡単に母親に会ってしまうように見えかねない。2人の強い感情の押し引きに、さらに捜査上の発見も絡める。それは同時に、常に仕事を優先してきた棟居が、ようやく典子を優先した瞬間でもある。・・・巧い。
そしていよいよ次回は、回想シーンでしか登場していない棟居の母親が登場し、ドラマ版としての原作解釈に向かっていくための、大詰めの展開へと発展していく。

◾️第八回まとめ

今回もオリジナル展開が全開だった。しかしここまで来ると、初回放送当時、原作を読んでから観た私は、最早、原作通りかどうかなど、どうでもよくなっていた。それくらい、全ての場面が練りに練られ、あらゆる役者の好演も相まって、深く突き刺さるドラマに釘付けだった。当時、小学六年生だった私にも、それなりに理解出来る〈大人のドラマ〉だった。まあ、その辺は最終回のあとに、またじっくり述べるとしよう。残りの五話も、さらに濃密さと面白さが加速していく。
(第九回につづく)

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