往復書簡(はりねずみさん,1通目)

以下の文章ははりねずみ(Twitter:@hedgebok)さんに宛てた手紙の1通目です。

はりねずみさんから僕への1通目はこちら

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はりねずみさん

こんにちは。たしか
ちょうど去年の今頃、表参道で散歩しましたね。
あの頃が懐かしく、また遠い昔のように感じますし、また今の日々が既に慣れ始めていることにたまに戸惑うことがあります。
それこそ僕たちが歴史の授業で学んだ出来事の時に実際に生きていた人々も同じような気持ちでいたのでしょうか。



栗田さんの作品、ロバート・スミッソンの「Artforum」誌面で発表した作品を思わせます。スミッソンの作品含めランドアートは大変大きいな物なので「記録」という物が重要になる。いわば「室内に持ってくる方法」が必要となるのですが、スミッソンはそのような作品の一つとしてスミッソン自らが歩いて見た風景を詩的な文章と共に写真で紹介する作品を雑誌で発表しました。いわばスミッソンの眼差しを追体験するのですが(社会批判的側面もある)、栗田さんの場合はそんなことも感じさせつつ加えて、その「土本来の色彩」に向き合ってみるという面でも楽しめる気がします。ちなみにヨーロッパの街並みってオレンジ色だったりブラウンだったりするのですが、それはその土地の土の色が関わっている(土からレンガを作るため)そうで、そう思うと僕たちはコンクリートといった世界中どこでも同じ色と共に暮らしていることはどこか考えさせられますね。
ところで「ピュグマリオーン神話」というのはご存知でしょうか。その名の通りギリシャ神話が由来なのですが、かつての彫刻家はこの神話のように彫刻に命を吹き込むことを必要視させられたそうで、だから大理石は滑らかな肌のものが多く、また鑑賞者も「生身の人間」のように思わされて見ていた(といっても信じきっているわけではないですが)という歴史があるそうです。そんな系譜に須田さんの作品があるのかなと個人的には思いますが、彼の作品はそれ以上の、設置場所が非常に重要なファクターになっているようにも思えます(あくまでもギャラリーかどこかで見たことある程度ですが)。コンクリートの割れ目から咲く花はいわば「ど根性大根」のように力強さを感じさせながらもそれら花々は木彫といった虚構(でも「木」であるという現実)であるというその儚さ。また素材とモチーフの有機的なものとコンクリートといった無機的なものの融合。例えばこれが、美しいガラスの器にいけてあるばかりだったらどう目に映ったのでしょうか。
誠実性、大変面白いですね、先に話した「ピュグマリオーン神話」とは真逆ですし。ただ、はりさんのいう「誠実性」を僕が間違って捉えていなければ、個人的には「アート」そのもの自体が「誠実性」で成り立っていて、それを失ったらそもそもが成り立たない。例えば写実絵画と実世界との関係、抽象絵画とタイトル・作品の背景の関係、また作品そのものに於ける真贋とか。ある意味、作家と鑑賞者は「共犯関係」なのかもしれません。僕自身ははりさんの絵画の見方というか捉え方が大変気になります。

お会いした後だと…去年はなかなか展示に行けなかったので選択肢がだいぶ少ないですが、原美術館の「メルセデスベンツアートスコープ」、その中でハリス・エパミノンダの作品が心に残っています。エアミノンダの作品はその前年、同じ頃にヴェネチアビエンナーレで見たこともあり単純かつ私的な理由が大きいのですが、室内に置かれた金属の球体を見つつ、パルミジャニーノやリヒターを思い出し、その映った歪みくすんだ原美術館の建物を見ながらこの建物の歴史感じさせつつ、吉村弘のアンビエントとノスタルジックな東京の風景の映像、そして晩夏の、植物の青臭さを感じながらも秋の気配…まあとにかく心地良かった、というのが素直な感想です。
最近だと国立近代美術館の「眠り展」はなかなか良かったですよ。知的ながらも突き放さない、その絶妙な距離感を「窓展」に引き続き見せてもらえてお見事でした。

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吉村弘「Soundscape 1: SURROUND」より
作品内で流れていた「Something Blue」



ラディカル無神論、興味深い内容ですね。ちらっと検索したらデリダの哲学で「生」と「死」の間にある「生き延び」という言葉を見かけたのですが、それとハリさんが過去と決別できたのは関係があるのでしょうか。僕自身、あまり哲学に明るくないのではりさんにご教授いただきたいです。
哲学が宗教味を帯びるのは西洋の人間の生活にキリスト教が根強くというか基本的にあって、どうしても避けられない問題だからと思っています。例え無神論だとしても。例えばメルロ=ポンティがキリスト教と関係があるとか、またタルコフスキーと聖母マリアとか。どうしても各創作物がその土地特有の宗教といったものから離れられないと思うのは人間の性なのでしょうか。
僕も最近、ちゃんと本に向き合っていなくて良くないと思い、最近はジョルジュ・ぺレックという作家の「人生使用法」という作品を寝る前に必ず読むようにしています。パリのアパルトマンの断面図から構想したという作品で、個人的には映画「グランドホテル」を思い出しながらも、壁床一枚で隔たれた隣り合う空間で様々な生活が渦巻いている集合住宅の奇怪さは個人的にも面白いと思いつつ、彼の作品上での実験、いわば文章上で空間、しかも階層のある空間を作り上げるのはなかなかスリリングだなと思って読んでいます。
ぺレックは違う作品で母音の「e」無しで小説を書く等、なかなか実験的な作品を執筆していたそうで、できたらフランス語で読んでみたいと思っています。
また「眠る男」という作品が映画化されており、この作品もシュールな作品で良いですよ。



東京は最近は暖かさに包まれ、例年、この時期特有のアンゲロプロスの映画を思わせるような凍てつく寒さが来ないことにどこか寂しさを感じつつ。

過ぎ氏

P.S. 「波」はあまりにも斬新過ぎると思うので「燈台へ」か短編集から読まれることをおすすめします。

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夏の原美術館。いい夕暮れでした。


追記(2021.2.14)
時間感覚のズレはコロナ禍になってから酷くなりましたね。それはニュースでも毎朝冒頭の特集がコロナで、別にそれはしょうがないのですが、毎日「コロナ」が話題になっているからなんだか変わらない日々のように錯覚してしまう。しかも僕は元々出不精なので、さらそれが進んだ気がします。

アートにおける気迫、たしかにそういう面があるかもしれませんね。ただこないだ、MOMATコレクションで石川順惠の作品を見たのですが、一見シンプルな画面なのですが制作に20年掛かっているそうです。そう思うと、表面以上に見えないことってあるのでしょうね。

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