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ヴィパッサナーの勧め スピリチュアル自伝と楽に生きる方法 動画付

 プロローグ

私はスピリチュアル経験豊富な武道家&整体師&サラリーマンです。ちょっと変わったスピリチュアル体験をしておりますが、全て事実です。では、どうぞ(^^)

武道人生

現在、営業会社に勤務しながら、週に4回武道教室で指導し、土曜日は整体院に勤務しております。
日曜日は武道の本質を追求している仲間たちと武道の稽古か、所属道場の武道イベントか、とにかく、休みは全くありません。
ちょっと風変わりな人生を送ってきました。

小学生時代は、自分たちの時代では当たり前のプロ野球選手を夢見る野球少年でした。
自己顕示欲が旺盛で、何でも中心にいないと気がすまないエゴの塊でした。
ちょっとした自慢は、われながら人気があって児童会長になれたことです。
中学時代は、関東より北海道に転校し、北海道で高校1年まで過ごしました。
高校入学と同時に武道を始め、高校1年の途中で関東に戻り、道場に入門しました。
その後、武道格闘技の試合に出るようになり、19歳よりプロ選手となりました。日本ランキングにも入り、チャンピオンとも対戦しました。
判定負けでしたが。
24歳のときに一時選手としての活動を中断しました。
プロを引退後、稽古を中断しましたが5年後に再開し、現在に到るまで30年以上稽古をしてきました。

私は、センスは人並みでしたが、たとえば「スクワットを1,500回やる」と決めたら最後までやりました。
「腕立て伏せを1,000回やる」と決めたら最後までやりました。
そして、この厳しい稽古を、毎日継続する根気もありました。
この、トレーニングや我慢は私の心を育てるのに非常に重要なプロセスでした。

24歳のとき、当時所属していたジムの選手たちに事故が頻発しておりました。
試合中、練習中、詳しくは触れませんが、生命や選手生命をおびやかす事故も、結構な頻度でありました。
大きなジムでしたからトレーナーが何人もいて、通常のスパーリングがトレーナー同士のプライドのぶつかり合いになっておりました。
試合さながらのスパーリングを連日行い、サバイバルゲームのようでした。
しかし、私の動体視力や直感を養う上で、この連日の激しいスパーリングが大いに役立ったのは事実です。

引退

身体の中でも目や脳は、限界のハードルがそれほど高くありません。
そして、度を越すと命さえも危ういです。
選手たちは、チャンピオンへの夢か、あきらめからか、現役に執着します。
いえ、執着というよりも、惰性という言葉が妥当な人もおりました。
人間のエゴは怠け者で、極力現状を変えたくありません。
「こうした方が良い、こうするべきだ」と分かっていても、その変化のための労力が苦なのです。
私は事故で引退した人たちを「いずれは」と、自分にダブらせて見ておりました。

そんなある日、ジムでの人間関係に悩み、選手としての情熱も冷めて、パチンコを閉店まで打ち続けてジムワークをさぼってしまいました。
ストレスが体調にも影響を及ぼし、ジンマシンも出ておりました。
「やめたいけど、やめられない」という葛藤のなかにおりました。
帰宅すると、たまたま友人が泊まりに来ていて、私は思い立って友人に鍵を預けアパートを出ました。
あてもなく電車に乗り、適当な駅で降りました。
泊まるところもなく、ホットの缶コーヒーを片手に、寒さしのぎにマンションの廊下に腰を下ろしました。
12月で寒くて眠ることもできず、新聞配達の人が私を見つけて驚いていました。
私はマンションの廊下で震えながら、引退を決意していました。

引退後

翌朝、大学時代に親友と2人で、やはりあてもなく旅をしたときに行った小田原城に行きました。
私は、小田原城周辺を歩いたり、定食屋で食事をしたりしながら、引退の決意を固めました。
お世話になったトレーナーやジムスタッフに挨拶をして、10年に渡った武道格闘技人生を、中断しました。
中断というのは先に書いたように、5年後武道家として稽古を再開するからです。

格闘技のジムで選手活動しているあいだも、元々の武道の道場には所属しておりました。
武道の道場とは、そういうものです。
海外のジムのような在りかたではなく、もっと絆の強い、ファミリーのような付き合いをするのです。
ですから、私は格闘技のジムに所属している間も、道場のイベントにはお手伝いに行き、道場の先生や先輩、同僚も私の試合に応援に来てくださいました。
先生は、一生の先生であり、先輩や同僚、後輩とも、固い絆のようなもので結ばれているような感じです。

格闘技の現役選手を引退後、野心家の私は、自分が選手として目立つことのできない格闘技への興味は薄れ、道場でもジムでも、「競技にたずさわるようなことには関わりたくない」と思っておりました。
自分が目立ちたいのに、「他人が主役になるお手伝いなど出来ない」と思いました。
しかし、時間が経つにつれて、自分が選手として培ってきた技を、若い選手に教えて、コーチとして成功したいと、思うようになりました。
私は選手としては、一流の選手たちと試合やスパーリングをしてきたのです。
さらに、一流のコーチの指導も受けてきたのです。
この自分の経験を、後輩たちに教えて、指導者として成功したいという野心が芽生えてきたのです。
選手、コーチ、いずれにしても自分が主役でいたいことには、変わりなかったのですが。

そして、30歳のときに、指導者の道をスタートしました。
当初は、先生の下でコーチとして、そして36歳のときには、体育館を借りて、自分の教室として、生徒を指導するようになりました。
私が育成した選手たちは各種大会で好成績を修めてきました。
するとまた、傲慢な意識が芽生えてきて、謙虚な精神を忘れてしまうのです。
指導する立場になって、客観的に武道を見て、技の要点がつかめるようになると、選手としての欲も出てきて、再び試合へも出場するようになりました。
自分が主役でいたいのは、武道でも、仕事でも、家庭でも一貫していて、常に空虚で満たされぬ思いがありました。
それは、欲を満たすことで埋められると何となく考えていて、これは無明(むみょう)です。
しかし、私の最も欲しいものは実績と他人の賞賛でした。

「天国のスプーンと地獄のスプーン」というお話があります。
地獄のテーブルの上にご馳走が並んでおり、テーブルの周囲には片手をイスに縛られ、もう一方の手にはスプーンをくくりつけられた人々がすわっております。
スプーンは1m以上の長いスプーンです。
一生懸命料理を口に運ぼうとするのですが、スプーンが長くてうまく食べることができません。
地獄では誰もが自分のことばかりを考えて、満たされぬ思いでいるのです。
一方天国のテーブルの上にも、同様にご馳走が並んでいて、地獄と同様に人々の片手に長いスプーンがくくりつけられております。
しかし天国では、この長いスプーンでとった料理を向かいの人の口に運ぶのです。
そして、料理をとってもらった人は、お返しに料理を運んであげるのです。
天国では、お互いが譲り合って、助け合って、皆が笑顔で満たされております。

私が努力して、いくら実績を出しても、心が満たされないのは必然です。
すべて自分のためにやっているのですから。
長いスプーンで、懸命に自分の口に入れようと頑張っているのです。
運良く少々口にしても、継続して満たされる事はありません。
37歳で出場した大会で優勝して、それなりに満足はしたのですが、私が優勝しても、教え子が好成績をおさめても、何か足りない思いがありました。
そんな時に、ある出来事が起きました。

スピリチュアル

41歳のときでした。
私は営業会社のサラリーマンですが、昼休みに営業車で瞑想をしておりました。
以前より悟りに興味があり、気が向くと瞑想をしておりました。
と、身体が勝手に動き出したのです。
その少し前に、自発功という自分の意志とは関係なく、身体が動くスピリチュアル体験の話を本で読んでいましたが、まさか自分の身に起きるとは信じがたいことでした。
私のゆがんだ姿勢を矯正するような自発功運動が始まったのです。
左右にねじったり、前屈したり、反らしたり・・・。
10分くらいして停止しました。

その2年ほど前より、霊感の強い方と交流があって、武術指導を受けていたのですが、その影響なのかもしれません。
その方に相談すると、「身体を動かしている方に聞いてみたら」とアドバイスをくださいました。
ペンを持って霊に質問する自動筆記という手法については、よく見聞きしておりましたので、ペンを持って、私の身体を動かしている霊の意志を確認しました。
すると、誰かということには答えることなく、武道の技と心のアドバイスが示されました。
ノートに明らかに私より達筆な文字で、具体的指示が書かれるのです。
「背中を押せ」とか、「背中を切れ」とか、「背中を持ち上げろ」とか。

そこに、示されたアドバイスは、私が逆立ちしても知る事のできない内容でした。
自発して身体を動かすと、ガイド(指導霊)が私の身体を使って、技を示してくださいました。
「なるほど」と腑に落ちました。
それから、毎朝4時過ぎには起床しての早朝稽古が始まりました。
その時間に、ガイドが私を起こすのです。
自動筆記よって、ガイドからのアドバイスは続々と与えられました。
私は、それぞれを自発しながら検証して、理解する努力をしました。

従来私の動きは、身体の回転で出力するスポーツ的な、格闘技的な動きでした。
分かりやすく説明すると格闘技のパンチは、膝が入り、腰が回って、肩が回って腕を伸ばしながら、スポーツ運動的に突くのが普通なのですが、ガイドの教えによって、背中側をグーンと伸ばしたり、縮めたりしながら全身の連動で突いたり、受けたりするように指導されました。
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全身の連動で技を出す

こんな発想は、私が関わってきた世界では、あまり知りません。
ただ、ロシア人のコーチに教わっていたときに、メディシンボールや軽めのバーベル、鉄アレイを使って全身を連動させるトレーニングを行いました。
ただ、コーチより教わったトレーニングも、あくまで格闘技の試合で生かすためのもので、競技の要素を多分に含んでおりました。
試合を前提としておりますから当然ですが。
ガイドからの教えはルール等関係なく、心と身体の自然な表出です。

合わせて、心や整体の指導も加わりました。
武道や整体、日常生活の中での行動と心の一致を指導されました。
心身一如ですね。
ゆっくり動きながら身体の動きを認識し、心の中で言葉を使って確認するのです。
これをヴィパッサナーと言います。
ヴィパッサナーについては、後ほど具体的に解説させて頂きます。

ガイドの指導を受け、若手との組手で技のレベルの高さを確信した私は、腕試しに43歳で試合に出場しました。
すると難なく春の予選大会で優勝し、秋の本大会に出場することになったのです。
最年長です。
強豪ぞろいの本大会でも、あれよあれよと言う間に勝ち進み、ついに決勝戦のマットに立ちました。
しかし、決勝戦では、相手選手の大技をまともに喰らい、KO負けを喫してしまいました。
とはいえ、43歳のおじさんが、大きな大会で準優勝してしまったのですから一大事でした。

悟りと驕り

私は、武道にしても、整体にしても、自分の力ではないのに、自分のパフォーマンスが向上したように勘違いしておりました。
手合わせすれば、年輩のおじさんが若手を翻弄してしまい、施療をすれば、痛みの症状が緩和されてしまうのです。

元々野心家で、単純な私は、この特殊能力を自分のものだと勘違いしてしまいました。
私の身体を通して表現されるのですから、私自身自分でやっているような錯覚に陥りました。
驕りです。
しかし、これは私のものではありません。
私と波長の合ったガイドによるものです。

ガイドのアドバイスは心の修業について、最も厳しい指示が出されました。
私は、人としてのゴールと言える、悟りを得たいと思うようになりました。
悟りとは、禅や八正道(注1)、五戒(注2)の実践によって脳回路の変換が起こり、迷いが消え、常に自分が行っている行動を心が認識していて、妄想が皆無となった状態です。
左脳と扁桃体による思考感情主導回路から、右脳による直感・集合無意識回路が開けた状態です。

単純な私は、自分が悟りを目指すスーパーマンになったような気になり、特別に選ばれた者のように増長しました。
般若心経を唱え、武道の稽古に励み、五欲(性欲、財欲、名誉欲、食欲、睡眠欲)をコントロールし、整体で施療するという、表向きは聖人君子のようにふるまい、自分自身も大変な道を歩んでいるように信じておりました。

しかし、実際にはエゴが増長して、悟りを目指す特殊能力者のすごい私は、人のアドバイスを軽く見て、周囲を見下し、自分がやって(やらされて)いることは絶対的に正しいと信じておりました。
これが、その後の大きな苦の原因となっていくのです。
全く、勘違いと増長は私の最大の欠点で、人生というのは過ちを正すチャンスが苦しみとともに繰り返し訪れてきます。

道場では、私の技が絶対的に正しいという不遜な態度が、プライドの高い武道の先生の怒りを買いました。
会社では、店長という立場ですが、計算高い社長のお嬢様の態度が鼻につき、人道を無視した人斬りに嫌悪感を抱くとともに、自分もいつ首を切られるかもしれないという危機感を抱きました。
家庭では、やはり我の強い妻のレジャーやアイドルを愛する軽さが相容れず、すれ違いの日々が続きました。
元々自己顕示欲の旺盛な私も、自分の写し鏡のような3人の要素を大いに持っていたのですが、この出来事以降は、他人の世俗的な行動が許せなくなってしまったのですから勝手なものです。

私はこの我の強い、私の写し鏡のような3人と、ぶつからずに付き合うことが大いなる関門であり、心の成長の絶対条件でした。
道場、職場、家庭と、私の3大拠点の中心人物の3人です。
思考感情主導の彼らに、思考感情で付き合うと必ず不協和音が生じます。
お祭りで酔っ払いや不良が、からむ相手を探しているところに、ジロジロ見ながら歩いて行く様なものです。

客観的視点を失うことなく、ぶつからぬように付かず離れずがポイントです。
「一切皆苦」、その状況があまりにも苦しく、先生、お嬢様、妻と思考することなく「今ここ」の感覚で、うまく付き合うことも、時間はかかりましたが徐々にできるようになっていきました。
「特殊能力者の悟りを目指す凄い私」という勘違いに気付き、心から頭(こうべ)を垂れて、謙虚な姿勢で接するのです。

ガイドの指示で、八正道、五戒の実践、五欲の抑制を真摯に取り組みました。
思考も感情もなくし、あるがままに、ニュートラルに「ただ在る」という姿勢でいれば、自然ととるべき行動が直感として湧き上がってくるのです。
それは、おそらくガイドとは直接関係のない、集合無意識からのものだと思っておりますが。

その頃になると、ガイドからの直接のアドバイスは自動筆記ではなく、心に言葉で示されるものと、イタコのように私の口頭による伝授と、2つの伝達方法に変わっておりました。
私が、ガイドのアドバイスを得ようという意志を持つと、心によっても、口頭によっても、受け取ることが出来るようになりました。
しかし、私の心に欲があると、アドバイスも正確に受け取ることができません。
私のエゴ(思考、感情)が望む答えが引き出されてしまうのです。
神事を行う巫女さんが、清らかな心と身体を保つのは、清らかな存在にのみ高潔なサポートが与えられるに違いないからでしょう。

「坐禅」の「坐」という文字があります。
土の上に人と人が向かい合います。
一方の人は宇宙と一体で、自然と調和した心です。
一方の人は損得を思考して、感情と連動した、自己優先の心です。
前者が主導の心は、平和で愛に満たされております。
後者が主導になると、争いが絶えず、不安と不満で落ち着くところがありません。
これは理論でわかっていても、どうにもなりません。
脳回路を変換させる以外無いのです。

注1八正道   正見(しょうけん)正しく見る事、正思(しょうし)正しく考える事
 正語(しょうご)正しく語る事、正業(しょうごう)正しい行い
 正命(しょうみょう)正しい生き方、正精進(しょうしょうじん)正しい努力
 正念(しょうねん)正しい精神集中、正定(しょうじょう)正しい心の安定
2五戒 生き物を殺してはならない、他人のものを盗んではならない、
 みだらな事をしてはならない、嘘をついてはならない、
 酒を飲んではならない

エゴ主導の現代社会

現代社会は言わずと知れた資本主義メインの、弱肉強食の社会です。
強いものが勝ち、弱いものが負けるという。
欧米列強が15世紀あたりから、現代に到るまで、圧倒的な武器で優位を築いたエゴの強いものが優位に立つ社会です。
武器、お金、情報と、力の種類は時代とともに変化してきましたが。

幸せは五欲(財欲、名誉欲、食欲、性欲、睡眠欲)を満たすことで得られると妄信してもがき、結局心は満たされることのないまま理由(わけ)が分からずにいるのです。
これを無明といいます。
私がいくら栄光を手にしても、空虚だったのはまさに無明です。
状況は常に変化しており、お金が満たされたら名誉が欲しくなり、名誉が満たされたら高級ディナーを欲し、高級ディナーにありつけたら容姿端麗な恋人が欲しくなり、素敵な恋人とデートしたあとは静かに休みたいのです。

しかし、全てが満たされても何かが足りず、「もっと、もっと」ともがき続けるのです。
思考感情は欲を求め、不満を解消したがります。
永遠に。
ということは、五欲が極まっても、不安が解消されることはないでしょう。
エゴ(思考感情)とは、そういう性質のものです。
不安、後悔、願望、羨望と、「今ここ」にはいないのです。
今ここ、において楽になりたいのなら、エゴを消滅させる以外ありません。
私は、今まで獲得した数々のトロフィーたちを、全て捨ててしまいました。

純粋に、「五欲を無くす」という正しい希望を持つと、そのように人生は展開するように促されていく様な気がします。
私の場合だと、生活が非常に忙しい状況になって、思考する物理的時間が減りました。
先に書いた、3人の写し鏡のような人たちとの葛藤も、私が受容しなければ和解できません。
実際に、問題と直面しているときは非常に苦しいのですが、自分のエゴが消えれば難なく、いえ何とか受容できるのです。

問題がおきたときに、問題を問題とせずにいるときと、前向きに解決しようと努力しているときと、非常に苦しく感じているときとがあります。
エゴが消えているときは、どうすれば良いか、スムーズに直感が働くことが多いです。
調度良いタイミングが来るまで、触れる必要も無いのです。
しかし、エゴが前面に出てくると、「面倒くさい」という怠け心やプライドや、あせりが先走って、結果がベストではなくなります。
たいていは、何とかしようともがくのですが、問題に触らぬほうが、自然と跡形も無く解決してしまうことも多いのです。
あるがままです。

心身一如   

思考では、スムーズに身体を動かすことはできません。
冬の朝、布団から中々起き上がれません。
「起床」という直感意志が働き、初めて自然に起きあがれるのです。
コツがあります。
布団の中で、感覚を確認しながら、背中の伸縮運動をやってみてください。
伸びながら吸って、縮みながら吐くのがよいでしょう。
走り幅跳びや高飛びの助走のように、起床の助走になります。
徐々に心身が目覚めて、「起床」という直感が自然と湧き上がってきます。
そうしたら、「起床」を大脳が確認する前に、無理なく起床し始めているのです。

この感じる感覚を大事にして、行動的な人間になることは、健康で幸せに生きるために必要不可欠です。
ところが人間は、極力怠けることができる道具の開発に執心してきました。
エレベーター、エスカレーター、自動ドア、車、飛行機と・・・。
この、身体を使わずにパフォーマンスが達成されてしまう道具たちのおかげで、人間は快適さを享受できるようになりました。
しかし、身体が怠けて思考する時間が増えたことで、精神的な負担や異常を抱える人が増えているのも事実です。

今回解説させて頂いたポイントは、心と身体の統一です。
心身一如です。
心が病んでしまう原因は、思考感情の一人歩きです。
「身体を動かして、感じて、確認する」というヴィパッサナーを丁寧に行うことで思考感情を排除します。

思考の一人歩きの2つのエピソードを紹介させて頂きます。
ひとつは、小学生の頃ピアノを習っていて、年に1度発表会が文化センターとか、市民会館とか、わりと大きな会場で行われていたのですが、私はこの発表会で自分の指が複雑に動いているのを不思議に思ってしまったのです。
普段はそんなこと気にもしません。
しかし、思考が本番で、そういう不安を想起させたのです。
恐怖を感じて、それほど難しくない箇所でひっかかってしまったのです。

もうひとつは、少年野球での出来事です。
小六のときでしたが、私はショートを守っておりました。
高いバウンドの打球が私のところへ飛んできました。
通常なら、打球の状況に合わせて、すかさずダッシュして捕りに行くのですが、私は恐怖から打球を待ってしまったのです。
「感じて、動く」が、「思考して、動く」になってしまったのです。
「待った方が確実」とエゴが囁いたのです。
私はバウンドに身体を合わせることができず、捕りはぐってしまいました。

他にも似たようなことは多々あったのですが、左脳による思考と、扁桃体による感情で失敗してしまった忘れることのできないエピソードで、「どうして俺は緊張しやすいんだろう?」と、ずっと引っかかっておりました。
長年にわたって武道を修業したり、子供が不登校になったことで心理カウンセラーの資格を取ったり、整体院をお手伝いするために整体師の資格を取ったりしましたが、ガイドの導きで心と身体の勉強をしたことで、思考感情の暴走だったと腑に落ちたのです。

ヴィパッサナー

私のエゴ主導の、自分が主役になりたかった半生と、スピリチュアル体験をツラツラと書いてきました。
真に楽に生きる道は、このエゴ、すなわち思考感情を消す以外無いと理解いただけたでしょうか?
私は瞑想から心身統一をつかもうと、スタートは瞑想でした。
お寺で坐禅を組んだり、本を参考に瞑想をしたり・・・
しかし瞑想は、私自身がスピリチュアル体験に翻弄されたように、指導者のもとで適宜アドバイスを受けながらの実践が必要なのではと思います。

人間はどうしても欲が先立つために、瞑想中に声が聞こえたり、顔や景色が見えたりすると、「もしや、特殊能力が身に付いたのではないか」とか、「何かに取り憑かれたのでは」と都合よく解釈したり、恐怖におののくのです。
私がそうでしたが、傲慢な心が芽生えるのです。
その点、身体を動かしながら意志を心の中で言葉にして確認し、心と身体を統一していくヴィパッサナーは、安全に心身統一を身につける方法だと思います。
リンク ↓ ↓ ↓
ヴィパッサナー動画

まず、基本姿勢をつくります。
リンク ↓ ↓ ↓
基本姿勢動画

アゴを引きながら、首を後方斜め上に引き上げます。
肩肘を肩甲骨を寄せるように落とします。
仙骨を丹田を押し込むように前傾させます。
結果的に脳が丹田の真上(身体の真ん中)に来るようにします。

この基本姿勢は、直感が得られやすく、更にこの姿勢を保つことが結構大変で、集中せざるを得ないため、妄想が必然的に減ります。
基本姿勢を保ちながら、「抜き足、抜き足、差し足、差し足、忍び足、忍び足」と右脳で感じて左脳で確認しながら、ゆっくり歩いて行きます。

ポイントは、「感じる」ことです。
足裏の重心移動、背中の伸縮、呼吸、瞬間瞬間に感じた対象の感覚を、実況中継するのです。
感じることで、右脳主導の脳回路に変換します。
通常は、左脳の思考回路が主導しており、感じる努力をしていても、すぐに損得勘定や怠け心が働き、思考妄想がしゃしゃり出てきます。
気を抜くと、いつの間にかエゴに乗っ取られているのです。
そして、喜怒哀楽の感情に翻弄されております。
基本姿勢を保つことで、思考をする余裕を無くすのです。

ボクサーがフットワークを使いながら絶えず身体を動かすことや、バレーや野球選手が小刻みに身体を揺らしながらボールを待つのは、パッと身体が動けるようにするためですが、身体を揺らして感じることで、思考が消えて、反応速度が格段に早くなります。
また、エネルギーも動きとともに循環して、居着くところがありません。

楽に生きる

心を不安にしているのは思考や感情です。
ヴィパッサナーの、「感じて確認」で、脳回路を右左脳バランスよく使えるようにして、思考感情を減らし、悩みに執心することなく、楽に生きられるようになります。

川の流れは、時間をかけて形づくられてきましたが、心の回路も川と同様に、独自パターンが定着しております。
川の底や岸にたまったゴミを掃除して、二股に分かれ、流れの滞っているもう一方の川の流れもスムーズにしてやる必要があります。
その方法がヴィパッサナーです。

動画のように、基本姿勢をつくり、時間を決めて取り組むのは非常に良いでしょう。
しかし、なかなか決まった時間がとりづらい方もいるでしょう。
そんな方は、5分でも10分でも、この基本姿勢を作りながら練習して、日常生活のなかに、「認識して、感じる」を取り入れると良いでしょう。

たとえば、背中が丸くなっているのに気がついたら、「背中、伸ばす、伸ばす、伸ばす」と実況し、呼吸を認識したら、「おなか、膨らみ、膨らみ、膨らみ、縮み、縮み、縮み」と心の中で実況します。
こうして、思考感情というゴミを掃除して、冷静に「今ここ」を認識できる、「感じる」という回路を開いてあげるのです。
こちらがスムーズなると、無明がゆえに背負っているつもりの欲や苦という荷物が軽くなり、楽に生きられるようになります。

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