小説「聖の青春」ほっぺたさわってもらい
「わかるんか。漢字なんか一つも読めんじゃろうが」と伸一はある日、聖に尋ねた。
「漢字は読めんけど、でも大体のことは前後を何度も読みかえせばわかるんじゃ」と聖は自慢げに答えた。(本文より)
村山聖(むらやま・さとし)は病床で父親に将棋を教わり、再入院後、はじめて将棋の本『将棋は歩から』を手にする。広島市民病院の院内学級の小学一年生である。極度の疲労や発熱が誘因となって起こる腎臓の機能障害。聖が幼い頃から戦ってきたネフローゼという病気は、当時、安静にすることが最も効果的な治療法とされ、少し回復しては体力を使い、発熱をするという悪循環に落ち入っていた。療養所に移り、聖は一日六時間、将棋の本を読む生活を送る。やがて、専門の月刊誌「将棋世界」と出会い、ますます将棋にのめり込む。
超初心者の療養所の子ども相手の将棋ではあったが、将棋本の読破、詰将棋の読解で聖は力をつけていき、アマチュアのトップクラスである大人を苦戦させる。このとき、わずか9歳。10歳になると、月に3回の外出日は将棋教室に通い、11歳で中国地方の子供大会で優勝。全国トップクラスのアマチュアたちが集う広島将棋センターに修行の場を移し、めきめきと腕を上げていく。昭和56年、小学5年の聖は全国小学生将棋名人戦のため、上京する。が、早々に破れてしまう。このとき、同世代の羽生善治も優勝を果たしていない。
成長とともに体力がつき、薬の進歩により症状が抑え込めるようになり、退院。3ヶ月後に府中小学校を卒業。聖は寄せ書きに「努力」と書き残す。彼にとって、将棋に対する努力は、せずにはおれないものだったろうけど、病気と折り合いをつけることも努力そのものだったろう。
「大阪にいって、奨励会に入りそしてプロになる」という決意を固める聖。このとき、まだ中1だが、まずプロ棋士に弟子入りしなければばならない。広島将棋センターのつてで聖は森信雄に弟子入りし、奨励会試験で好成績をあげる。ところが、森に弟子入りするまえに相談した将棋教室のつながりで、聖は他の人物の弟子という扱いであることが発覚。本人も知らないことだった。面子をつぶされたということなのだろう、話はこじれ、その年、聖は奨励会に入れなかった。
「僕は病気で死ぬことだって恐くない。恐いのは人間じゃ。人間だけじゃ」 そう言ってとめどもなく流れる涙をぬぐおうともせずに泣き叫んだ。
「大人は卑怯じゃ。どうして、どうしてじゃ」
頭がおかしくなってしまうのではないかと心配になるほどに、聖は泣いて泣いて泣きじゃくった。(本文より)
療養所の生活には身近で日常的な死があり、幼い頃から死に近いところで過ごしてきた聖は、人生には限りがあるということを強く意識していたのだろう。理不尽に出遅れてしまう一年間のことを受け止められないのも無理はない。悔しがって泣く聖を周囲の人々も胸がつぶれる思いで見ているしかなかったんだろう。どっちの気持ちを思っても苦しい。聖は体力を奪われるほどに泣きつづけ、ネフローゼを再発してしまう。森は、失意のどん底にいる聖の回復を待ち、大阪の自分のアパートに呼びよせる。学校が終わると定食屋で食事をし、関西将棋会館で将棋を指す毎日。ふたりとも風呂嫌いで顔も洗わないし歯もめったに磨かない。聖は爪を切るのも嫌がった。
「どうして、せっかく生えてくるものを切らなくてはいけないんですか。髪も爪も伸びてくるのにはきっと意味があるんです。それに生きているものを切るのはかわいそうです」と村山は言った。(本文より)
伸びすぎた髪を見かねた森は、ある日、聖の髪をつかんで床屋につれていこうとする。わんわんと泣き出す聖。ぎゃーぎゃー泣きながら抵抗する聖を森は床屋に押し込む。14歳の男の子としては、あまりない場面かもしれないけど、その後、けろりとしていたというから、かわいい。
翌年、聖は無事、奨励会に入会。だが、体調を崩し、入院。森は、聖の下着の洗濯もし、聖が読みたいとリストを作った少女漫画を探して歩くなどして尽くすが、聖の体調を気づかい、広島に帰す。月に2回、新幹線で大阪に出て、将棋を3局指して、とんぼ返りするという生活で、聖は昭和60年1月には1級に昇進し、59年度関西奨励会の最多連勝賞と最高勝率賞を受賞する。
中学を卒業後、進学はせず、8月に初段昇進。同年の暮れ、聖は大阪での一人暮らしを決意する。木造モルタル二階建ての前田アパートの二階、四畳半、風呂なし、共同トイレ、家賃1万3千円。将棋会館にも森のアパートにもほど近いその部屋で、聖は漫画と本に埋もれるような暮らしを始めた。このとき、聖は森のマンションの合鍵を渡される。
「村山君がなあ。このあいだどうもようすがおかしくてなあ。二人で連盟を出て、どうしたんやって聞いたんや。そしたら、急にワンワン泣き出しよってなあ。なんかあったんかって問い詰めたら、森先生僕汚いですかって泣きながら聞くんや。いや、わしよりは汚いことないと思うけどなあ。対局のときはちゃんと背広もネクタイもしとるし。ええんやないかって言うたんやけど、そしたら君は汚いし臭いから皆対局のするのをいやがっているんだって言われたってワンワン泣くんや。冴えんなあ。だから、ちっとも汚なないし臭ないでって言ってやったら、やっと泣きやんでくれてなあ。大崎さんどう思う?わしら冴えんかねえ」(本文より)
聖は、奨励会在籍三年弱、17歳で新四段となりプロデビューしていたが、森の前では、思うぞんぶん泣く。そして、ひととおり泣いてしまえば、あまり根拠のない慰めにも、泣きやんでしまう。ただ、そばにいて、話を聞く森の気持ちもあたたかいし、聖もいじらしい。そんなふたりの思いがくたくたと折りかさなって、読んでいてなんとも切なくなる。ここだけではない、なんどもなんども、いろんな場面でそんな気持ちになって、私もこうして書くことでしか持って行き場がない。
いちばん好きなエピソードを書く。
「この人大崎さんや、ほっぺたさわってもらい」と森は言った。私は何のためらいもなく手を伸ばした。そのほっぺたは柔らかくそして温かかった。(本文より)
赤ちゃんや、小さな子供に見受けられる、はち切れそうなほっぺたが、私は大好きだ。つい目で追ってしまうし、許されることなら、かけよって、ほっぺたをさわりたい。よって、大崎がうらやましくて仕方ない。あいさつ代わりのように「ほっぺたさわってもらい」という森も、ネフローゼによるむくみで、まんまるい顔の聖が、かわいくてしょうがなかったんだと思う。聖の髪をときどき、洗ってあげたりもするのである。
寄り添う、ということを考える。もとをただせば、あかの他人なのに、縁あって師弟になったふたり。決して順調なスタートではなかった。体調を崩すと部屋に引きこもり、ひたすら動かずにいるしかない聖。それを気づかう森。聖は大人の足で5分で歩けるところを15分かけて、とぼとぼ歩いていたという。聖に歩調をあわせるように過ごした日々も森の結婚に前後して、変わってゆく。
聖はすでに24歳。若手スター棋士となっていたが、病気はつきまとったままで体調はすぐれない。それでも執念といえるほどに聖が目指していたのは、名人になること。当時、羽生善治が社会現象を巻き起こしながら24歳で名人の座についていた。
25歳。ついに聖はA級八段となり、名人位を争うトップ10に入る。
お金も名誉もいらない。頂点に立つ事、それだけだ。勝負の世界には、後悔も情けも同情もない。あるのは結果。それしかない。
これは聖が『将棋世界』によせた文章の一部だ。強く激しく、まっすぐな気持ち。反面、はやく名人になって将棋をやめたいと言っていたらしい。体力的にも精神的にも、命がけだったのだろう。その後、聖は東京に転居する。
東京に居をかまえた聖は、厳しい勝負の世界に身を置きながら、仲間と飲み明かし、麻雀にもあけくれる。体調を気づかうということではよくなかったのかもしれないけれど、同じような年頃のふつうの青年がしそうなことをちゃんと楽しんでいたと思うと、ほっとする。病状にふりまわされて、先に進めない時間が過ぎていったとしても、いつしか起きあがって勝ちにいく姿勢は、ただごとではなかっただろう。こうも信念を背骨のようにして。
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