考えごと 2023/09/08

noteを高頻度で更新することはなかなか難しい。今回久しぶりに筆をとったのは、9/2-7で行った夏山縦走で色々と自分の人生について考えたことをまとめておこうと思ったからである。

山に登っていると、色々と考え事をする。体力に余裕が無くなれば目的地に着くことしか考えなくなるので、余裕があるうちは、だが。その中で思いついた他愛もないことを、メモしておく。

1、私という生き物と命の重み

今回登山するにあたって、私はこれまで抱いてこなかった思いを胸に秘めていた。それは、「死にたくない」という恐怖心である。今まで、そんなことを考えたことも無かった。雪山で滑落した時も、北岳山頂直下の岩場で仲間の滑落に巻き込まれかけた時にも、どこか他人事のように飄々としていた。何故そんな心理状態で居られたのか自分でも分からない。まぁ、多分何も考えていなかっただけだと思う。

しかし、私は来年から就職する。ということは来年以降は親の扶養から外れることを意味する。

ここで、少し過去を振り返らせて欲しい。私は保育園、幼稚園から始まり小学校を除き全て私立の学校に通った。両親は教育熱心だった。中学受験もした。正直、自分は受験に向いていなかったと思う。要領が悪く、頭の回転が遅く、頭の中はいつもおもちゃ箱のように散らかっている、そんな子供だった。それでも少しでも良い環境で中高時代を過ごせるようにと、泣きながら勉強させられた。今なら環境の大切さも、両親の思いも痛いほど理解できる。そして、彼らは共に公立の小中高から国公立の大学、そして大学院まで出ていたから、私立中高出身の私は当然ハードルが上がり、上位国立大学に行けと言われた。しかし結局、推薦で東京の私立に行く選択肢を選ぶことを許してくれた。大学時代は殆ど干渉は無かったが、重要なところで様々なアドバイスをくれた。結局甘えたままここまで生きてきたように思う。それでも、就活が終わった時は「お前の力だ」と言って喜んでくれた。本当は自分の力じゃない。親が用意してくれた環境のお陰だ。もちろん私自身で行動した結果でもあるが、それはあくまで環境が前提にあると言っていい。そんな両親は私の将来を楽しみにし、就職記念に普段は買わないような時計も買ってくれた。就職は、子育てにおけるゴールだと、満足げに語っていた。

そんな今、自分が死んだらどうなるんだろう?

ふと考えてみた。私は悪い未来を想像するのが得意だ。元がネガティブな人間だから。

親は放心し、泣き崩れ、絶望するだろう。想像は膨らむ。損壊した遺体との対面、通夜、葬式、火葬場の場面。喪主は父親が務めるのだろうか。

絶対にダメだと思った。死んではならないと。親より先に死ぬのが何よりの親不孝だと。世の中には様々な家庭があり、毒親と言われる親も存在する。そんな中、虐待もネグレクトもされず、社会全体の中では比較的恵まれた家庭でそれなりの教育を受け、就職も決まっているのに部活で行った山で死ぬ?雪山や南アルプスでの滑落がフラッシュバックする。また同じことが起こるかもしれない。今度は助からないかもしれない。有り得ない。急に登山が怖くなった。

そんな取り留めのない不安を抱えながら、とはいえ山への情熱を捨てきれず、、という複雑な心境で臨んだのが、今回の山行だった。結果無事に完遂し、危ない場面も無かった。本当に良かった。

これからは、もっと気を引き締めて、命の重みを肌で感じながら生きていこうと決意した。

2、自分の人生に必要なものとは

そして、自分の人生に必要なものについても沢山考えた。基本は、自分を大切にしてくれる人を大切にする。これに尽きると思う。

生きていると、的外れなマウントをとられたり、バカにされたり、訳の分からないことで貶められたりする。住んでる場所や自分の頭の悪さ、足りない知識についてからかわれたり、口にせずとも見下してるのが伝わってきたり。

本当にムカつくし、そんなことを言う(考えている)お前こそ、品も教養もない愚か者だろ!と思っても、そういうことを考えている時点で自分も同じ穴の狢であることに気づき、恥ずかしくなり黙り込む。この繰り返し。

目の前で断りもなく煙草を吹かされ、2対1で煙を顔に吹き付けられながら悪口を浴びたこともある。大切な友人をバカにされ、働いてもないくせに就職先の年収でマウントをとられ、親の職業や役職を聞かれて答えないでいると勝手に見下す態度をとられたりもする。最近そんなことが続いていた。

―全部無駄である。下らない。実にくだらない。

色んなことを言ってくる奴は消えない。これからも現れる。そいつらは、取るに足らない人間性と指先で拭き取れるような軽い言葉で構成されている、自分の置かれた立場を弁えていない勘違い野郎だ。でも、それについて言い返す時間も、クヨクヨ思い出して腹を立てる時間も無駄。なんならこうしてnoteに書き連ねている時間さえも、無駄なのである。なんの生産性もないのだから。

逆に、良き理解者も何人かいる。家族、そして数人の親友。親友とは全ての価値観を共有し、話し合うことができる。それは全く同じ考えを持つということではなく、理解し合うという意味において。簡単に聞こえるが、それができる友人の如何に貴重なことか。私にはこれで十分だ。これ以上何を求めるというのか。

私は、人当たりは良いとよく言われるが、少し深く付き合うと、その実とんでもなく不器用で要領が悪くて、自己肯定感が低くひねくれた人間であることが分かる。その反面、単純で浮かれやすく、幼稚園児のような純粋さも持ち合わせた、非常に扱いにくい人間だ。そんな「しゃぼん」の色のように移ろいやすく分かりにくい私の人間性を受け入れ、対等に接してくれる親友と家族には本当に感謝しかない。

人は無くて七癖という。クセが強いと人に言うその人にも7個はクセがあるのだ。もちろん私にも。それを分かった上で仲良くする。そんな難しいことをいとも容易く受け入れられる、超絶貴重な親友に出会えたことが、人生の奇跡でなくしてなんであろう。これ以上は何も要らない。

そんな訳で、私は人間関係において無駄を削ぎ落とすことにした。もっと自分のために、そして自分を大切に思ってくれる人たちの為に時間と金と労力を使おう。それが、限られた人生の中で生きていく意味なんだろうと思う。

3、〆

クサい文章を書いている自覚はある。でもそれを恥ずかしいと思うこと自体が幼い。なぜなら、全部本当のことだからだ。20年と少ししか生きていない青二才の戯言だと思うのならそれでもいい。今の私はこういう考えだ。これから考え方が変わるのなら、それも自分だ。今まで、どれか1つを、どこか1つをくぐり抜けてきた。これからもそうだろう。

てなわけで、日付も超えたことだし、今回はこの辺にしておく。

それでは。

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