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CLUB VENUS

イビザのレイヴの熱狂を日本に伝えた人、またはロッキン・オン・のフォトグラファーとして知られていた久保憲司氏が、平田氏、紀平氏らの協力を得て始めたクラブ・パーティーが「クラブ・ヴィーナス」(当初のオーガナイズはマカロニ・ウエスタンと名乗っていた)。

クラブ・ヴィーナスにはほんとにびっくりさせられた。何度もしつこく書くが、あの「REZ」の年に「REZ」(アンダーワールド)のダレン・エマーソンを素早く呼んでいたのだから!

リストを見てもらえばわかるように、当時特に印象深かったアーティストの来日の半分はクラブ・ヴィーナスがセッティングしていて、私はクラヴィーが大好きだった。私をこうしてずっとクラブに通わせた理由のひとつは、クラヴィーが毎月あったからだ。

久保さんは「僕はテクノはダメやけど、可能性はあると思う。」そう言いながらテクノのDJもテクノじゃないDJも構わず呼んでいた。ORBITALとSYSTEM7の時には外にブースを作り、休んでいる人達の前でプライマル・スクリームを流していたその光景は今でもよく覚えている。その場所が渋谷だということを忘れてしまうほど、まるで外国みたいにカッコいいワンシーンだった。

アンディ・ウェザーオールが来なかった時も、私はアンディが大好きで楽しみにしてはいたけれど、そんなことはもうどうでもよくなっちゃうほどいいパーティーを体験できた。どっちがテリーでどっちがビリーだかなんて全然わかんなかったけれど、とにかくいいパーティーを運営してくれたクラブ・ヴィーナスが何よりラブだった。イビサ・ナイト(この時のフライヤーの写真がとてもいい)だって人はあんまり集まらなかったけれど、音楽と雰囲気がジャンルとか居場所とかそういうものを越えて、良質な空間を作っていた。私はそういうクラブ・ヴィーナスにいつも楽しませてもらった。だから仕事帰りに遊びに行き、朝からまた仕事、なんてことが当たり前だったにもかかわらず、毎回足を運んでいた。

そういう思い出があるからこそ、その後の「デリック、ジェフ、リッチーの売れ線3人を交互に呼ぶ大バコ・テクノイベント」と化してしまった状況は少し寂しい。アンディーで儲けた金でテリーやビリーを呼びたい、お客さんが入る事がわかっているなんてオーガナイザーとして全然面白くない、と言ってのけた頃のクボケンさんはカッコ良かったな、とても。

クラブ・ヴィーナスに感謝を込めて。

(SUGERSWEET8号 1996年7月 )

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