「服1着で1年通す人を初めて見た」「ラクよ。着るもののこと考えなくていいから」

 今思えばじつにユニークな人だった。なにしろ服というものを(コートを別にすれば)1着しか持っていない。厳密に言うと、薄地ウールのグレーのスーツ1着だ。あとはブラウスとセーターが1枚ずつ。
 彼女はきれい好きで、服はよく洗っていた。スカートも。夜お風呂に入ったときに洗って干しておく。生地が薄いので、朝になれば乾いていると言っていた。アライグマみたいに始終洗っていた。
 服1着で1年通す人を初めて見た。わたしが驚いてそういうと、「ラクよ。着るもののこと考えなくていいから」と、にっこりした。といったからといって、締まり屋だったのでも、お金がなかったのでもない。
 それどころか、気前のよい人だった。知り合ったばかりの貧乏学生のわたしを大通りの靴屋へ連れて行き、ドイツの冬には必需品だから、と言ってブーツを買ってくれたり、食事をご馳走してくれたりした。
 ある日、いつものように彼女の手紙を開いたら、挟まれていた写真がぱらぱらと床に落ちた。あわてて拾いあげると、なんとくりくり坊主の彼女が写っていた。
 一瞬わたしはなんのことかわからなかった。手紙には、出家したとかんたんに記されていただけで、そこにいたった心境などはわからなかったが、最後の1行はずっと心に残った――剃髪する前の晩、母に泣かれました。まだ30歳にもなっていなかった。
 日本に戻ってから1度お寺に彼女を訪ねたことがある。(略)頭を指して、「すぐ伸びちゃうから、剃るのが大変」と笑った頬は輝くようだった。
『肌断食 スキンケア、やめました』
<p.22 美肌の産地は僧院?>より

 見たこともないTさんの笑顔が鮮やかに浮かび、忘れがたかったエピソード。

 ※このエピソードが記されているのは2013年版書籍のみです。せっかくだから読み比べてみようと図書館で『最新版』を借りてみたところ、Tさんの人柄に関する記述はほぼなくなっていました。本題である「せっけん洗顔以外のスキンケアをしていない彼女の肌がとびきり綺麗だった」を伝える部分(引用外の描写)がメインで残されています。

ありがとうございます。頂いたサポートは全額、素敵な記事へのサポートに使わせて頂きます。