日の丸にとりつかれているのは誰だ?

RADWIMPSの新曲『HINOMARU』が話題だ。

【高鳴る血潮、誇り高く】【気高きこの御国の御霊】【日出づる国の御名の下に】などといった古めかしい言葉を多用した歌詞が、「まるで戦時中の軍歌や愛国歌のようだ」と批判されているのである。

この事実を初めて知ったとき、私は「またかよ」と思った。今から四年前、シンガーソングライターの椎名林檎が『NIPPON』という楽曲を発表したときにも、同じような問題が発生していたからだ。当時、林檎は諸々の批判を「貧しい」「日本人から右寄り云々と言われたのは心外」「揚げ足を取られたと理解するほかない」と突っぱねていた。だが、RADWIMPSのボーカルで作詞・作曲を担当している野田洋次郎は、それらの批判を受けて「傷ついた人達、すみませんでした」と謝罪文を公開した。

個人的には謝る必要はなかったと思うし、むしろ、そのことがアーティストとしての責任感のなさを露呈してしまっているように感じた。“戦争”という言葉が単なる過去の記憶ではなく、これから現実として起こりうるのではないかという昨今の不穏な情勢において、若者に少なからぬ影響力を持つバンドが戦時中に国民の戦意を煽った"軍歌"を匂わせる言葉で自らの愛国心を高らかに歌った曲を発表することの影響について、まったく想像できていなかったのか。そんな時代の状況を理解したうえで、この曲を発表したわけではなかったのか。なんとも御粗末な話である。

だが、今回の本題はそこではない。

この一件を受けて、インターネット上では様々な意見が飛び交った。ヒットチャートの常連が、これほど隙のある楽曲を発表してしまったのだから、当然の事態といえるだろう。だが、それらの意見を見ていて、私には少しだけ引っかかったことがあった。というのも、「この人たちって、『HINOMARU』への批判と称して、自分と相反する思想をぶん殴っているだけなのではないか?」と感じたからだ。

本来、RADWIMPSが批判されるべきは、現代という時代の流れを読めなかった無邪気さと楽曲の影響に対する想像力の欠如、そしてすぐさま自身の作品について謝罪してしまった無責任さにある。それだけである。現時点で、RADWIMPS(ないし野田洋次郎)がやったことは、「『HINOMARU』という楽曲を発表した」「楽曲で傷ついた人たちに対して謝罪した」の二点だけなのだから、他に言及のしようがない。

例えば、過去に野田が同傾向の楽曲をリリースし、愛国心のロマンティシズムで若者たちを魅了しようとしていたというのであれば、まだ分からなくはない。その思考には一貫性が感じられる。だが、現時点で取り上げられているのは、今回の『HINOMARU』だけだ。それなのに、どういうわけか、この『HINOMARU』という楽曲のリリースを受けて、野田がどういう思想の持ち主で、この楽曲を使って何をやろうとしていたのかについて、一方的に決めつけている人が少なくない。それが私には分からない。RADWIMPSといえば『前前前世』(2016年)が最も有名だが、彼ら自身は2003年にメジャーデビューしている。『前前前世』以前にも何度かヒットチャートに躍り出た実績のある中堅バンドだ。なのに、それらの経歴について触れている人は、あまりにも少ない。多くの人たちは『HINOMARU』に夢中で、それ以外のことなどまるでお構いなしだ。

この件について、ライターの武田砂鉄氏が興味深い話をしていた。なんでも野田氏は帰国子女で、思春期をアメリカで暮らしていたのだという。……ここからは完全に想像で書くが、海外での生活が長かったという野田氏には、日本で生まれ日本で育っている人たちとは、言葉に対する感覚がまるで違っているのではないだろうか。また、海外での生活が長かった野田氏は、それ故に日本人でありながら日本に対してなんらかのコンプレックスを抱いていたのではないだろうか。その結果、『HINOMARU』という軍歌のような古めかしい言葉を採用した歌詞で愛国を歌ってしまったのではないか……と。いわずもがな、これは完全に想像である。邪推である。ただ、これがダメだというのであれば、Twitterで野田の信条を勝手に決めつけて批判している人たちだって、似たようなもんだ。そういえば武田氏も……彼については他に書く人がいるらしいので割愛する。

ところで、騒動後に行われたライブで、野田氏が謝罪文を公開した理由を語ったらしい。なんでも「韓国人のファンから「親にライブに行くな」と言われた」というメッセージを受け、その人がなんとかライブに来られるようにと考えた結果、あの謝罪に至ったのだという。これが事実かどうかは当事者ではない私には分からないが、なるほど、当時の愛国歌・軍歌を思わせる歌詞によって日本人ではない人たちを傷つけてしまう可能性は確かにあった。そして、この話が、野田氏の謝罪文を受けて「誰も傷ついてなんていない」と反論していた人たちの視野の狭さを証明することにもなってしまった。想像力の足りなさ合戦だ。

否、そもそもの話として、この件を批判していた日本人はさして相手にされていなかったような気がする。そう考えると、【この曲は日本の歌です】【どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です】と殊更に日本人であることを強調した謝罪文の理由も分かる気がする。

なお、ここまでの散文的な話をヌキにしても、『HINOMARU』の影響を最も受けることになるだろうファンに「この歌詞にはこういった問題点があるよ」ときちんと届く言葉で伝えるのが本来の評論のあるべき姿であるにもかかわらず、最初から野田氏に対してファンにヒステリックなリアクションを取らせてしまいかねないほどに否定的な意見を呈しているプロフェッショナルたちは、本当に何のために自らの意見を広めているのか分からない。あまつさえ【謝れ、なんて言ってないのに、謝られるのは困る。困っている横でファンが「謝らせるなんてヒドい」と活気づく】などと表現した武田砂鉄氏には、どうにも納得できない。いや、先の話の流れでいえば、そもそも謝っている相手が違っていたわけだが……。

こちらからは以上です。

追伸。『DADA』はいい曲なので、皆で聴こう。

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