おぎやはぎ「結婚詐欺師」(2002)

「お前がやりたいと思っていることは、俺、出来るだけやらしてやりてえから」

「○○になりたい」「○○をやってみたい」などという系統の漫才が披露されるたびに、不思議に思うことがある。いざネタが始まると、片方がボケ、片方がツッコミというように役割が分担されるのに、どうして最初の「○○になりたい」「○○をやってみたい」というやりとりだけは、何の問題も起きることなくスムーズに展開するのだろうか、と。

無論、それが漫才であることを思えば、そんなところで話が行き詰まってしまってもしょうがないということは分かる。肝心なのは、この後に始まる怒涛の掛け合いだ。だが、それはあくまでも、進行上の言い訳でしかない。ボケがボケであるならば、ここでもボケるべきであり、ツッコミがツッコミであるならば、ここでもツッコミを入れるべきなのである。素直に提案し、素直に申し出を受け入れている場合ではないのだ。

そんな漫才の都合の良い導入部分に一石を投じたのが、おぎやはぎの『結婚詐欺師』である。とにかく小木の第一声が素晴らしい。

「俺ね、最近ね、結婚詐欺師になろうかと思ってるわけ」

このあまりにも唐突でムチャクチャな提案に、観客は笑わざるを得ない。そりゃそうだ。やれ「ファーストフードに行きたい」だの、やれ「ファミレスに行きたい」だの、やれ「彼女の父親に結婚の許しを得たい」だの、日常風景やフィクションで描かれがちなシーンをテーマにした漫才が横行している時代に、まさかの結婚詐欺師宣言である。本来、憧れを抱くような仕事ではない……もとい、仕事ですらない(※犯罪である)。友人に向かって、宣言したり相談したりすることでもない。だから違和感がある。だから笑える。

だが、ここで着目すべきは、これに対する矢作のリアクションである。

小木の反社会的な宣言に対して、相方の矢作も素直に受け入れることを躊躇する。当然だ。ついさっき、声を合わせて観客に向かって挨拶をしていた相方が、大々的に犯罪行為に対する羨望の旨を宣言したのだから、素直に受け入れられるわけがない。しかし、矢作はここで突っ返そうとはせずに、冒頭の言葉とともに小木の要求を呑み込んでみせる。その姿を見て、観客はまた笑い声をあげる。そんなに軽いトーンで受け入れてしまっていい程度の提案ではないからだ。この軽さに、従来の漫才における、あまりにもあっさりと提案を受け入れる御都合主義に対する皮肉を感じるのは……私だけかもしれない。

ところで、ひょっとしたら、この二人の反社会的なやりとりを見て、腹を立てる人間もいるかもしれない。「どうして犯罪に手を染めようとしている人間と、それを助けようとしている人間のやりとりを見て、観客は笑っているんだ」と。「結婚詐欺という許されざる犯罪行為を真剣に理解していないのではないか」と。だが、おぎやはぎの漫才を見て観客が笑っているのは、彼らが結婚詐欺師の卑劣さを理解していないからではない。むしろ、観客に確固たる常識があるからこそ、彼らのしれっとしたやりとりを笑うのだ。そのやりとりに、常識という名の抑圧からの解放感を獲得するのだ。

なお、肝心のネタについてだが、小木が結婚詐欺師になるための基本的な技術……どころか、ごくごく普通の会話すら成立させられず、箸にも棒にも掛からない様が笑いどころになっている。そして、最終的には「女を騙すくらいだったら、女に騙されたい」と、イタリア人のようなことをのたまってみせる。そんな小木に矢作を感心し、次の台詞でもってネタを終わらせる。

「小木の好感度も上がったところで、この辺でネタを下げさせていただきます」

詐欺ではないにしても、何か騙されたような気持ちにさせられる漫才だ。

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