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物語について ①


自分にとって、創作の根源にあるものは「物語」です

物心ついた時から、物語と生きてきました。


一人っ子で、そのうえ友達を作ることがとても苦手でした。
親戚にも小さい子供がおらず、遊び相手はいつも母か祖父母でした。


完全に大人に囲まれて育ったので、幼稚園に入っても同年代の人達とどう関わっていけばいいのか全く分かりませんでした。

これはもう、どうにもならなくて、1年間ほど保護者同伴での幼稚園生活となったのでした。


やはり、一人で自由に遊ぶのが一番好きでした。

いつも一人で空想しては物語を作って遊んでいました。
空想の物語を考えて、それを何らかの形にすることが何よりの楽しみでした。

(成程、典型的な一人っ子の生態)


幼少期に描いた絵にはどれもストーリーがあって、今でもそれは思い出せます。


上に貼った絵は小さい頃に描いたものです。
この2羽のうさぎは親子で、


うさぎの子(右)「わーい!プレゼントもらった!開けちゃおう!」

うさぎのお母さん(左)「ちょっと、ご飯食べてからにしなさいよ〜」


というおはなしです。

いつも動物が登場人物でした。

人間が描けるようになると、コピー用紙に漫画のようなものをたくさん描いてはホッチキスで本にしていました。

シルバニアファミリーにも熱狂し、ストーリーを作ってその場面を人形達を並べて表現して写真を撮るという遊びをよくしていました。


小学生になると、空想の街のジオラマを作ったり、その街の新聞を書いたり、一人でライブハウスごっこ(どうやるんだ)やラジオごっこをしたり。
自分で言うのもなんですが、一人遊びのプロフェッショナルな訳です。延々と一人で遊べます。


少し話が逸れました。


とにかく妄想と空想

こういうタイプの一人っ子には、物語を作る事はご飯を食べる事くらい、ごく自然な行為なのかもしれません。

絵については、これは今もそうですが、実は「絵を描く事が好き」というよりは、「物語を表現する手段として絵を描いている」という感覚です。
「目的」というより「手段」だと捉えています。


音楽や文学にも非常に関心があり
自分なりに取り組んでみています。
これも物語を表現する「手段」だからです。
色々実験。

でもその「色々」が問題のようで


高校生の時だったか、将来やりたい事をその道の先輩である大人に話した時に、

「二兎追うものは一兎をも得ず、だよ」

と言われたのが今でも心に引っ掛かっています。

確かにいくつかの事をやっていますが、自分なりに取り組んでみてはいるものの、どれも中途半端です。

「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉が嫌いです。
なぜなら自分がまさにそうだからです。


「ね、だから言ったでしょう」
と兎が言うのです。
2羽の兎達は笑いながら逃げてゆきました。

足元を見れば、色々な事をやり散らかして何にもなっていない現状があるのみです。


それでも私には「物語を表現して届ける」というただ一つの目的があります。


作った料理に一番似合うお皿を選ぶように、
表現したいものに一番相応しい表現手段をその都度選んで使っていく事ができれば、それが一番良いと考えています。


何だかキリが悪いですが長くなってしまったので、続きはまた明日に。

拙い文章ですが、御覧頂き、誠にありがとうございます。

それではまた。

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