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「恋ボク」のナマ下書き原稿を開示してみる(社畜部分 ※約5万字)

2020/04/22

テレワークにも、ZOOMにも飽きてきて「辛い」という声が多く聞かれるようになった。

何か皆さんの「暇つぶし」となるようなことができないだろうか?

「アフターコロナ」「withコロナ」なnoteを書いてもスベりそうだし、そんな意識の高い文章を書く力量とモチベがそもそもない。

そんな低モチベな僕が出来ることとして、「過去原稿のコピペ開示」を思いついた。「昨年書いた『恋ボク』の約15万文字ある元原稿をnoteに開示したい!」と関係各所に相談したら、ソッコーで却下された。

「テレワークの時代に入った昨今、あのYahooBBの社畜ワーク部分の開示だけするのがオモシロイんじゃないですかねー」

確かに今テレワークしてる人が「こいつより絶対マシだわ!」と相対的に幸せを感じれるシーンが満載だったかもしれない。ホリウチさんの指摘はいつも鋭い。

というわけで、「冒頭からyahooBB社畜ワーク時代」を抜粋した。また既読の方々にも楽しんでもらえるように、あえて最終稿ではなく、レア焼き感のある粗い「途中ナマ原稿」にしてみた。書籍化までは15回ほど書き直したのですが、これは折返しの7稿ぐらいの生煮え具合。

元々はstorysという物語投稿サイトのコンテストに遊び半分で投稿したら優勝してしまい書籍化されたものです。→ https://storys.jp/story/26376

ちなみにstorysを立ち上げた清瀬さんは「たくのむ」というオンライン飲み会サービスを立ち上げて最近話題になってますね!→ https://tacnom.com/

今後リクエストあれば、大幅カットされた「NGすぎる恥部ナマ原稿」も出してみたり、魑魅魍魎が跋扈する「恋ボク2 〜30代はもっと辛いよ〜」を有料note@300円ぐらいで書いてみようかな。いや、やっぱり文章書くの辛いし、労力が合わなそうなので辞めよう...。

あ、久々にアマゾンレビューみたら100件越えてた。ほぼ知り合いだと思うけど...(笑)。

「恋愛依存症のボクが社畜になって見つけた人生の泳ぎ方」(恋ボク)
https://amzn.to/2Cmv7ix

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僕は社会人2年目だった。最初の会社はわずか1年半で辞めてしまった。

僕は全く仕事が出来なかった。時代はマイクロソフト社のwindows95が一世を風靡したのちの1998年。何もかもパソコンで仕事をする時代になりはじめていたのに、パソコンもロクに使えなかった。

転職先は東京なのに、とてもだだっ広い土地でまだ建物があまり建っていない「お台場」という湾岸埋立地だった。1995年に「ゆりかもめ」というモノレールが開通したばかりで、巨大な球体と建物が一体化しているフジテレビの新社屋だけが奇妙に目立っていて、周囲はまだまだ空き地だらけで人通りも少なく東京なのにまるで「蝦夷地」のような未開拓っぷりだった。


「ゆりかもめ」という名のモノレールに乗っていく当時の「お台場」は、東京にできた新たな観光地、少し前の芝浦あたりのウォーターフロントブームを踏襲したような場所で、平日は人がまだ少なかったものの、土日になると東京湾を渡る「レインボーブリッジ」を眺める夜景デートを楽しむカップルなどでごった返しはじめていた。

休日に遊びに行く人たちのために作られた、おもちゃみたいなモノレールに乗って仕事に行くというのは、社会人2年目で既に心を失っていた僕にとっては、さらに気分を複雑にさせるものだった。ただ、前職の西新宿の都庁近くにあった職場とは違って、未開拓なお台場という地は「これから自分は何だか人生が楽しい方向に流されていけばいいかもな」というどこか他力本願な思考がよぎっていた。

このお台場の地から、僕の流され続けた社畜人生が正式にスタートする。

そう、僕はこの地に流されてきたのだ。それは主体的に「お台場の新天地ベンチャー企業でバリバリ仕事をやっていくぞ!どんな荒波でも泳ぎ切るぞ!」などといった意気込みでは決してなく、ただただ流れ着いてしまったに過ぎなかった。

ボクはいつから「流されるオトコ」になってしまったのだろうか。
それはあるとき心を失ってしまったからかもしれない。
心を失うと、主体的に頑張ろうとする気力もなくなってしまう。自ら動こうとする推進力がなくなってしまい、前に進むには、何かの流れにただただ身を任せるしかなかった。今のこの流れとは違う流れに乗らなくては。そんなこともあってまだ社会人2年目にも関わらず、お台場の新天地への転職に身を投じた。

そう、ただただ、「流れを変えたい」だけの転職だったので、都心にも関わらず、一度も足を踏み入れたことのない未開の地お台場は僕にとっては、心をなくしたまま生きていくには好都合だったとも言える。

このお台場でフワフワ流れていくうちになんとか自分を取り戻さなくては。そしていつか「オレ、最近転職しちゃってさー。今をときめく「お台場」勤務なんだよ。レインボーブリッジにのって、フジテレビの近くなんだけどさー」なんてのを早く学生時代の知り合いに自慢できるようになったら、地方出身の20代サラリーマンの逆襲がはじまるだろう。

いや、現実はそう甘くなかった。
流れはフワフワとしたものではなく、激流だった。

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新卒では西新宿にある「イマジニア」というベンチャー企業に入った。元々はマスコミ就職を希望していたが、地方出身の冴えない私立大学生だったので就活では「全敗」してしまっていた。もう就職浪人をするしかほぼ道はないかも、と落胆してたときに出会った会社だった。イマジニアの会社説明セミナーは他の一般的な企業説明とは異なり、ホテルセンチュリーハイアットでの立食パーティーだった。田舎出身でいつも「白木屋」でしかお酒を飲んでない学生だったので、西新宿のホテルで飲んだモスコミュールが忘れられなくなりそのまま入社したくなった。1次面接、2次面接と社員との面接は無事クリアし、最終面接は社長だった。

「ふーん、君が須田くんですか。いい顔してますな。趣味は散歩ですか。ふーん。」

丸メガネをかけて、お腹が出ていて、とても人の良さそうな方だった。「角野卓造じゃねぇ!」っていうお笑い芸人に何となく似ていた。「志望動機は?自己PRは?」といった一般的な面接質問は全く無かった。社長は終始ニコニコしていて、最後に一つだけ質問をしてきた。

「君は運はいいかい?」

後にわかったことだったが、社長は全ての最終面談でこの質問をしていた。これは松下電器産業(現在のパナソニック)の創業者松下幸之助の面接手法らしい。イマジニア社長の神蔵さんは当時40代で、若い頃は松下政経塾に入塾し、政治家を志していたこともあり、松下幸之助さんから直接の薫陶を受けていた。

当時、僕の周りでは大企業に就職するやつばかりだったので、「イマジニア?なにそれ?弱小なテレビ制作会社?」などと周囲からは大分心配された。とにかく「楽しそう」というのが入社の最大の理由だったと思う。いくら分析しようとも学生にとって企業や社会人なんてわかりっこない。働いている方々、社長や専務や社員の方々を見て他の社会人よりも相対的に「楽しそう」に見えたのでココに決めた。50人程度の規模で同期入社が10人ほど。僕は新卒で社長秘書という仕事についた。

社長秘書という仕事は主に「使いパシリ」ばかりで、今考えると仕事は楽だったかもしれないが、気分は徐々に腐り始めていた。上司や社長はとてもいい人で居心地は良かったのだけど、優秀な同期で一番仲の良かった友人のKくんが先に1年も経たずに辞めて転職してしまった。ソフトバンクという会社に転職して3ヶ月ほど経つと、「ソフトバンクの方が楽しそうだぞ。こっちにこいよ」ってメールがしょっちゅうくるようになって何も考えずに転職面接してみた。

1997年。イケイケドンドンなベンチャー企業だった「ソフトバンク」と世界のメディア王と言われたルパード・マードックさんが手を組んで、「JSKYB株式会社」という会社を立ち上げ、その会社に日本を代表するコンテンツカンパニーだった「ソニー」と「フジテレビ」が資本参加した。今で言う「スカパー」という衛星放送の会社で、地上波しかなかったテレビのチャンネルが「衛星」を打ち上げることによって「100チャンネルに増える!」みたいなキャッチコピーで、マスコミ志望でテレビっ子だった僕はとてもワクワクしていた。

当時はまだ立ち上げたばかりの会社で社員構成はそういった出資した株主から出向してくる人がほとんどで社員数も40人ぐらいで、たまたま知人の紹介で入った僕は数少ないプロパー社員だった。オフィスは新橋駅から「ゆりかもめ」というモノレールにのってお台場方面に15分ほどいったところの青海フロンティアビルというセルリアンブルーなビルだった。


僕が配属された部署は「経営企画室」。当時4名体制で大ボスのCFOは野村證券からソフトバンクに転職された方で、俳優の中尾彬さんのような雰囲気を醸し出していた。その大ボスの近くに、目付きの鋭い若頭のような男が二人君臨していた。僕とは3、4歳ぐらいしか離れていない20代後半ぐらいに見えたが、眼光鋭く、着ているスーツが僕のヨレヨレスーツとは違っていて、高そうなスーツでメタリックで重厚な腕時計を嵌めて、革靴も小奇麗に磨かれいるようだった。

ニコニコしているけど眼光の鋭い2人のセンパイは外資系コンサルティング会社なるものから転職してきた方々だった。僕は就職活動でも外資系コンサルティングなるものを見たことがなかったので、何かパソコンを使う専門職のようなものだと思っていた。結論から言うと、2人の上司はセンパイというよりも「鬼」だった。

一人は顔は色白で肌がモチモチとしているのだけど、太い眉と吊り上がった目は絵本に出てくる鬼のような形相で、そのもち肌と太い眉毛がアンマッチで、おかめ納豆のキャラクターにでもなりそうな「おかめ鬼」な方だった。

もう一人は顔の形は四角形か五角形か角ばっていて、アゴがややしゃくれていて、痩せ型で動きがすばやく、まるで手に鎌をもっているような動作が多く、動き含めて全体的にカマキリ風な「カマ鬼」な方だった。

僕は新卒で入った会社では「社長秘書」で「パシリや雑用」が主だったのでビジネススキルが全く無かった。お台場スカパー社においては、ほとんど初めてのビジネス経験で元外資系コンサルの鬼上司から、激しい洗礼を受けることになった。

まず「教え」が全く正反対だった。イマジニアの社長は「人を大切にする」「素直」を心情としていて、「須田くん、人情の機微をとらえないとダメだよ」と毎日言われていた。目上の人は必ず敬いなさいということで、毎日のようにお礼状を書いていたりした。今回の鬼上司はその真逆であり、年上だろうが何だろうが、社内の目上の人間にもタメ口上等でキレまくっていた。10歳以上年上の部長やらが歯切れの悪いコメントをしたりすると、「ん?もう一回言ってもらっていいですか?それってポイントずれてません?」と激しいツッコミをしていたのがカルチャーショックだった。

最初のOJTはその鬼上司と同じ会議に出席して議事録をとるところからのスタートだった。経営企画室とは文字通り経営全般に携わるところで、主には会社全体の予算、すなわち「事業計画」を作成して、その計画通りに物事が進むかどうかを資金面含めて統制管理する部署だった。技術部門、マーケティング部門、コンテンツ部門など各部門の会議を部門横断的に出席して状況や数値を把握して、情報を整理整頓して数値作成及び経営陣への意思決定サポートをするような仕事で、新米の僕には高度すぎる感じさえしていた。

もうとにかく「エクセル、エクセル、エクセル」。たまにランチで外に出たりすると、オフィスの窓やドアがエクセルの「セル」にしか見えず、ゆりかもめの車両ですら「色付きのセル」にしか見えない。

エクセルでの事業計画作成は、事業立上げ前だと会議をやるたびに前提条件がバンバン変わるので、「事業計画vol0.1」でスタートしたものの、分刻みでバージョン更新する感じでどんどんバージョンアップされる。気づくと「事業計画vol8.5」とかになっており「最初のバージョンって一体何だったんだ?」ぐらいの徒労感を毎日噛み締めていた。
前職でエクセルの経験がなく、ビジネス用語とかも全然分からなかったので、毎日苦戦を強いられた。また、経営会議、株主会議といった大きめの重要な会議が定期的にあり、その度に一番下っ端の自分が資料作成をやらされ、毎週期限がくるので、いつも「間に合わない間に合わない」という感じで締切に追われる週刊誌の漫画家のようだった。売れてないけど。足りない頭で考えていると何も進まないので、とにかく何も考えずに手を動かすことだけに徹していた。

鬼上司たちは指示を出すとすぐ10分後ぐらいに「終わった?」と聞いてくる。

終わるわけねーだろと思いつつ、黙々と作業して提出すると、「お前、全然数字違うじゃねーかよ、こんなわけないじゃん、考えろよ」と怒られる。東工大→外資系コンサルのおかめ鬼上司は、幼いころから家の柿の木に毎年柿が何個なるかの確率計算をしていたぐらい数字が好きな都会っ子だったらしい。僕の幼い頃といったら、ウルトラマン怪獣消しゴムで戦いごっこばかりしていたし、そんな田舎出身私立文系大卒の自分は全くついていけず、数字面にかんしてコテンパンに怒られ続けていた。


「須田ぁー、これも明日まで、な」(おかめ鬼)

「すだぁー、まだ余裕あるよな?これは3日後まででいいわ」(カマ鬼)

「まだおわんねーのかよ、そんなのちゃっちゃとやれよ」(おかめ鬼)

「お前、考えてビジネスモデル作れよ」(いずれかの鬼)

「お前、この資料の矢印はどういう意味なんだよ?これ意味あんのかよ」(いずれかの鬼)

「資料の順番が全然違うだろうが。前提条件を説明してから、ズバっと結論だろ。キレ味たんねーし伝わんねーんだよ!」(いずれかの鬼)


資料作成というのは主にパソコン作業で、エクセルとパワーポイントというソフトを使って、とにかく大量に作らされたのだが、元外資系コンサルな鬼上司たちは今で言うロジカルシンキングみたいなのを仕込まれていて、とにかくロジカルじゃない資料を嫌う。


「お前、この資料は孫さん(ソフトバンク社長)と出井さん(ソニー社長)が読むんだぞ。こんなんでいいわけないだろが!」


何度も何度も「お前、ホントに何にも考えてないな!!」と罵倒された。


「パワーポイント」での資料作成というものも厄介だった。上司たちはしょっちゅう「すきーむ」という言葉を使って、何か四角と矢印とお金の流れみたいな説明資料を作るのが好きみたいだった。「すきーむ?スキーム?なにそれ?」何度聞いてもその意味というか実体はつかめず、温かい霧みたいなものでほんのりと甘みのある甘味料かと思っていたら全然違っているようだった。

「スキーム」でググると概要、計画、枠組みなどと出てくるけど、僕が当時聞いていた印象では、もっと胡散臭いもので、矢印をたくさんつかって複雑にすることで普通の人にとっては分かりづらくするみたいな「騙し絵」みたいな印象だった。
そんなスキーム騙し絵のようなものを大体20ページぐらいの量で作らされて、初稿を上司にプリントアウトして提出すると、1ページずつチェックされて、すぐに赤ペン修正され、真っ赤になって戻された。進研ゼミの赤ペン先生スタイルで、資料が真っ赤っ赤になって差し戻される。その赤ペン原稿をベースにまた修正して提出すると、「お前、これ俺が赤入れ修正したまんまじゃん!このスキームの意味分かってんのかよ!言われたとおりじゃなく、もっと自分で考えろよ!」と怒鳴られて、また赤入れされる。また提出すると「うーん、やっぱここの説明イマイチだな、スキーム的にはもっとここを変えようぜ」みたいな最初に言ってくれよ系の修正も入ってくる。10回ぐらいやりとりして大体もう上司も疲れてきて「あー、もうこれでいいっかー(明日の会議に間に合わないし)」みたいになって終了するのが毎度のパターンだった。

気づいたら僕は毎日片道切符の「ゆりかもめ」に乗って、会社に寝泊まりするようになっていた。働き方革命の昨今、今だったら「ブラック企業」って気がするけど、当時はまだ労働者が弱き時代であり、下っ端の二等兵である僕は上司の指示は絶対だった。

そう、僕は社内で一番の下っ端であったためか、鬼上司たちからは「二等兵」などと呼ばれていた。戦場で一番最初に死んでしまう下っ端兵隊のイメージだった。アオキだかマルイだかで買ったヨレヨレのスーツにGショック腕時計が二等兵の戦場着であり、鬼上司の海外ブランド&腕時計スタイルと比べると見るからに戦闘力が低そうだった。

二等兵の僕は大量の資料の渦に飲み込まれるような日々だった。次から次へと資料の波が打ち寄せ、それは渦巻きとなって永遠に終わることのないエンドレスな回転をしはじめて、僕はその渦に飲み込まれていった。渦から出ようと必死にもがくと、さらに強い力で資料の波が打ち寄せて、小さい頃、実家の縁の下でみた蟻地獄の光景に似ていた。スキルが低かったため、とにかく終わらない状況は、足をバタバタさせても決してその渦から出ることの出来ない、茨城県牛久市の実家の縁の下のアリに似ていた。

マルイのスーツを来た二等兵アリは、その渦に流されていった。抗うことが出来なかった。泳ぐ実力もないし、抗えば抗うほど体力を奪われてしまう。

あれ?お台場ってもっと楽しいところじゃなかったっけか?僕はこんな二等兵アリになるためにお台場に流れ着いてしまったんだっけか?

二等兵アリはたまに夜になって時間が落ち着くと、ランチで食べたパスタのシミをつけたままだだっ広い「お台場」を歩いてみたりした。一人で考え事をするには、誰もいない海浜公園は二等兵アリにとってのオアシスであった。

「ふぅ…」

声にもならないため息をもらした。新宿副都心と比べるとお台場の空は広く感じられ、天を見上げるといつも三日月がフジテレビ社屋よりも高い位置に浮かんでいた。

「これで良かったんだ。うん、これでいいんだ。」

渦に巻き込まれていると自分のことを思考するヒマがないので、久しぶりに自分のことを振り返っている気がした。

「心を失っている僕にとって、これぐらいの荒波や渦はちょうどいい。自分のことを思考するヒマもなく、作業に追われる日々はある種の癒やしにつながるだろう」

「僕はまだ二等兵で実力もない。鬼に逆らってはダメだ。波に逆らって泳げない。そう、体育はいつも5だったけど、プールのある二学期は泳げないから苦戦して4になってしまっていたではないか」

プールが苦手だった小学時代を思い出した。自分の心を落ち着かせるためには、いろんな比喩を使って自分を客観視すればいい。泳げない二等兵アリよ。あらがってはいけない。まだ泳ぐ実力もない。渦に飲まれながらも、最後の蟻地獄に食われないように何とか生き残って実力をつけるのだ。ほら、この蟻地獄のおかげで、あの失恋のことなんて思い出さなくていいんだしさ。この悪環境に感謝あれ。

「うん、よし」

と声にならない決心をして、またオフィスに戻った。

ほんの10分程度、コンビニに買い物に行ってその帰りにトイレに行きましたよ風に戻ると、鬼上司はやけにニコニコしていた。

「えへへへ。須田ー、何だか今日は随分楽そうじゃないか。仕事が足りないんじゃないか?もっとエサを与えてやるかぁ」(おかめ鬼)


少しでも安堵の表情で作業をしていると、よだれを垂らした(実際には垂らしていなかっただろうが僕にはそう見えた)鬼上司が、獲物をみるような目つきで僕を捉える。

海浜公園オアシスで心を整えたとたんに、「ウケけけー!」などと奇声を発して資料作成コンボ攻撃をしかけてくるサディスティックな鬼上司たちはアシュラマンやサンシャインのような「スキーム好き悪魔超人」に見え、「地獄のエクセルローラー」みたいな必殺技を僕に仕掛けてきて、二等兵アリな僕はそのヨレヨレスーツをズタズタにされてしまうのだった。

お台場通勤に慣れてくると「ゆりかもめ」は、僕にとっては牢獄に向かうトロッコ列車のように思えてきた。僕はドナドナでいう荷馬車に揺られる「仔牛」であった。奇しくも東京のサラリーマンの聖地である新橋から出発して、そのトロッコ列車に乗って海に向かって流れていく様は、昔で言う本土から離れ小島に流される「流刑」のようにも感じられた。レインボーブリッジ手前で螺旋のように周りながら「流刑場」へ向かうそのモノレールは、その螺旋で脳を麻痺させた状態にする仕掛けのようにも思えた。

お台場につくと、そこから家に帰れない。金曜日に会社に泊まったりすると、帰りのモノレールは週末のカップルに囲まれてそれはまた違う意味での地獄だった。風呂に入らず会社に泊まって、土曜日そのまま仕事をして終電で帰るという日々が続いた。


僕はマゾな受け身タイプでは決して無かったし、こんな荒波に耐えられるのは、とあることで「心を失った」からだ。
心を失っていたので、自分状況に悲観することなく、淡々と「奴隷」のような状況を受け入れる。
この「流刑場」に行き着く前に、自己を捨てていた。


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いわゆる、地方の非モテ男子。
水野敬也サン作の「LOVE理論」というドラマ(2013年テレビ東京にて放映)の主人公にとても酷似していた。


茨城県の県南部にある牛久市というところで生まれ育ち、今では「牛久大仏」やブラックバスが釣れる「牛久沼」や近くにゴルフ場がいくつかあるので、「あー、ゴルフ行くときに牛久って通るよね」なんて言われる地域だけど、まあとにかく関東平野に位置し、川や田んぼや森が目立つ田舎だった。

中学時代は学年一背が低くて、部活は当時花形の野球部に入ったものの、万年球拾いで練習試合すらロクに出れず、3年間一度もベンチに入ることが出来なかった。もちろん女性との恋愛などもってのほかだ。

高校もチビっ子からスタートした。入学式の日にすぐ他のクラスの子に一目惚れしたけど、その子よりも背が低いので、いつもその子と廊下ですれ違う時は、背伸びをして歩いていた。1年間、廊下や全校集会ですれ違う時は背伸びをし続けて、クリスマス前に告白したら「ごめんなさい、友達だったらいいんだけど」と言われて玉砕した。その後、高校3年間で恋愛をすることは一切なかった。

高校に入ると毎日カルシウム剤を飲んでドーピングに成功し、部活(ハンドボール部)で適度な運動もしていたため、背も伸びてチビっ子童顔キャラから青年に脱皮出来そうなステージに差し掛かっていた。高校は茨城県の田舎の中では進学校であったため、みな大学受験する高校であり、近くの国立大学である筑波大学を目指すというのが王道パターンだった。

筑波大学は僕の通っている高校からすぐ近くにあって、そのまま近くの大学に行くということは何ら変わらない感じがしたし、とにもかくにもこの鬱屈とした非モテ田舎少年からの脱却をしなければ、僕の人生は終わりだと思っていたので、

「おら、東京さ、いくだ!」

と決心し、東京の大学だけを志望することにした。


小さい頃から勉強が嫌いで、家ではテレビかゲームをしているばかりで机に向かってるときは漫画を描いているときだけ、という子供だったので、受験勉強は人生初の苦行のようだった。まず部屋にあったテレビとファミコンを押し入れの奥にしまった。CDレンタルショップ「YOU&I」に行くのは禁止とし、通学中にウォークマンでもBOOWYを聴くのは禁止とし、カセットレコーダーで自分の声を吹き込んで作った自作の英熟語テープにした。生まれて18年間、家で勉強するクセが全くついてなかったので、机に座るとすぐ眠くなってしまった。眠くなるとすぐにゴロンと床に寝転がってしまうので、机から離れられないように椅子と自分を縛り付けた。

高校生なので自分を慰めるようなことも結構な頻度でしなければならず、それをしてしまうとものすごくヤル気がなくなってしまい、どうしたものかと苦心した。「性欲を勉強欲に変換できないか」と考え、世界史の用語集など少しエロいかもしれない言葉を暗記するテイで「アウグスティヌス、アウグスティヌス」「ヌクレオチド、ヌクレオチド」と暗唱しながら試みたりもしたが、全くの逆効果だった。

高3の夏にふと本屋で「受験は要領」という本に出会い、そのメソッドに乗っかって、何とかギリギリ合格することが出来た。

大学入学早々新歓コンパにたくさん出たり、新宿歌舞伎町や池袋での合コン、ナンパなど、まさに「大学デビュー」を試みたものの、「マジでぇ〜↑」とついつい語尾が上がってしまう茨城訛りが合コン中にバレてしまうのか、一向に彼女が出来る気配はなく、童貞非モテ時代は続いた。

男三兄弟の3男として産まれ、女性への免疫がないのも非モテの原因だったかもしれない。女性という生き物の扱いが分からなかった。また、マザコンの逆というか、母親のことが嫌いだったので、基本女性へのリスペクトが薄いのかもしれなかった。女性といえば「ザ・ベストテン」に出てくる歌手やアイドル雑誌「明星」に出てる女性しかイメージ出来ず、理想と現実のギャップに苦しんだ。

「茨城のシャイボーイ」による上京物語デビューは大きく遅れてしまった。一人暮らしをせず茨城県牛久市から通学1時間半で通えてしまったというのも良くなかったかもしれない。茨城の県南地区はJR常磐線という電車で都内まで地味に通えてしまう距離感であり、それは実際のところ「上京はしていない」ことに等しかった。ワンカップ酒の匂いが漂う常磐線という、もしかしたら当時日本一冴えない通勤電車(痴漢の多い埼京線といい勝負)で長距離通学する悲しき苦学生だった。

そんな僕が最初に彼女をゲットしたのは、結局のところ、東京の大学やら新宿やら渋谷とは一切関係なく、茨城県土浦駅近くの居酒屋「白木屋」で高校の同窓会が開かれたことがキッカケだった。

男女15名ぐらいの同窓会だった。
僕は既にただ常磐線に乗って都内に通っているだけなのに、地元ではすっかり都会っ子気取りになっている、大学デビューな痛いオトコだった。

「いやー、地元で飲むの久しぶりだな〜。大学の飲み会だと新宿アルタ前集合とかでさー、新宿だと人多すぎで待ち合わせ大変だよな〜、土浦なんてガラガラで空いてていいよね〜(若干の上から目線)」

「俺、渋谷よりはさー、なんか新宿がいいんだよねー。渋谷って調子に乗ってる感じあるじゃん、新宿はあの雑踏感がいいよね」

語尾に「じゃん」をつけて話すようになっていた。
大学2年になって東京へ通って1年がたっていたものの、まだ渋谷は恐れ多くて足を踏み入れられておらず都会にビビっていただけだった。
お酒の味もすっかり覚えていたけど、まだ苦いビールよりも、カルーアミルクやスクリュードライバーといった甘いお酒を好んで飲んでいるお子ちゃま学生だった。

そして僕が地元土浦の居酒屋白木屋で最初の彼女をゲットするための口説き文句が、


「お前のために、カルーアミルク、ガンガン飲むぜ!そして、このお店のカルーアミルクおかわり新記録作るぜ!」という、時代背景を言い訳に出来ない、カッコ悪いにもほどがあるものだった。

僕はその同窓会で飲み物を注文しに来るアルバイトの女性に恋してしまった。果たしてこれは恋だったのだろうか?白木屋のカルーアミルクに媚薬が入っていたのか、田舎モンが地元で都会かぶりになって調子に乗ったのか、定かではないが、とにかく恋に落ちた模様だった。

茨城のシャイボーイは1年間の大学生活を経て「酔拳」をマスターしていた。普段はなかなか女性に話しかけられないものの、酔った勢いなら勇気を出せるという、男性としてはとてもレベルの低いスキルだったが、僕が唯一マスターしていた技と言っても過言ではない。この日はカルーアミルクというポーションを得て、「酔拳」から「泥酔拳」の進化を遂げたのだった。

「かわいいですねー、かわいいですねー、かわいいですねー」
「電話番号おしえて、電話番号おしえて、電話番号おしえて」


居酒屋でバイトしたことのある女性なら、一度はこういったしょーもないオトコからの泥酔拳をくらうのでしょう。バイト上がってから「あー、今日は変なオトコに絡まれちゃって最悪ー。土曜のシフト、もう辞めようかなー。てゆーか、もうこのバイト辞めよっかな」などと、バイトの同僚に愚痴るところだろう。


その日は店が閉まる2時ごろまで白木屋で飲んで、その後、同窓会は近くのカラオケボックスに移動して朝までどんちゃん騒ぎをしていたようだったが、僕の記憶は白木屋の終盤で消えていて、最後どうなったか覚えていなかった。

朝方に電車に乗って家に帰る途中、ふとズボンのポケットに手を入れると、「22ー●●●● マミ」という女性が書いた手書きメモが見つかった。その当時は携帯電話がまだ普及していなかったので、自宅の電話番号だった。

マミちゃんは僕の1個下で土浦短期大学の1年生で、畑に囲まれたところにある小奇麗なアパートに一人暮らしをしていた。
自宅の電話番号はその一人暮らしのアパートの電話であり、すぐにデートの約束を取り付けた。

カルーアミルクを使ったサイテーな口説き文句だったけど、タイミングが良かっただけだったのか、トントン拍子で付き合うことになった。僕は結局のところ、東京デビューとは関係なく、普通に地元茨城の居酒屋で働いていたアルバイトの女性と人生で初めて付き合うことになった。地元の隣町出身かなと思っていたら、意外にも彼女自身は東京出身だった。実家が東京なのに、なぜこんな茨城県の辺鄙な短大をわざわざ志望したのだろうか。それはさておき、若い男女が茨城と東京でクロスして、時空をこえての「君の名は」みたいなラブストーリーのはじまりだった。

やはり、都内の女子校を卒業していたマミちゃんは、茨城の娘たちとは違っていた気がするのは、若手の至りな偏見だっただろうか。一目見たその時から「こんなカワイイ居酒屋の店員は初めてだ〜。茨城では見たことねぇだ〜」と心のなかで語尾が上がった口調で心の中でつぶやいていた。150cm弱の小柄な女性で、化粧薄くてスッピンが似合っていて、猫や犬などの小動物が大好きで、自分も小動物みたいな女性だった。当時で言うとTBSドラマ「高校教師」に出ていた持田真樹を少し太らせたみたいな女性だった。外見は僕のドストライクだった。

そこから僕の大学生活は「マミ」と「バイト」のみになった。片手間だったテニスサークルとマスコミ研究会をフェイドアウトし、マミとバイトの二本柱に生活のコアを絞る方針になった。当然、勉強なんてものは一ミリもない。

僕の手帳には「M」というイニシャルが多く書かれるようになり、就職活動が始まった頃、同じマスコミ研究会をフェイドアウトした悪友のアジマに手帳を見せたところ、

「お前、全然就活してねーじゃねーかよ。マミ、マミ、バイト、マミ、バイトじゃねーかよ!」(五七五調で)

などと揶揄されたものだった。


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「恋愛至上主義な女々しいかに座男子」
これが学生時代の僕のキャッチフレーズだろうか。
2000年以降、女性はみな仕事もこなして自立女子が多くなっているし、それに比べると、ホント超女々しいオトコだった。

それでいてガサツであり、雑であり、テキトーであり、このオトコは将来まともな仕事につくことが出来るのか、とても心配になる。
このオトコは毎日毎日、カノジョのことばかりを考えていて、客観的に見れば「オンナにうつつを抜かしている」ということになる。

何につけてもカノジョとの時間を最優先しており、「その一秒を削り出せ」というスタンスでカノジョと会う時間を1秒でも削り出したいという非モテ田舎者の初恋状態だった。


カノジョのアパートは家から車で20分ほどの場所にあった。土浦駅からもとても離れていて、県下一優秀な公立高校を通り過ぎ、片田舎の住宅街を抜けて、畑だらけの細い道をゆっくり徐行して、ようやく辿り着くような僻地だった。僕は昨年車の免許とったばかりで、親の車を拝借して会いに行かねばならず、そのために地元で家庭教師バイトを始めた。「息子は家庭教師(カテキョー)のバイトに行くために、夜に車を使う」というのを家庭内で一般化するためだった。こういう時だけ悪知恵を使うオトコだ。

「いやー、今回の中3の教え子は頭悪くてなー。ちょっと補習もしなきゃなので遅くなるかも」
「カテキョーバイトの後に、そのまま土浦の高校時代の友達んちに遊びいってくるわー。あ、酒は飲まないから大丈夫。スーファミやるだけだね」

僕の考えた「カテキョースキーム」によって、週3日ぐらいカノジョに会いに行くことが出来るようになった。「その一秒を削り出せ」のビジョンの賜物である。

キッチン、リビング、和室と部屋は揃っていて、新婚夫婦で赤ちゃんが産まれても暮らしていけるような広さで、女性一人で住むには十分過ぎる気がした。東京で大学時代の同級生が住んでいる、西武新宿線沿いの脂臭い部屋や足立区綾瀬のワンルーム狭い部屋とは大違いの過ごしやすさだった。リビングと和室は襖を仕切りになって続いていて、和室が寝室ではあったが、押入れがあって布団がしまえるので、襖を開けておくとリビングが広々と使えるような間取りだった。

リビングと和室ともに大きな窓があり、その窓からそのまま外に出ることが出来て、そのスペースは物干し竿でたくさん洗濯物も干せるし、鉢植えをたくさん置くことが出来た。目の前は広々とした駐車場で、住んでいる人は近くの新人学生が多いのか、まだ止まっている車も少なくて、駐車が苦手で運転がうまくない僕でも簡単に車で出入りすることが出来た。

付き合いがはじまると、家の中でまったりと過ごすことが多かった。休みの日などは車でドライブしたり、温泉旅行やスキー旅行などにも出かけた。何もかもが初めての経験であり、しっかり丁寧に付き合っていた気がするけれど、女々しいかに座男子の僕は常にマミちゃんに対して不満を抱えていた。外見は僕のドストライクだったが、どうも会話や愛情のバランスがしっくり来ていなかった。

電話は必ず自分からかけていて、マミちゃんからかけてくることはなかった。恋愛の熱量も自分の方が大きすぎた。あんなに会っているのに、僕は生まれながらの非モテストーカー気質なのか、定期入れにカノジョの写真を入れて通学途中でそれを眺めたり、声を聞きたいときはカノジョの留守番電話の声を聞いて、ほくそ笑んだりしていた。とてもキモい、キモすぎる。言い換えると、それは自分でもコントロールすることのできない、理性や脳とは少し離れた場所にあるような、とても純粋過ぎる、真っ直ぐすぎる感情を体の芯に抱えていたようだった。日本語でいうと「愛おしい」とかだろうか。理由は分からない、初めての恋愛だったからかもしれないし、童貞シャイボーイの反動だったかもしれないし、男兄弟家庭で育ったことや逆マザコンの影響もあるかもしれない。とにかく、周りの男友達と比較しても、それは「異常値」であったし、こんなにも「想い」が乖離しているカップルはなかった。

この頃から、自己よりも他人を評価してしまうような、「他社依存」「利他」みたいな精神もあるように見受けられるが、利他といっても結局「会いたい」などと自分の要望を押し付けているキライもあるので、これがまだ本当の「愛」なのかどうかでいうと微妙だったかもしれない。


そんな恋愛事情を同じマスコミ研究会に所属していた大学の悪友アジマに話すと、

「お前、それってさ。要するに片想いじゃね?」

などと恒例の揶揄が始まった。
同じ茨城県出身(水戸市)のクセに、てイケメンで180cmを越える身長、豊川悦司を少し爽やかにしたような顔のアジマは、僕とは100馬身差を離してのぶっちぎりのモテ男になっていた。同じ田舎モンだったのに、この1年ちょいで開いた差は大きかった。僕には「酔拳」のスキルしかなかったけど、アジマは既に「オシャレ」「トーク」「一人暮らし」などのスキルと装備を揃えて、早くも竜王を倒せるレベルに近づいていたようだった。

合コンやナンパに明け暮れていた大学の悪友たちも、大学2年になると、みんなステディなカノジョが出来始めた。山形出身のウメキも群馬出身のアライも岐阜出身のキリヤマも、みんな田舎モンのクセにカノジョをゲット出来ていた。

みんなは大抵「女子のほうが男を好きになる」パターンで、男側が追っかけているのは僕だけだった。女子の方がデートに連れていけだのプレゼントは何が欲しいだのうるさくて、まあでも他の女性よりは相対的にいいので「付き合ってやってるんだわ」みたいなモテ男子のマウンティングな会話が多かった。

そんなわけで悪友たちにも「オマエ、本当の恋をみつけろよ」的なことを言われ、新たな恋を見つけるために、カノジョとの半同棲の合間をぬっては、新宿や池袋での合コンに繰り出すのだが、毎度「マミちゃんの方がカワイイわ〜」と心の中でつぶやくなど、カノジョの株が上がるばっかりだった。

初めての恋愛体験にいつまでも冷めない熱波サウナ「ロウリュ」みたいな僕と違って、マミちゃんは常に常温でとてもサッパリとしたタイプの子だった。あまり感情を表に出さず淡々としていた。付き合っていても「好き」と言われたことは一度もなく、誕生日やクリスマスのときに交換する手紙やメッセージカードにだけ自分の想いを書くような人だった。

付き合って2回目の僕の誕生日を迎えたとき、メッセージカードに思いっきり「好き」って書いてあって、僕はそのとき既に1年半は付き合ってて半同棲していたのにも関わらず、心が跳ね上がった。しかしながら、その「好き」って書いてあったカードによって僕の期待値が上がってしまい、誕生日あとの日常の会話やデートにおいて、「あれ、また追っかけてるのは俺ばっかりじゃん。全然カードに書いてあったことと違うじゃないか!カードに書いてあるのに嘘つき!!俺のこと、そんな好きじゃないんじゃないか!」などと悲壮感にくれて、酒に溺れて泥酔し、その勢いで暴言を吐き、常磐線北千住ホームのベンチで号泣されて、別れる寸前にまで追い込まれた。

兎にも角にも、痛いオトコだった。

それでもマミちゃんはまあ土浦の僻地ということもあり、他にろくなオトコと出会う機会もないこともあったのか、2年間の短大時代はずっと僕と付き合ってくれていた。

あっという間の2年間だったが、このマミちゃんとの土浦アパート時代には思い出深い事件がいくつかあった。

カノジョはある日子猫を拾ってきた。自宅では犬を買っていたので、「猫を飼うのが夢だったのよ」と言っていた。僕も実家では猫を飼っていたので、僕の半同棲生活に猫ちゃんが入り込むのはまあ悪くはなかった。

でもその猫ちゃんはいつもカノジョと一緒に寝ていたため、僕がお泊りをしようとしてコトをいたそうとするとその猫ちゃんが「僕も入れてよ」みたいな顔をして入ってくるのだ。僕も猫が好きだったんだけど、こういうときに入ってくるのは困ったものだった。猫をなでながらもカノジョを愛するみたいなことは、同じ「カワイイ」でも脳が同時処理することが出来ず、この現象は僕の人生における暗喩のようなものだった気がしている。

マミちゃんは愛猫を毎日毎日愛でていた。
ある日、めったなことがないと電話してこないカノジョから電話があった。

「お!これはとうとう俺のことを好きになってきて、もう電話で言いたくて仕方なくなったのかな?苦節1年半、ようやく俺の愛の時代が来たか!」と思っていたのだが、カノジョの口調はとても重々しくて、ちょっと泣いているようだった。

「ね、ね、猫ちゃんが、、、。し、し、死んじゃったよう、、、」

マミちゃんは電話口で泣いていた。僕は家の車に飛び乗ってかけつけて終始なぐさめた。マミちゃんはその後初めて短大を1週間ほど休んでしまった。僕には少し冷たかったけど、小動物には優しい娘だった。

もう一つの思い出は、とある事件がキッカケで、マミちゃんのご両親と会うことになったことになってしまったことだ。
カノジョの部屋は2階建てアパートの1階にあった。住宅街ではあるのだけど家が密集しているような地域ではなく、周囲には一軒家がぽつりぽつりとある程度で、夜になると人通りもなくて女性が一人で歩くのは怖い場所だった。少し離れた通りには何件か、地元の労働者が通うようなスナックや飲食店があった。

短大までは自転車で通える距離だったのだろう。当時の地元民の僕としては何ら違和感はなかったのだけど、今考えると、僕が親だったら絶対そこで娘を一人暮らしにはさせたくないような場所だった。

とある夜、部屋の中でまったりと深夜のバラエティ番組を観ていると、テレビの後ろの曇り窓ガラスからぼんやりと男の顔が浮かんできた。あまりにも唐突なホラー映画過ぎて、声をだすことが出来ずに息を呑んだ。落ち着いてみるとそれはお化けでもなんでもなく、単なるオッサンが一人暮らしの女性宅を窓から覗き込もうとしている行為だと気づいた。

男子たるもの怯んではいけないと思い、勇気を出してガラっと窓を明けたら、40前後の冴えないオッサンがほろ酔い加減で恥ずかしそうに立っていて、僕と目が合うとそそくさと少し頭を下げて謝る風にして去っていった、ということがあった。

恐らく、近くのスナックで飲んだオッサンがアパートの窓を覗き込むという行為だったと思うのだが、僕は小さい頃からこういう治安の地域で育ってきたので「あー、変な酔っぱらいとかが立ち寄れちゃう場所なんだなー」などと安易に思っていた。

事件は1ヶ月後に起きた。

また、カノジョから珍しく電話が入った。日中に駆けつけるとそこには警察とカノジョのご両親がいらっしゃっていた。警察は検証が終わった後でご両親に軽く会釈をしてパトカーに乗っていってしまった。窓ガラスが割られており、不審な男が侵入し、タンスが荒らされ、下着が盗まれて、リビングには男性の射精物で濡れたと思われる下着が散乱していたらしい。

今考えると、めちゃくちゃ恐ろしくて、とっとと引っ越すか、もしくは一人暮らしを撤収させて家から通わせる(常磐線で2時間ぐらい)ことをするのが妥当な気もしたけど、ご両親はそのアパートのオーナーに提言してまずは窓ガラスに格子を設置させるだけだった。

そのご両親は東京下町で酒屋と100円ショップを営んでいて、父親は背が低くてずんぐりむっくりとやや毛深く、マラソンをしない猫ひろしみたいな人だった。母親は同じく背が低くて小太りでチャキチャキとして気の良さそうな、象印クイズ「ヒントでピント」に出演していた小林千登勢さん(おっかさん)みたいな人だった。

お父さんと初めて会ったリビングは、お父さん、お母さん、カノジョ、下着(射精物付き)が置いてあったテーブル、そして僕が並んでいるシーンだった。ほとんど会話を交わすようなシチュエーションではなかったし、何かを話した記憶が全くないのだが、「おい、お前。マミのことは頼んだぞ」とお父さんから無言のプレッシャーを受けたような気がした。

質素なアパートに取り付けられた堅牢な鉄格子は異様な様相で、その窓はアメフト選手のように見えた。
僕はそのアメフト選手とともに「マミちゃんを守らなくては」と強く思ったと同時に、よりお付き合いを深めることの動機が正当化されて、親の車や親のガソリン代で夜な夜なアパートに向かうその行為も、何となく正義のヒーロー風になった気分で、トヨタのファミリーカーで疾走する僕はまるで正義のヒーロー仮面ライダースーパーワンになったかのような高揚感があった。単なる自己正当化の勘違いなんだけど。


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カノジョは短大を卒業し、介護の専門学校に通うことに決めた。専門学校の場所は新宿区早稲田にあり「学校が近くなるね」なんて会話をした。しかしながら、僕は大学4年になって就職活動がはじまりほとんど学校に行くことがなくなって、大学近辺で会うことはほとんどなかった。

カノジョは江東区の実家から通い、僕は茨城県牛久市の実家から通い、自宅生同士の健全な恋愛に移行していった。もちろん、これまでのような頻度で会うことも出来なかったけど、改めて「東京デビュー」といいいますか、「東京ウォーカー」という雑誌を買って、「今週末はどこにデートしよっか?横浜で観覧車でも乗りに行こうか?恵比寿ガーデンプレイスでもいってみようか?」なんて会話ができるようになった。

普通に駅で待ち合わせして、電車で移動するデートは、それはそれで初めての経験であり新鮮だった。ようやく本来あるべき姿の「最初のお付き合い」みたいな初々しさがあった。土浦時代は僕が車でアパートから帰るという別れのシーンも、東京では駅で別れを惜しむみたいなことが多くなり、今でもたまに駅で見かける「痛いカップル」だっただろう。(今ではそんなカップルを見て「ハグしたり、手ぇーつないだりとかは家でやれやボケ!」と思うが)

お互いまだ学生でお金もなかった。土浦時代はアパートに行けばいいだけだったけど、電車移動の一般的なデートは何をしていたのか記憶がない。僕が半年は就活で多忙だったということもあったかもしれない。東京はとにかく人がたくさんいて、二人きりになれる場所が少ない感じだった。金欠学生の僕らはいくつかのスキームを産み出した。「半蔵門線スキーム」。まず地下鉄半蔵門線がまだ水天宮前までしかなかったころ。半蔵門線に乗って表参道〜水天宮前間を180円足らずで行ったり来たりして2時間ぐらい過ごすデートスキームだ。土曜の夜の半蔵門線の終点の水天宮前駅はほとんど人がいなかったので、降りると次の電車が発信するまでの10分間ぐらいは二人っきりになれるという、貧乏学生ならではのスキームだった。

また、週末は車で都内に行くことも多かった。これまた都内は車が沢山いて、茨城の公園の駐車場みたいに全く人が来ないみたいな場所はなかった。これも土日の湾岸近くの小さな工場地帯などは人がいなかったので、そこに車を止めて豊海埠頭などを眺めては夜景デートとしていた。

東京でのお付き合いでも1年がたった。就活で忙しくても週1は必ず会っていた。都営新宿線菊川駅という全く使ったことのない駅から歩いて、カノジョのご実家にもちょくちょく行くようになり、経営している酒屋さんや100円ショップのお手伝いもした。お父さんはそっけない感じだったが、お母さんとは気軽に会話できるほどになっていた。

僕の大学2年〜4年の約3年間はほとんどカノジョのことを考えていて時間が過ぎた。場面場面は思い出せるのだが、恐ろしいほどカノジョとの会話のシーンが思い出せない。

一方でそんな恋愛バカな学生だったので、就活は難儀を極めた。

「あなたが学生時代、一番力を入れたことは何ですか?」(人事担当)

「はい。私は恋愛でございます。地元の白木屋の店員に一目惚れをいたしまして、一心不乱に片想いといいますか、お付き合いしてきました。定期入れにカノジョの写真をいれてトイレで眺めたり、カノジョの留守番の声を聞いたり、細切れ時間でもカノジョを想い焦がれることをしておりました。僕は諦めずに、いろいろと工夫してやり遂げるチカラがあると思います。つきましては、御社にとっても僕という人材は…」

なんて自己アピールはゼッタイに出来なかった。

就活では「楽しそう」という理由で、マスコミ(テレビ局や広告代理店)就活をすることになった。さすがに狭き門で簡単には入れそうになかったので、マスコミ就職予備校とコピーライター養成講座に通って対策を練ったものの、恋愛しかしていない中身のない僕はどんどん玉砕していった。

マスコミ就活での敗戦が濃厚になり、他の一般企業も見ざるを得なかった。ただ、支店が多い大企業だと1年目に地方に飛ばされるケースが多く、「マミちゃんとの遠距離恋愛は辛すぎる」とここでも目先の恋愛を優先する女々しいかに座男子スタイルで「東京本店しかない」ところだけを選んだ。

僕がマスコミ(テレビ等)を志望していた理由の一つに「影響力の大きさ」があった。自分が小さい頃からテレビっ子でとにかくテレビ=マスコミの影響が大きく、そういう人に大きな影響を与える可能性のある職場を評価していた。

1995年。ちょうどテレビでは「ウィンドウズ95」なる黒船を思わせるプロダクトがニュースを賑わせていた。「マルチメディア」なんて言葉も出てきて、テレビ以外の新しいメディアが世の中を席巻するかもしれない、といった風潮も感じていた。そんな中、西新宿にあった聞いたこともない小さな企業の会社説明会に参加した。当時の就活は今のようなネット経由でエントリーシートを出すみたいなものではなく、まだインターネット以前の就活であった。大学4年生になるとリクルート社やら日経やらからダンボール箱が送りつけられて、その中に「会社情報図鑑」みたいな一式がおくられてくる。その後も毎日のようにどこで住所がバレているのか分からないけど、企業から直接家に郵送物が送られてきて、部屋の中がダンボールと会社の資料だらけになる。その郵送物をイチイチ空けて会社資料を読んで、履歴書とエントリーシートを記入して返送するという作業が僕らの就活であり、まるで仕事のようであった。

ズボラな就活生になると、そんな封筒を開ける作業すらバカらしくなり、封筒を開けても毎回同じような会社パンフレットが入ってるだけだったので、まさにズボラな僕は「テレホンカード500円入り」みたいな当たりが入ってるやつしか空けなくなった。

そんな中で思わず空けてしまったのが聞いたこともない会社「イマジニア」社だった。資料はA3ペライチだったが「次世代マルチメディア」みたいなフレーズ満載で、役員や従業員の顔も見えて、なんだか秀逸にまとまっているものだった。「早慶生限定」みたいなことも書かれていて、何だか「限定グッズ感」もあった。

その会社の会社説明会は度肝を抜かれた。
普通の会社の説明会はとにかく退屈で、くだらないオッサンが自分の会社の説明をしていて、お尻が痛くなるパイプ椅子みたいなのに座らされて微動だにせずに聞くという、小学校の全校集会以来の苦行だった。

その会社の説明会はホテルセンチュリーハイアットで立食パーティーだった。酒飲み放題だった。
学生30人ぐらいに対して、役員さん社員さんが20人ぐらいいて、ざっくばらんに会話ができた。社員さんは実はその立食パーティーでの様子で審査しているというのは後ほど知った。

僕は普段は白木屋か養老乃瀧などのチェーン店しかいったことがなかったので、テンションがあがってガブガブ飲みまくった。僕が主に話したのは会社のNO2で専務の方だった。40代手前ぐらいで、一橋大学を卒業後、博報堂でコピーライターをやって、今の会社にジョインしたみたいだった。

「君、博報堂受けるの?辞めたほうがいいよ、うちのほうがいいよ」

黒髪でサラサラヘアで真ん中分け、小沢健二さんとバザールでござーるの広告クリエーターの佐藤雅彦さんと豊川悦司を足して3で割ったようなイケメンの専務にすっかり魅了された。

「イマジニア」という会社で、僕は結局そこに就職することに決めた。
とはいえ、面接で受かるかは別だ。
同じく志望している学生は全て早慶で尖ったやつが多そうだった。

面接ではアピールできるものがなかったが、何とか最終面接まで辿り着き、社長面接だった。

「うーん、須田くんか。ふんふんオモシロイね。君は運はいいですか?」

最終面接は「運がいいか?」だけだった。

あとで知ることになるのだがこれはパナソニックの創業者松下幸之助さんの面接手法だった。イマジニアの神藏社長は元松下政経塾で、松下幸之助さんの薫陶を受けていた。

オギャーと産まれてから大学生活を送るまでの、若造の20年足らずの人生において、大きなイベントなんて恋愛と受験と部活ぐらいしかなくて、小さい頃から勉強は大っ嫌いだったけど、たまたま高3のときに本屋で「受験は要領」という本を見つけて、そのとおりにやったら第一志望に受かったというエピソードをベースに、「というわけで、たまたま本屋にいったことで合格できたし、運がいいです」との回答で無事内定がとれた。

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1996年。僕は社会人になった。
僕は引き続きJR常磐線で茨城県から東京の西新宿へ通う日々が続いた。ただ、学生の時と大きく違うのは、毎日、朝早く起きて電車に乗らなければならなくなった。生活は大きく変わった。

50人足らずの会社に初めての新入社員が15人も入った。受け入れる会社側も慣れてない様子だった。僕は「社長秘書」に配属となった。

当時40代の社長には20代後半の女性秘書がついていて、僕はそのアシスタントになった。希望した部署ではなかった。仕事内容は雑務ばかりで特に楽しいことはなかった。朝から新聞のファイリング、郵便物の整理、コピー取り、社長の来客対応、社長の電話対応、社長の取材対応、社長のお土産買い出し、社長のお手紙書き、などなど。同期は営業やら企画やらでバリバリと仕事をしていたので、腐りかけてしまいそうだったが、上司からは「何事も最初は修行です」みたいなことが言われていたので、受けれざるを得なかった。

実務スキルは全く上がらなかったけど、社長の近くにいたこともあって、業界情報には必然的に詳しくなってしまい、勢いのあるベンチャー企業や有名社長の名前や略歴などを、プロ野球選手名鑑やウルトラマン怪獣図鑑、プロレスラー名鑑を覚えるような感覚でインプットされていった。

ソフトバンク孫社長、HIS澤田社長、パソナ南部社長が「ベンチャー三銃士」などと言われて業界紙を賑わせていた。1988年に結成された新日本プロレスの武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士から8年。その三人が起業家ヒエラルキーのトップとすると、神藏社長はその三銃士を追いかける同世代、佐々木健介というか、いや、のちに政治家になる馳浩のイメージか。いずれにしても分かりづらいけど、雑誌からの取材依頼が頻繁にくるような業界からは注目されているトップ起業家のうちの一人だった。起業家というと何か承認欲求や我が強くて、クレイジーでワガママみたいなイメージだったけど、僕が人生で初めて会った起業家の神藏社長は見た目や人当たりがとても温和で、ハリセンボンの近藤春菜さんを男性にしたような雰囲気の方だった。この後の僕の人生においても100人以上の若手起業家と接することになるけれど、こんなにも「人情」や「人」を大切にする方はいない。今は「起業」というのが手軽になっているが、当時はIT化前の社会であり、本当に志や決意がないと出来ない荒波であったはずである。ホンモノしか勝ち上がれない世界で、IT前提のスキルやサービス、効率化などよりも「人間力」がより問われるセカイだったのだろう。まあ、ホンモノしかちゃんとした成功はできないという意味では今も変わらないかもしれないけれど。

入社1年目に会社が「株式上場」することになった。僕がやけに資料のコピーをやらされていたのは、その「株式上場」なるものの準備のようだった。僕は株式上場というのが何のことだかサッパリ分かっていなかった。一応、商学部を卒業していたし、日経新聞も読んでいたのだが。しばらくして、新聞に「納税者ランキング」みたいなものが載った。そこで株式上場によって売却益を得た社長の名前が載っていた。

日本でトップ30近辺にランキングされていた。長嶋茂雄さんや秋元康さんとほぼ同列にならんでいた。
「須田くーん、お茶もってきてくれるかー?」
「須田くーん、資料一式出してくれるかー?」
「須田くーん、タクシー呼んでくれるかー?」

僕が毎日毎日お茶を出している社長はそんなにスゴい人だったのだ。入社半年ぐらいで単純作業な仕事に悶々として辟易していた頃、初めてベンチャー企業の凄さを知った。


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社会人になって忙しくなったものの、マミちゃんとは週一のペースで会っていた。カノジョは専門学校2年目だった。

朝から立ちっぱなしの常磐線で1時間半かけて毎日通う社会人生活は、日々辛いもので、週末だけが唯一のオアシスだった。週末が早くこないかなと思ったし、日曜日のサザエさんが憂鬱になるってこのことだったのかと、オトナの階段を着実に登っている印象があった。

日々疲れていたので、週末に茨城から車を出してドライブデートをする余力はなくなってしまっていた。いつの間にか、金曜の夜から会って、そのまま2日間一緒に過ごして、日曜日の夜に解散するというパターンがルーチン化された。

今考えると、カノジョのご両親も随分と心が広いというか、毎週末2連泊のお泊りOKという感じで、完全に「公認カップル」感があった。気づけばもうそろそろで付き合って4年だろうか。毎週金曜日の夜にJR山手線の「鶯谷」に行っていた。土浦のアパート通いから、鶯谷通いに変わった。山手線の中で最も謎な雰囲気であり、降りることのない駅であり、友人にはあまり言えない街だった。夜にその駅を降りるとカップルばかりで、狭い路地を歩いていくと、ところどころで少し派手な格好をした30代〜50代と思われる年齢不詳でアジアンテイストな女性が10m間隔ぐらいで電信柱のように立っていた。僕らはいつもコンビニに行って夜ご飯や飲み物を買って、「ファミコンソフト多数あり」「翌日昼12時までOK」という看板の建物に入っていった。

マミちゃんのことはずっと好きで、特に変わらなかった。「飽きる」ということも一切なかった。同期の女子と比べたり、会社の女子と比べても圧倒的にカワイイと思っていた。

「平日仕事、土日マミ」

学生時代は「マミ、マミ、バイト、マミ、バイト」(七五調)のキャッチコピーだったが、社会人になってから「ヘイジツシゴト、ドニチマミ」(七五調)のフレーズに変わった。

あっという間に社会人2年目の春を迎えた。

僕の仕事は相変わらずだったが、変わったことと言えば、仲のいい同期の「Kくん」が退職した。彼は千葉県の流山市から通っていて帰り道が一緒だったので、毎日一緒に帰っていた。
彼は慶応SFCを卒業して、学生時代から投資やインターネットに造詣が深くて、帰りの電車でいろいろなことを教えてもらっていた。かなり早熟なタイプで1年目で社長や経営陣に噛み付いて「こんな経営じゃダメだ」とか言い出して、軽くケンカをして辞めていったというツワモノだった。彼はイマジニアを辞めて「ソフトバンク」という会社に転職していった。社長秘書の仕事で何度か聞いたことある社名だったけど、何をしている会社かはよく知らなかった。「ヤフー」というインターネットサービスをやり始めた会社だった。

マミちゃんは介護の専門学校にいったものの、「介護の仕事はやっぱり辛い」ということになり、普通に就活をして歯医者の受付をやることになった。

学生カップルは就職のタイミングで別れやすいとは聞いていた。
お互いに大きく環境が変化し距離が出来てしまう。時間の余っている学生時代とは全く違うセカイに突入し、うまくお互いが時間を作って調整しないとすれ違っていく。僕が社会人1年目でカノジョが専門2年の1年間は、何とか「鶯谷」のおかげか、特にケンカもせずに仲良くお付き合いは継続していた。

カノジョが就職すると、2人の雰囲気は急変し始めた。毎週会うことが出来なくなった。理由は忘れてしまったが、カノジョが仕事で疲れたり、勤務自体がシフト制だったのかもしれない。恋愛至上主義な女々しいかに座男子だった僕はフラストレーションが溜まっていった。会う回数は減り、週末に電話で話すだけだったりした。マミちゃんは電話が苦手だった。僕らは4年も付き合っているのに、電話での会話は盛り上がらない。無言が続いたりもした。僕は電話をするたびにフラストレーションが溜まっていった。あるとき家から車を飛ばして会いに行ったこともあったけど、1時間程度で家の近くで立ち話だけして帰された。せっかく車を飛ばして会いに来たのに「これだけかよ」という印象で、何かそっけない態度をとられたような気がしてしまった。


そんな感じで悶々としていたある日。相変わらず会う時間があまりなかったので、電話で我慢することにしたら、カノジョは僕と会う時間が少ないにも関わらず、電話口では機嫌がやけにいいときがあった。4年間付き合ってきていつも口数は少なかったのだが、今まででは考えられないほどの高テンションで職場で起きた話などをしていた。何だこの急変は?何で、僕と会えないのに、こんなに楽しそうなのだろうか?ん?これは僕と会えなくなったから楽しくなったのか?こっちは全然楽しくないんだけど、この認識格差はどういうことだろうか?

これまでも「恋愛観」や熱量については格差があって、その差を何とか「土浦」「鶯谷」といった空間や時間量で強引に補っていたのかもしれない。ともに過ごす時間が少なくなったこのカップルには、以前からあったけど延命処置されていた「綻び」が、明らかにその姿を現し始めた。

僕は更にネガティブな妄想をし始める。茨城県のシャイボーイは、毎日毎日、筑波山からの北風を受けて、何もない田園風景や森の中を1時間かけてママチャリで通っているとどうしても「この夢も希望もない毎日」と心でつぶやくほどのネガティブ思考になってしまう。海の見える地域や都会の高校生だったら、こんな思考にはならないんだろうな。僕と会わなくても楽しい→僕と会ってるよりも楽しい→僕と会わずに職場のオトコと会っている方が楽しい→職場のオトコ=歯医者→イケメンの歯医者がいてカノジョに手を出している、という妄想が安易に浮かんでしまう。僕はその変に高テンションなカノジョに対して

「え?どうしたの?何か、、ちょっと異常なテンションじゃない?精神大丈夫?躁病とか?」と、思わず心にしまっておけばいい言葉が、徐々にその姿を明らかにした僕らの「綻びの悪魔」が微笑みながら、僕の心の中からその言葉を引きずり出して、口元から音声として排出させてしまった。

全身黒ずくめで痩せていて目のつり上がった「綻びの悪魔」は、ニヤついていた。一見ズルそうで悪そうなそいつは、

「え?だってしょうがないじゃん。オマエの心の言葉を出してやったんだぜ」

と全く悪気のない表情を浮かべていた。いいことをしてやったんだという表情だった。


そこからカノジョは沈黙し、一言も話さなくなった。

「綻びの悪魔」の存在にしばらく囚われてしまい、ふと我に返ると、沈黙が続いていたため、気を取り直して、


「え?どうしたの?何で黙っちゃったの?ゴメンゴメン」
「ん?何かしゃべってよ」
「おーい!どうしたー?」

我に返った僕は激しい焦燥感に囚われた。押してはいけない弾道ミサイルのボタンを押してしまったようだった。いや、僕が押したんじゃない、悪魔のやつが勝手に押しやがった。僕は取り返そうと話しかけたけど、カノジョからはすすり泣きしか聞こえてこなかった。

その後、カノジョは自宅に電話しても電話に出なくなった。
2週間ほど経って、自宅にカノジョから手紙が届いた。

「あなたのことが分からない。もう好きなのかも分からない。これからも分からない」

これが事実上の最後通告になった。

あって会話して復縁を試みようとしたものの、自宅でも電話は取り次いでもらえず、居留守をつかわれているようだった。あんなに仲良かったお母さんもそっけなくなっていた。


「心を失った」


手紙を受け取った瞬間から、目の色覚が狂ってしまったかのように、セカイは灰色になった。
こんなのは初めてだったし、本当にセカイは灰色になるんだなと思った。


自分の部屋で見えない何者かに鈍器で殴られ続けて、脳が外に出ていってしまったような、鈍痛というか何とも言えない頭痛がした。痛いのかすら分からず、意識があるのかも分からず、子供の頃に40度の高熱を数日間出したときの「あれ、僕はこれ生きてるんだっけ?どうなんだっけ?」と錯乱するような症状もあった。


しかも「別れましょう」とバッサリと日本刀で斬られているのではなく、「もう好きなのか分からない」と来た上で、その後一切連絡が取れなくなるという形は、打ち首獄門とは異なる拷問スタイルであり、深手の傷口を負いながらも、徐々に真綿で首を締められたり、息の詰まるような水拷問に毒薬で徐々に身体を弱らせるような効果もあったり、日常を過ごしている中で拷問を受けているような日々だった。

綻びの悪魔のチカラで出てしまった一言により、状況が一気に悪化した。いや、でも4年間付き合ってきてるわけだし、信頼残高というか愛情残高はあるはずだ。気を取り直して取り組めば、まだ回復出来るかもしれない。

濁流に飲み込まれた小さな僕は、まずは失った心を取り戻すようにもがいた。
心を落ち着かせるために手紙を書いた。ペンが震え、何を書いたら何かを取り戻せるのか分からず、まずはノートに殴り書きで下書きをしていると、すぐに朝を迎えており、ノートは1ページも書けてない状態だった。

話すことさえ出来れば、回復できるかもしれないと思っていたが、一切キッカケがない。手紙で連絡するにしても、錯乱し続けていて手紙がまとまらずノートに汚い文字が殴り書きされるだけだった。

また夜に電話してみても居留守を使われた。お母さんに怪しまれないように平静を装って、「あれ?まだ帰ってきてないんですか?」などとつぶやいていたけれど、何度目かの電話でお母さんも事情を察してきたかのように冷たい態度になっていった。この、電話の拒絶、会話できない焦りは、小さな絶望感が繰り返されるようで、電話を切られるたびに毎度毒針で心臓を突かれるような拷問であり、就職活動をして断られ続けて自殺してしまう学生の気分が理解できるようになった。

濁流の渦に巻き込まれているようだった。完全に力尽きるまで、渦の底に少しずつ飲まれていき、渦の底には僕の心を全て食べ尽くす猛獣が待ち構えているようにも思えたし、いや、僕が底にたどり着く頃は既に心のすべてを失っていて絶命しているような気もした。

少しずつ失われていく心。20代でまだ気力体力は残っているので、日常を何とかこなしつつも、もがき続ける。
夜にカノジョの自宅近辺にいって、何とか会って話せないか、偶然会えることはないかと。
もうこの時はカノジョと寄りを戻すというよりも、「とにかく一度でいいから話させてくれ」という心境で、このまま濁流に飲まれてジワジワと苦しめられるのなら、いっそ、一刀両断に叩き切ってくれという心境に近かったかもしれない。

僕は必要のない存在だったのだろうか。土浦時代、猫が死んでしまったときには傷心のカノジョを近くで慰め続けてきたし、下着泥棒が入るという恐ろしい事件の後も、カノジョを守る存在としてご両親の次の存在としてある程度認められていたような気がした。東京に戻ってきてから、僕はカノジョを守る存在としてはそれほど必要とされていなかったのか。単なる週末のエンターテイナー、気晴らし的な存在。その気晴らしも飽きはじめたころに、いいタイミングでイケメン歯医者のライバル男が現れたのか。

真実を知りたがる「焦り」は人をストーカーにしてしまいがち。

自宅近辺で会うことは出来なかったので職場近辺にも出向く。終業近くの5時ごろに人生で初めて地下鉄丸ノ内線の中野坂上という駅に降りて、駅の改札近くの喫茶店で待ち伏せをしたりもした。

狂っていたのかもしれない。
いいじゃないか。狂っていたって。
だって、4年も付き合っていたんだぜ。初めての恋愛。大学時代の僕の全て。一度も冷めることなかった熱量だったし、「あ、もう嫌いになっちゃったのかな。しょうがないか」なんて簡単に引き下がれるほどまだオトナになっていなかった。

そりゃ、狂うさ。拷問なんだから。毎日が拷問なんだから。助けてほしいよね。別に何かを求めているわけではない。話をしてくれってだけなんだ。

カノジョは4年付き合って僕の性格をある程度分かっていたはずで、話をするとややこしいので、もう多分一切関わらずにフェードアウトしたいという戦略だったのだと思う。嫌な仕事はしたくない、ドライにサッパリとやりたいタイプ。4年付き合ったけど、まあ、過去は過去。4年付き合ったクセに電話であんなヒドイことを言われてはもうこの先はこの人とはやっていけない。うん、職場の福山雅治似の歯医者Aさんのほうがステキで、私の心はもうそっちになびいてる」って感じだったかもしれない。

僕はもう悪魔のやつの言う通り、綻びに身を任せて、決着をつけたかった。真実を知り、ハッキリと終わらせてほしく、日本刀で切りつけてほしかった。しかし、この拷問は未だ終りが見えない、濁流の渦だ。

狂った自分を日常生活にはバレないように過ごしていたが、ふとした時に、異常な「喪失感」が襲ってきたりした。

ある土曜日の朝、一人で歯磨きをしていたとき、この濁流の渦に落ちている自分をハッキリと想像できてしまい、鏡に向かって無意識で「ああああああーーーー!!!!」と絶叫していた。何か恐ろしいものをみたような絶叫で、人生で出したことのない声量だった。おばあちゃんが飛び起きてきて「どうしたんだい?」と声をかけた。

心のセカイと現実世界が交わってしまった初めての瞬間だったかもしれない。現実のセカイで大声、奇声をあげてしまった。またしても悪魔の仕業だった。押してはいけないスイッチをちょくちょく押しやがる。

「え?大きな声でも出さないと現実のセカイでやっていけないだろ?いいんだよ、声だしちゃいなよ」
またしても、全く悪気のない表情で、吊り上がった目で答えた。

悪魔は瞬時に消える。僕はすぐに気を取り直す。気の優しいおばあちゃんに余計な心配をかけてもしょうがないし、80歳を過ぎたおばあちゃんに朝っぱらから失恋の相談なんて出来っこない現実のセカイなのだから僕は、

「あああー♪あああー♪ニューヨーク!ニューヨーク!オマエを愛したら!!」
と絶叫で一人カラオケをしていたみたいな機転を利かせて、誤魔化した。

おばあちゃんはそれがBOOWYの曲だということも分からないけれど、孫が気が狂ったのではないなという確認が出来たようで、安堵の表情で朝ごはんの支度をはじめた。

心を失った僕は、もはや人生ヤケクソにもなっていたし、ゼロがいい、ゼロになろうと思っていた。そんな矢先にソフトバンクに転職していたKくんから「こっちの方がイマジニアよりオモシロイから」と誘われた。


新しい環境に身をおいて再スタートが必要だと思い、転職することに決めた。
そう、僕は失恋したから、転職した。
そして、空っぽの心を埋めるために、何も考えずに無心で仕事でもしよう、と思った。
空いた心を何かで埋めないと気が狂いそうだったから。


===

心を失ったことによって、どんなにサディスティックな上司の攻撃もへっちゃらだったのかもしれない。自己を失っていたので、要するに「どうでもよかった」し、仕事がたくさんあることで過去の恋愛を考えるヒマを与えないのも実は良かった。

2人のドS上司に詰められる毎日。今で言うとパワハラだったかもしれない。「おかめ鬼上司」は僕の中の綻びの悪魔と同じように常に目が釣り上がっていた。「カマ鬼上司」の方がどちらかと言うと優しかったのだが、中学生ノリのおふざけが多く、いつもすれ違いざまに僕の股間を「チーン!」などと言いながら触ってくる中学生スタイルだった。

「須田ー!」と呼んでいたのが、いつの間にか「おい、チン!」などと言われるようになり、しまいには、「おい、ポコチン!」などと言われるようになった。社内の会議や周りに女性がいる場でも「おーい、ポコチン!早く来い!」など大声をだすものだから、なかなかの恥ずかしさだった。通りすがりの女性社員が「ん?あの若手社員の須田くんってポコチンって呼ばれてるの?」なんて表情をするのだ。これは社内恋愛もできねーなという感じだった。

カマ鬼のパワハラ?というかセクハラはどんどんエスカレートしていった。まあ僕自身も中学生ノリな部分があったので、全然平気だったりしたんだけど、僕がトイレでウンコをしていると「おーい、ポコチン!お前がウンコしてるの知ってるんだぞ!」といって上から覗くのが日常になった。カマ鬼上司は覗くだけでは満足できなくなってしまい、「俺もお前のとなりでウンコするぞ!」と言い出して隣のトイレに入って、自分の尻を拭いたティッシュ、すなわち紙の中心部にウンコがついているもの、昔、小学校のトイレなどで流し忘れたやつを見る以来の他人の汚物、をトイレの下の隙間から入れてきて僕に見せて喜んでいた。

僕は「なんスカ!やめてくださいよぉー」などと困った声を上げると、隣のトイレから「ケタケタケタ」と高笑いをする悪魔超人の声が渋谷のオフィスビルのトイレ内に響いた。

そんな上司ではあったのだが、面倒見はよくて、僕が徹夜になりそうになると、よく自宅に泊めてくれた。深夜2時ぐらいに彼の家に帰宅して疲れてバタンキューと寝てしまうのだが、朝の起し方がこれまたセクハラで、彼はパンツを脱いで下半身裸になり、僕の顔にしゃがみこんで、まるで「和式トイレ」のようなスタイルで、「おーい、すだー、起きろー」という目覚ましスタイルだった。

こんな素敵な上司は今では上場企業のオーナー&社長であり、2018年に東証マザーズ上場した会社ではかなりイケてる会社なので、経営者というものはぶっ飛んだ人種であることが分かる。


===<怒涛のYahooBB編>

僕の3社目の職場は「戦場」だった。

毎日毎日、朝から晩まで、社内は燃えたぎっていた。
その熱は元々一人の事業家の「情熱」から始まったものだったけれど、現場としてはそんなに美しいものではなく、「混乱」「焦燥」「窮地」から滲み出る「人熱の集合」みたいなものだった。

現場は常にギリギリの戦いを強いられ、疲労困憊していた。

「おい!NTT回線工事の件はどうなってるんや!担当のあいつはどこいった?」
「休み無しの連続深夜残業により、さすがに倒れてしまって病院いってるみたいです!携帯も繋がりません!!」
「ふむ。。じゃあ、他に誰かいないのかー?!間に合わんぞ!」

「顧客データベースの方はどうなってるんだ!2ヶ月で出来ると言っとったじゃんか、あのソフトバンクテクノロジーから来たあいつはどこいった?」
「彼は昨日から出社しなくなりました!」


などといった会話が日常的に行われていて、労働問題が叫ばれる現代の僕らにとっては、あり得ないセカイだった。


===

2000年前後、当時ソフトバンクグループは既に日本を代表するインターネット企業に上り詰めようとしているころで、グループ社員数は数千人を越えていた。それでも本社ビルはまだ日本橋箱崎町の20階ぐらいの決してオシャレとは言えない中規模オフィスビルだった。

僕は当時26歳。ソフトバンクが筆頭株主で事業推進していた衛星放送事業の立上げに携わっていました。JSKYB株式会社というソフトバンクと世界のメディア王「ルパード・マードック」が作ったジョイントベンチャー企業で、その後、ソニー、フジテレビといったイケてる大企業が出資し、さらに日本の商社連合が作った「パーフェクTV」という先行していた衛星放送会社と合併して、「スカイパーフェクTV」いわゆる「スカパー!」という名前で衛星放送事業を展開していた。

僕はその「スカパー」の経営企画部門で社会人2〜3年目のペーペー時代を過ごし、勤務地は「お台場」から「渋谷」と当時オシャレな職場でハードワークな若手時代を過ごしていたが、あるとき突然に、3つほど年上の太い眉毛でいつも怒っている鬼のような上司(おかめ鬼上司)に、「お前はこっちの会社に来い。選択の余地はないよな」と言われ、ほぼ拉致されるような形で、日本橋箱崎町への勤務変更を余儀なくされた。


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日本橋箱崎町というにあるオフィスビルの最寄り駅は当時の半蔵門線の終点駅である水天宮前というところで、ほぼ人生で降りたことがない、東京地下鉄駅とは思えないほどに閑散とした駅だった。(マミちゃんとのデートでよく通ったがそこでは降りたことはなかった)乗り降りする人は何となく冴えないサラリーマンばかりな印象だった。地下鉄から地上にあがると、真上に首都高速が通っていた。なので、外に出たはずなのにその高速道路に陽の光が遮られていて、地上に出てもいつも「日陰」な感じで、とってもくらーい雰囲気が漂っていた。

その曇天な雰囲気漂う駅の直ぐそばに、20階建てほどのソフトバンク本社ビルがあった。

いつも白いワイシャツしか着ない銀行員サラリーマンが、金曜日だけはカラーシャツOKなときに「このぐらいの薄い青色のワイシャツだったら、そんなに目立たないしいいかもな」という風に20代の若手銀行員サラリーマンが選んで着こなす「うす青い」色をしたビルだった。


「なんだこの色のビル。クッソ、ださいビルだなー。西新宿、お台場、渋谷で働いてきたオレがこんなところで働くのかよ〜。あーあ、社会人史上最悪な場所かもなー」

この僕の「ファーストインプレッション」は当たっていたような、いや、そうでもないような。。


新卒入社した「イマジニア」で西新宿の第一生命ビル。薄いオレンジ色で豪華さはなかったものの、隣にセンチュリーハイアットホテルがあり、都庁もそばにあって王道感があった。「JSKYB」でのお台場の青海フロンティアビル。ビル自体はフジテレビ本社やテレコムセンターと比べると質素だったが、とにかく開発途上な「お台場」が何と言っても「これからオシャレになっていくぞ!」風な成長感があった。「スカパー」での渋谷のクロスタワー。渋谷の駅近くにあり、まだヒカリエが出来る前の雑踏感のある渋谷駅前にそびえ立っていて、決して新しさはなく既に古めかしいビルではあったが、重厚感があった。

それに比べて、この薄青ワイシャツなオフィスビルの雑居感たるや。外から見るだけでは、成長している雰囲気などは全く感じらないし、出入りしている社員たちの表情をみても、ITやテクノロジーには疎い、「タクシーの運転手のオジサン」みたいな方が多く見受けられた。

その薄青ビルの5Fの一室が僕の新しい職場になった。ソフトバンクと光通信のジョイントベンチャー、という今考えると「ITバブル天然記念物」のようなソフトバンク子会社だった。まだ光通信さんも株式市場をブイブイ言わせている頃だった。「デジタルクラブ」というとてもダサい社名だった。

まだ会社が立ち上がったばかりで、社員5名ぐらいだった。僕のスカパー時代のドSな直属上司(おかめ鬼)が取締役COOとして会社を取り仕切っていた。

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スカパー時代、僕は20代前半で社内で最も下っ端な経営企画マンだったため、エクセルやらパワポやら会議の議事録やらの作業が多く会社に泊まることも月イチぐらいあったのだが、この箱崎ビルのデジタルクラブ社にきてからはそれ以上にもっとハードワークになっていった。

朝から晩までずっとPCの前に張り付き、しかめっ面をしながら、キーボードを叩いていた。月末月初は必ず会社に何泊かしなければならなかった。オフィスの床に寝るとダニに刺されてしまうので、スカパーのチューナーの梱包に使っていたダンボールを敷いて寝ていた。

あまりに忙しすぎて猫の手も借りたかったので、上司に承認を得て、前職イマジニア時代の部下(ホリウチくん)を誘って入社させた。僕の前職時代と同様、社長秘書で使いパシリをしていただけで、ビジネスマンとしては使い物にならずまさに「借りてきた猫」だった。小柄でずんぐりむっくりしていて髪型に特徴があり、マッシュルームのようなキノコカットが特徴だった。田舎の皇太子みたいな顔つきで、勇者ヨシヒコシリーズの仏様に似た、佐藤二朗を若くしたような青年だった。

一見要領が悪そうに見えるが、高校時代には京大模試の国語で全国一位をとったらしく、国語力や文章読解力に定評があり、秘書時代はひたすら「お礼状」を書かされていた。

ただ、こっちの仕事はエクセルワークが多く、不慣れなホリウチくんは自分が抱えていた仕事の2%ぐらいを渡しただけだったが、すぐに帰れないほど仕事を抱えるようになった。いつも隣で深夜まで働いていた。とにかく毎日毎日終わらなかった。僕は疲れて深夜3時頃になると、後ろの壁に立てかけていたベッド(ダンボール)を床にひいて、「ホリウチくん、ゴメン。眠いから先に寝るわ」といって寝てしまう。

ホリウチ君は仕事終わらず、ダンボールに寝る上司のとなりで、「ぺち、、ぺち、、ぺち、、」などとパソコンのキーボードを遅々としていつまでも叩いていた。僕がダンボールで寝ているその間にホリウチくんは「こんな職場に転職するんじゃなかった。。」と社会人3年目にしてひとり男泣きをしていたらしかった。山梨県の進学校を卒業し、都内の有名私立大学を卒業し、新卒でベンチャー企業に入り、スキルアップのために転職してこの日本橋の雑居ビルに飛び込んでみたものの、ダンボールで寝る上司のとなりでいつまでも終わらないパソコンぺしぺしを深夜3時になってやっている。

「ああ、、、オレの人生たるや。。。どこで間違ったか。。新卒で内定でていた出版社にいくべきだったのだろうか」

などと悶々としたのだろうか。

隣のダンボール男のいびきを聞きながら、ひとり、嗚咽しながら泣いていたそうだ。

「借りてきた猫」だったホリウチくんも、大量の仕事の波に揉まれていった。僕と同様に鬼からも直接叱責をうけるようになって、いい感じで顔が歪んでいった。僕はここで初めて、自分と同じような仕打ちを受ける人間の病理を客観視出来るようになった。

心身ともに厳しい日々を過ごすと、まず表情が歪んでくる。朝から晩まで苦悶の表情がスタンダードになるので、ビートたけしが交通事故を起して顔が変わってしまったときのように、表情が歪む。気が休まるのはランチタイムだけで、近くの蕎麦屋での1時間が僕らの休息であり、慰め合う場所だった。

歪んだ顔の持ち主たちは笑うことが出来なくなる。少しでも笑いを入れていかないと、顔が崩れてしまいそうになる。僕ら現場の戦友たちは、鬼上司が帰って深夜残業すると、オフィス内であえて皆爆笑モードになる。主要取引先である光通信社員さんとのトンデモやり取り事例や営業マネージャーたちの会食でのすったもんだなど、クソ忙しい仕事の中で繰り広げられるトンデモエピソードをみなスベらない話のネタとして披露していた。

これは今考えると、人間の生存本能な気がする。深夜に笑ったりしないと、本当に顔が歪んでしまい、元に戻れないようだった。深夜残業ばかりで部下たちと飲みにいってリフレッシュすることもなく、いつになったら僕は新橋のサラリーマンになれるのだろうかと思った。

僕の経営企画部門は体外折衝の接待もないし、部下と飲みに行けるのは半年に一度ぐらいだった。借りてきた猫のホリウチくんは、インターネットで安くて美味しいお店とかを探すのは得意だったようで、日本橋浜町という会社からは徒歩15分ほどで少し離れていて、駅からも遠い中央区の過疎地みたいなところにポツンとある大きな赤ちょうちんが目立つ「とく」というお店を見つけた。

50代で小柄だけれどガッチリした体格で、レスリングかラクビーのスクラムハーフをやっていたような「徳さん」がマスターで、カウンター5席、テーブル席2つほどのとてもこじんまりとした居酒屋だったが、半年に一度は訪れるこの居酒屋が僕らの「癒やしの聖地」になった。

月島、北千住、森下という下町にある名店たちの「東京三大煮込み」とも同格とも思える濃厚な味噌味の煮込みや、2000年前後でまだ神保町焼きそば専門店の「みかさ」がない時代で、未だに東京で一番美味いんじゃないかとも思っている焼きそば「ヤル気そば」などに舌鼓をうちながら、


「まぶたの下が痙攣しない?ピクピクピクってさ。これとまんねーんだよ」(須田)
「あー、分かりますー!それ定期的に来ますよね」(部下シンドウ)
「鬼に詰められすぎて、嫌な汗をかくようになり、最近、体臭がやけに臭くなりました」(部下ホリウチ)
「いやー、ボクなんて、最近顔面神経麻痺になりましたよ。顔の半分がうまく動かないんですよ!ワハハハは!」(部下シンドウ)
「ボクは実は言えなかったんですけど、、須田さんがダンボールで寝てたころ、血尿が出てました。。。」(部下ホリウチ)

僕らはこの居酒屋「とく」で自虐的なネタに爆笑することで、戦友たちと自らの傷を舐めあった。
「とく」はその後日本橋浜町から人形町、蛎殻町と店舗を移してあれから15年は過ぎたけれど、未だに節目節目で訪れては思い出話に花を咲かせる、ボクにとっては一生モノの居酒屋になった。


===


会社の業績は絶好調で年の経常利益が10億越えて20億に近づいていた。それに比例して仕事の量も右肩上がりに増えていったが、社員数は30人足らずの少数精鋭だった。株式上場の準備も進めていて、自分は経営企画室のマネージャー職だったので、日常業務に加えて「上場準備」という更にハードなプロジェクトにアサインされていた。

そんな矢先だった。

ソフトバンクグループの末端社員だったので、普段、孫社長に会うことはほとんどなかった。年1回ぐらいビルのエレベーターで見かけることが出来て、見かけたときは部下のホリウチくんやシンドウらに「今日、オレ、生孫(ナマソン)見たわー。いいだろー?」ど自慢するぐらいの、僕らにとっては「レアポケモン」だった。

僕らの会社、ソフトバンク子会社の「デジタルクラブ社」の創業当初はソフトバンク本社ビルの5Fの一区画を間借りするような、10席足らずの場所で仕事をしていたが、社員数が増えるとともに、グループ内での地位があがるようにして、最上階近くの16階に移動してワンフロアを占めるほどに規模を拡大していた。ソフトバンクグループの中でも「収益を稼ぐ子会社」になっていて、僕らの大ボスはソフトバンク子会社CEOで参加する「CEO会議」にも参加するなどグループ内での存在感もこれから出していこうという野心もある雰囲気だった。

一つ上の17階がソフトバンクの社長室であり、そこに孫社長が君臨していた。大きなリビングルームほどの広さで、社長の座席の前に15人ほどで議論が出来そうな円卓があった。その近くにはランニングマシーンやらゴルフのパターみたいなものも置いてあった。

当時のソフトバンクにおける「放送事業」は全社的にはこれから本流とする「IT事業」から見ると明らかに亜流ではあった。ただ、IT事業の本命だったヤフーはとっくに本社を離れてオシャレな表参道に独立していて、CFOとして右腕だったK尾さん率いる「ファイナンス事業」も神田方面に引っ越していて、本社ビルの17階のすぐ下のポジションをとれた「放送事業」としては、「参勤交代」がしやすくなった感もあり、日本の歴史上にもあったような組織力学よろしく、僕らの大ボスやら経営陣が何かと足繁く一つ上の階へと「17階の孫社長詣で」をするようになっていた。

日に日にこの「17階詣で」が多くなった。いつもは僕ら現場社員よりも早く帰っていた役員陣が疲れた表情で深夜に17階から降りてきた。孫社長のご機嫌取りにでも行ってるわりにはみな仕事疲れな表情だったので、最初は「僕らのデジタルクラブ社の株式上場が迫っていたからかな?」と思っていたのだが、どうも様子がおかしい。

「何か怪しいな。上場の話だけじゃないぞ。何かグループ全体でのドデカイ新規事業を検討する上での濃厚な会議がおこなれているっぽいぞ」

いつしか僕の方にも本業以外の「17階詣での極秘資料パワポ」を作る仕事が回ってきて、プロジェクトの概要が明らかになってきた。それは「ADSL」という新たな通信規格を使って通信事業をはじめる」ということであった。

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当時のソフトバンクグループは、ソフトウェアの流通事業、出版事業から始まって、インターネット事業(主にヤフー)、金融事業を手がけていた。僕の所属していた放送事業がその次の5番目の中核事業に位置していたが、他の主力4事業と比べて新しくて規模も小さく、グループ内ではマイノリティ事業だった。

なので今では考えられないけれど、ソフトバンク社は通信事業については全くのド素人であった。ラーメン屋さんが「冷やし中華はじめました」みたいな感覚で「ADSL通信事業はじめました」なんて出来るものではないのは明らかだ。

当初は僕の大ボスとおかめ鬼上司たちが17階詣でをするための資料を片手間で作るだけだったのだが、いつのまにか深夜までのエンドレス会議に同席させられるようになり、本格的にその極秘プロジェクトにズルズルと小さいけれど求心力のものすごく強い「渦」に巻き込まれるようにアサインされてしまった。

日中は16階で本業に従事し、夜になったら17階にあがって夜這いするかのように通信事業の会議に参加するといった、同ビル内でのダブルワーク状態になった。

僕にとって会社の会議というのは、イマジニア、スカパー、デジタルクラブと3社経験していて、秘書や経営企画という職種だったので多くの経営会議には参加していたけれど、今やニッポンを代表するトップ起業家の「孫正義」が参加する会議に参加できるのはとても心がときめいた。スカパー時代の株主総会でもソフトバンク孫社長自ら参加することもなかったし、初体験の処女のような心持ちの27歳男子のボクであったが、その期待はそうそうに裏切られた。

会議はエンドレスで終わらなかった。3時間でも4時間でもぶっ続きだった。会議の延長戦は当たり前で、その後の予定は一切入れられない状態になった。

また、そもそもやろうとしている「通信事業」というものを誰も分かっていなくて、分かっていない人たちで分かっていないことを話しているので、全員が物事をちゃんと理解するのに時間がかかっていた。会議に借り出されている各社の社長も、「通信」の素人であり、何となく自分の見解を言ってるような、言ってないような、孫さんのご機嫌だけをとっているような、そんな雰囲気だった。

会議の中で「通信のプロ」としてアサインされていたのは2名で、「筒井さん」「平宮さん」という方だった。
社会人になってからはトウキョウでみたことのない風貌なお二人だった。

年齢は50代近くだろうか。二人の共通点は髪の毛がいつもボサボサしていて、手垢がついたようなメガネをかけていて、スーツだか作業着だか分からないようなものを着ていて、サラリーマン界隈では見かけることのない、僕の地元の茨城県牛久市ではよく見かけるような「オジサン」だった。都会のオジサンではなかった。牛久時代に「ハイライト」とか「エコー」というタバコを吸っていて、ポケットに手を突っ込んでサンダルで商店街をフラフラして、昼間からワンカップでも買おうかとしているオジサンに似ていた。


最初は「このADSLっていう通信規格での事業、ホントに初めて大丈夫?」みたいなのをひたすら検証するような会議だった。参加者は10人程度で、孫さん、社長室長三木さん、孫さんのブレーン2名、通信技術者の筒井さん、平宮さんと僕ら16階の放送事業経営幹部3名が主だった。

とりあえず技術検証をしようということで、機器購入を進めて、BBテクノロジーという新会社を作ってそこで進めようということになり、僕はその会社の名刺ももつことになった。事業準備は主に技術者の筒井さん、平宮さんが進めることになった。

定例会議はいつも「孫vs筒井&平宮」というプロレスだった。昭和の往年のプロレスだった。
「猪木vsブッチャー&タイガー・ジェット・シン」みたいな感じだった。

「なんだこのやろー。全然進んでないじゃんかこのやろー。ホンキでやれやこのやろー」(猪木こと孫さん)
「キィー!君たちにはどうせわからんのだろうじゃー。痒くて靴の上から足カイてるんだけじゃー」(ブッチャーこと筒井さん)
「そうやそうや!お前らはなーんも分かっとらん」(シンこと平宮さん)


ソフトバンクの経営会議はまるで「動物園のようだ」という記事を最近読んだときはとても懐かしい感じがした。そう、動物園であり、プロレスであり、格闘技であり、当時は「これが一部上場企業の新規事業の会議かよ…」などと心の中では嘆いていたけれど、今考えると「スーパーエンターテイメントショー」であり、観覧チケット2万円ぐらいでもいい気がするけど、まあ、実際に中にいて火中の栗を拾っていると、そんな余裕は全くなく、楽しむことは出来ないものなのである。


BBテクノロジーはソフトバンク本社ビル近くに雑居ビルを借りて、そこでひたすら技術検証をするようになった。5名ほどしか入れない部屋に、通信機器やらラックやらが運ばれていたるところに機器が転がっていて、冴えない大学の研究室みたいなところだった。

僕はその雑居ビルの方にも出入りしなくてはならなくなった。徐々に社長室でのエンドレス会議とBBテクノロジーの雑居ビルを行き来するようになり、本業の「デジタルクラブ」社には戻れないぐらいになってしまっていた。

BBテクノロジーオフィスはホワイトカラーのオフィスではなく「作業場」であり、スーツ姿より作業着が似合う筒井さんと平宮さんにとっては社長室での会議よりは働きやすそうだったけど、二人はしょっちゅう喧嘩していた。子どもの喧嘩みたいな言い合いが多かった。口調もビジネスマンではなく、場末の大衆居酒屋のオッサン言語だったり、筒井さんに至っては頻繁に「…でしゅよ」という「お子ちゃま言葉」が出てきて、第三者では全く理解できないものが多かった。

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僕はまずこれらの技術検証を元に「本当に事業が成り立つか?」という綿密なコスト計算をエクセルでやらなければならず、その前提条件をその動物園なのか大衆居酒屋なのか分からない場所で、お子ちゃま言葉のニュアンスを取り除きつつ、コミュニケーションの中から聞き出さなければならなかった。

そのオジサン方はインテリ風なサラリーマンが大嫌いなご様子で、ノートパソコンを持ち歩いてエクセル計算とかも大嫌いだった。

「おいそこの若者!そんな計算なんか、計算機でやっとればええねん。そんなことよりもお前はこの佐川急便の伝票貼りをやらんかい!」

などと、何か買ってきた電子機器の返品とかを延々とやらさたりして、事業計画を作って経営会議に出すという僕にとって超重要なタスクは遅々として進まなかった。

BBテクノロジー社にて作業をするお二人は「技術畑のオジサン」になり、スーツより作業着が似合う二人で墨田区のスーパー熟練工のような頼りがいがあり、日々、お風呂にも入らず仕事をしているようで、常になかなかの加齢臭を漂わせておられた。

当時、僕はお二人の略歴はよく分からず、とにかく「通信技術に精通している」としか聞いていなかった。改めて調べてみると、筒井さんの方は実は京大医学部を出て、脳外科医だったけど会わずに辞めて、脳のネットワーク設計と通信が似ているからなのか、通信分野で生計を立ててたようで大学の専任講師などをやっていられるようだった。

ネットで検索すると、総務省宛に個人で激しい論調で何やら日本の通信インフラについての提言をしているような壮大なドキュメントが見つかった。

ただ、僕との会話は赤ちゃん言葉風が多かったので、このお二人の元で事業計画を作って上程する作業は難儀を極めた。一方で連日の会議における孫さんは日に日にヒートアップしており、「とっとと事業を進めんかい!」と業を煮やしている状態だった。

「君はじぇんじぇん分かっとらんくせに、パソコンなどパチパチ叩いておって。君はまずはこのラックのネジを締めるところから初めてくだちゃい」

深夜12時過ぎにラックのネジを締める作業をやらされた。

「君は通信の基本を少しは分からんとダメヨ。宿題で僕の書いた論文を読んでおいて」と100ページぐらいの資料を渡された。

普段は「…でしゅよ」の赤ちゃん言葉なのに、論文の内容は同じ人間が書いたものとは思えず、学生時代に哲学者カントの本を読んだ以来の難解を極めており、書いてあることが難しすぎて何一つ分からなかった。

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事業の先を急ぐ孫さんとのんびりと実験を進めようとする筒井さんの対立プロレス構造が続いた。焦る猪木がアリキックでの挑発を「しゃー、このやろー。しゃー、このやろー」と馬場に打ち込むものの、「ぽぅ、ぽぅ」などと受けつても大したダメージ受けずに、挑発に乗らずにのらりくらりと受けきっている馬場だった。

のんびりといっても筒井さんと平宮さんは不眠不休の毎日が続いていていつも同じ服を来ていて臭っていたし、これは馬場に対して「早く動けよ!」と言っているものと同じで、馬場なりには早く動いているはずだった。

今思うと、そもそも先を急いでいる孫さんの方が無茶苦茶であった。

孫さんは一気に日本全国でこの通信企画を進めようと思っていたが、技術者の筒井さんとしては都内の限られた地域でまずはこっそりテストして地味に進めたい様子だった。小さき規模でまずは自分の信じる通信規格での通信が実現するかどうかを見極める。極めてまっとうな進め方だと思う。

ここに事業家と研究者の進め方の乖離があった。
孫さんにとってはこれは「研究」ではなくて「事業」なのだ。事業として腹をくくって展開してもらわなければ困る。

孫さんはある会議でこういい始めた。

「ソフトバンクが通信をはじめるっていっても一般のお客さんは我々ソフトバンクのことなんて知らないよな。秋葉原の業者さんたちなら知ってるけど。一般の人達にしれてるブランドがないとな。あ、うちのグループでヤフーがあるじゃんか。ヤフーを使って大々的にやろう」

のちに携帯電話ボーダーフォンを大型買収する前のソフトバンク。もちろん野球球団も持っていないし、テレビCMもやっていないし、街にソフトバンクショップなんてなかったころ。僕らの就職活動時代だと「ソフトバンク」って言ったら、「そんな銀行はない。インチキ臭い」などと言われていた時代だ。

そんな中でインターネットが普及し始めて、「ヤフー」だけはグループ内で一般人にも知れ渡っている唯一無二のブランドだった。

ソフトバンク社内で「こっそりやってる新規事業」から「本格的な新規事業」に変わっていく瞬間だった。

次の日から17階の会議にヤフーの方々が参加するようになってきた。
最初は技術面の検証ということで、ヤフーの技術責任者の方々との会議がメインだった。

そこでもまた動物園のような喧嘩会議が始まった。
筒井さん、平宮さんが表参道のインテリビルからわざわざ日本橋箱崎町のビルにいらっしゃるヤフーの技術者の方々に食って掛かるような論調を繰り広げた。

協力しあえないとそもそも進まない事業なのに、幸先の悪いスタートというか、「あ、これははじめるのは難しいだろうな」と僕は思った。会議に同席されていたヤフーの井上社長も引き気味で徐々にフェイドアウトしようという感じが見られた。

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ヤフーの方も出入りするようになり、昔から孫さんと働いていた古参ソフトバンク社員の方々とも話を聞くにつれて、みな口にしていたことがあった。

「孫さん、また始まったよ。まあ、途中で沈静化して落ち着くんじゃないかな」

ソフトバンクはそれまでたくさんの新規事業立上げをしており、そのほとんどを潰していたらしい。古参社員からしてみたら「ソフトバンクあるある」の一つであった。

ただ、日がたつにつれ、今回のプロジェクトはその「ソフトバンクあるある」に該当しない、異様な執着心をもっているように思えた。どう考えても実現可能性が難しいのに、それが分かれば分かるほど、前のめりな事業推進の大号令が出るようになった。

そもそも「やったことのない通信事業」なのだから、まずは小さい地域「都内の中央区近辺でトライアルをしよう」というのが普通だろう。現場としては、繋がるかどうか分からないような技術規格で進めていたし、通信に必要なインフラもよく分からず韓国製の安いものを買ってトライアルを勧めていた。

しかし、途中から孫さんが「一気に100万台やろう。もう決めたから」ということで、何の技術検証もなく、現場のささやかな反対(?)を抑え、全国100万台一気に予約を取るという方針になってしまった。

毎日毎日、朝から晩までエンドレスな会議が続いた。
技術的な検証の議論から、ビジネスプランの詳細、価格はいくらにするのか、原価はいくらかかるのか、どの機材を買うのか、どのビジネスパートナーを選定するのか。

ビジネスパートナーの選定については、通信インフラ業者、コールセンター、人材業者などあらゆる業者に「大至急、明日来てください」といって箱崎のビルに呼びつけていた。

孫さんのアイデアはいつも唐突だった。

「うーん、100万台かー。家庭内に通信に必要なモデムを100万台配らんとあかんなー。モデムって家でつけるの難しいよな、おじいさんおばあさんじゃつけられないから設置部隊が必要になるな」

「100万人の設置部隊を用意しないとなー。しかも全国に。あ、パソナの南部さんのところは人を沢山登録させてるって言ってたな、やってもらおう」

当時のパソナ社とは主に一般企業へ女性の事務職を派遣するビジネスをしていた。登録者がたくさんいるといっても電気に強い技術者ではなく、ただの女性派遣社員のことである。

「パソナレディにヤフーBBのTシャツを着せて、ヤフーレディがあなたの家に訪問します、でいいじゃないか」

孫さんはその場ですぐ南部さんに電話をした。
「南部ちゃん、いい事業があるんだよ。相談したいので、明日、来てくれないかな?」

翌日、南部さんはいらっしゃらなかったものの、担当役員COO含め、パソナ社の新規事業の精鋭8人ぐらいが訪問した。その日をキッカケにパソナさんはヤフーBB事業に巻き込まれ、全くやったことのない「個人宅へのモデム設置業務」を請け負うことになった。(のちに大きく炎上)

どう考えても派遣登録している事務方女性に出来る業務ではなかったので、結局はゼロから求人を出し日雇いバイトを募集して、その人達に設置マニュアルを説明するみたいな立上げ方になった。その第1回のバイト募集の説明会、20名足らずだったかと思うけど、そこの会場、雑居ビルの貸し会議室みたいな場所にも孫さんはわざわざ足を運び、

「この事業は将来ものすごく大きな事業になります!」

と説明していたけど、パソコンすら触ったことのないような人たちは「そもそもこのオジサン誰やねん」といった感じの表情でキョトンとしていた。(当時、孫さんの認知度はそれほど高くない)


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僕の直属の上司だったおかめ鬼上司は、徐々にこのヤフーBBプロジェクトからはフェイドアウト気味になっていた。そもそも自分が常務取締役である「クラビット社」の上場準備もあり、お手伝いから巻き込まれている感じだった。あるとき、そのおかめ鬼上司から相談を受けた。

「須田。この事業って多分すげー大変なことになるわ。ソフトバンク社自体にとっても大変。全然お金が足りないぞこれ。孫さんの個人資産とか突っ込まないとダメだろうな。ホントやばいと思う。どうやったらこのプロジェクト止められるかな?」

おかめ鬼上司は自分の得意の計算能力によって、この事業は「成り立たない」、しかも甚大な損失が出るとの解が出ていた。ソフトバンクグループの虎の子であったヤフー社のブランド価値も下がってしまうと。なので、ソフトバンク全体のことを考えると、止めるべきだと。

僕はこのみっちり缶詰状態でプロジェクトに関わってきた時間を丁寧に思い出しながら、ここ数年鬼上司に鍛えられたお礼も兼ねて渾身のソリューションを出すように、脳がちぎれるほど考えた。僕はもう「これしかない」という会心の一撃を編み出した。

孫さんは会議中ずっと喋りっぱなしで、尋常ではないエネルギーだった。僕が20代で15歳ほどの年の差だったが、このエネルギー差は異常だった。孫さんはぶっ通しの会議中に、いつも、秘書から錠剤の薬とスポイトでハチミツのようなプロポリスのようなものを、毎日毎日飲んでいた。

「あの、プロポリスが絶対に怪しい!普通の人がずっとあんなにテンション高くいられるわけがないです。あのプロポリス、スポイトを止めれば、このプロジェクトを止められるんじゃないでしょうか」

これは女性秘書が毎日毎日出しているもので、あのスポイトの中身を普通のハチミツか何かにすり替えてしまえば、毎日テンション高くなることは収まり、もう少し冷静な感情になって「ちょっとこの通信事業って思ったより難しいな。慎重にやろう」という判断になるのではないだろうか。

僕はおかめ鬼上司にこっそりと助言した。おかめ鬼上司は女性秘書とも仲良かったので、うまくことが進めば、ソフトバンク社を救えるかもしれない。

こんなミステリー小説のような僕のプランは、おかめ鬼上司と大ボスとの会議では話題にもならかなったようで、二人で話し合った最後のソリューションは、ソフトバンク社のかつての金庫番であったが、少し袂を分かちつつある状態だった、「ソフトバンクファイナンス社のK尾さんに止めてもらう」ことだった。

僕はせっかく初めて自分で考えた企画でパワポを作れるかと思い、「プロポリスを止めろ!」といったウルトラマンセブンのタイトルみたいなのまで考えていたのだけど、それは却下となってK尾さん向けの状況報告資料をつくることになった。

数日後にその資料をベースに孫・K尾会談が行われたようだが、K尾さんも「やったらええやん」みたいな感じになり、この「プロポリスを止めろ!」は未遂のまま歴史の藻屑に消えた。


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当初チマチマとやる新規事業の予定が、本格的にやる事業となり、億単位の投資をバンバン社長決済で決行してしまうため、当たり前だけど、ソフトバンクの取締役会にはかるための事業計画を作ることになった。

僕は筒井さん平宮さんに「ラックのネジを巻きなさい」などと下っ端社員として雑務にコキを使われつつ、ソフトバンク取締役会用の事業計画をエクセルで作らなければならなかった。

事業計画の作成は難儀を極めた。何も決まってないし、何も全貌が分からない。どれぐらいコストが掛かるかもよく分からない。特に売上計画のキモとなる「価格設定」については、もう、取締役会前日に孫さんとのワンオンワン指示でエクセルをいじるような始末だった。

「ユーザーへの月額料金は2,000円を切りたい。1,980円とかにしよう」
「社長、それだとこの電気代の変動費とかが不確定な中、リスク高いです。逆ザヤになるかもしれません。モデムのレンタル代などを外出し価格にして、通信料の見栄えは2,000円以下にしても、トータルでは2,500円ぐらいにはしないと」

当時、競合の価格は月額3,000円前後だったかと思う。それを1,980円にしてインパクトを出したいところなのは分かるが、とにかく、現状の計算は雑すぎる。エクセル上ではとにかくバリバリの赤字だった。

何とか月額の料金は少しあげたものの、次は初期の設置料金である。

「100万台を無料で配ろう。設置料金も無料だ!」
「社長、その瞬間に数十億の赤字になっちゃいます」

こんなやり取りが取締役会の前夜、というか既に日付は越えてしまい、当日であったと記憶する。
そんな直前ギリギリの深夜にもかかわらず、まだやり取りは続く。

「お前、さっき月額料金の方は妥協してやったじゃんか!こっちの初期料金の方は、ワシの意見を使わんかい!」
「。。。」

とにかく時間がなかったので、何となくそれっぽいエクセルにて役員会にあがったと記憶している。エクセル作ってても事業を立ち上げる実務は進まないので、すぐにまた別の仕事に取り掛からなければならなかった。

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当初このプロジェクトにフルコミットしてるのは技術者の2人と社長室長の三木さん含め5人足らずだったので、圧倒的に人が足りなくなった。ソフトバンクグループ内から人をかき集めることになった。

当時ソフトバンクグループは中間持株会社をもっており、「流通事業」「出版事業」「金融事業」「インターネット事業」「放送事業」の5事業があって、その各事業会社から「今度ヤフーBBって事業やるから、各社、人をよこしなさい」という号令が出た。

中間持株会社の社長や人事の責任者は何のことか分からないが、御大に人を送り込まなければなるまい、といった心境だったのだろうか。号令により数日でまずは各社から合計20人ぐらい送り込まれた。

箱崎本社ビルにはこの人数を収容できないため、近くのボロい雑居ビルを急遽かりて、その20人はそこに詰め込まれた。この20人が集まった日にも孫さんはバイト説明会のときと同じように、かつてのみかん箱に乗ってのエピソードのように、

「この事業はソフトバンクの中核を担う事業である!」

と大演説をしたものの、聴衆はまたみんな借りてきた猫のように「キョトン」としていただけだった。

元々の初期メンバーも通信のツの字も知らない人ばかりだったが、このたび各社から集められた人もさらに輪をかけて、通信のことを全く知らない素人ばかりだった。

孫さんをトップとして、部門は大きく分けてオペレーション部門、技術部門、営業部門として、何となくその日のうちに素人が配属されていった。

僕は経営企画とオペレーション部門をやっていたが、経営企画のエクセルワークはもう役員会も通ったので新しい人に引き継いで、オペレーション部門の立上げに注力することになった。ついこないだまでフルタイム5人ぐらいのプロジェクトが一気に20人ぐらいに増えて、僕の下に部下と呼んでいいのか分からない、ほとんど年上で30歳〜55歳ぐらいの素人サラリーマンがアサインされた。ファンドの組成やってました、総務部長やってました、ついこないだソフトバンクに転職してきました、みたいな方々だった。

猫の手も借りたい状況だったので、ファンドの組成やってた方たちにコールセンターの立上げやモデム設置オペレーションの管理をやってもらうことになり、そのメンバーらはその日から家に帰ることが出来なくなった。

毎日毎日状況が変わり、オフィスは深夜まで誰一人帰ることが出来ず、戦場のような状態だった。数少ない初期メンバーである僕は組織のハブ的な役割もあってか、日々あっちやこっちやに奔走することになり、やれ夜中の11時から会議だ、やれNTTの人たちに謝りに行くだ、やれ東京めたりっく通信を買収するからデューデリしろだ、毎日ジェットコースターに乗っている感じだった。

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そもそも、このADSL通信事業はNTTさんの設備を借りて行う事業だった。NTTに集中していた「通信事業」を民間にも広げて競走を促す一環だった。なので、何を行うにしてもNTTさんに相談、申請をしなければならなかったのだが、元々の電電公社という体質もあってか、対応スピードが遅々としていた。(まあ、ソフトバンク側がスピード出しすぎという説もあったかもしれない)

あるとき、とうとう孫さんは頭にきて、
「こっちは本気でやろうとしてるんだ!全然分かってないんじゃないか?おい、じゃあ、今からNTT東日本とNTT西日本の社長宛にFAXを送るぞ!こっちは本気なので、大至急設備の貸出手続きをはじめてくれとFAXの文面を作れ!」と言った。「いますぐ送れ!」と言った。

ざっくり文面を作って、ネットで検索してNTT本社のFAX番号を調べ、代表印を押して孫正義名にてFAXを送った。まさに「宣戦布告のFAX」だった。

日本のトップ企業の社長宛に、テロ行為(?)のようなFAX攻撃により、NTTの現場の方からじゃんじゃん電話が入ってきて、一人コールセンターになってしまった。

「あー、すいません、うちの社長が送れって言ってまして、今度改めてご挨拶に伺いますので、お時間頂けますでしょうか?」と返して、結局、現場数人でNTT訪問をし、頭を下げながらお願いをしに行った。

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東京めたりっく通信については、国内で先行してADSL通信事業を行っているベンチャー企業であったが、経営的には苦戦を強いられているというウワサだった。

ある日、孫さんは日帰り出張からご機嫌よく帰ってきた。
「ウルトラC決めてきた。買収決めてきたぞ。これでノウハウもった技術者も確保出来るわ」

プロジェクトをはじめてから数ヶ月ぐらいだったかと思う。デューデリジェンス(買収先の審査)も担当させられ、経営数字のチェックや役員面談なども行ったが、もう既に社長が買うことを決めていて金額も決まってる感じなので、時間をかけずにとっとと済ませた。20億ぐらいのディールだったか忘れてしまったけど、ここに時間使ってられずで、早く現場に戻らないと、各地でおこっている炎上の火消しが大変で、ソッチのほうが優先順位が高かった。

===

炎上はほぼ毎日起こっていた。

「顧客の家でモデムのアダプタが熱で溶けてるとの報告がありました!」

初期にまずはソフトバンクグループの社員向けのクローズドサービスをしていたときだったと思う。下手したら火事に繋がる大惨事だ。韓国の弱小(?)メーカーに発注した安物のモデムだった。

「大至急回収だ!そして業者を変えろ!」

こんな調子だった。

不眠不休の毎日が続いたため、主担当していた社員が倒れるのはザラだった。
「NTT担当が倒れてしまい、現状の進捗が確認できません!」
「顧客データシステム構築の担当が倒れました。もうしばらく出社出来ない模様です!」

戦場では仲間が倒れることを気にしていたら自分も殺られる。
そんな気持ちというか、人を気にしている余裕はほとんど無かった。毎日ユンケルを2本飲んでいた。

===

現場では日々戦場で、まだまだユーザー向けに通信サービスを提供できるような状態ではなかったものの、対外的には「ソフトバンクが通信事業に本格参入!その名もヤフーBB!通信料格安!100万人初期費用無料」と大風呂敷を広げまくっていた。

しかもヤフーにて先行予約を取り始めると、サービスのインパクトもあって、ジャンジャン予約が入ってきた。
現場としては「これはヤバイ、本当にお客さんが集まってしまった」という見解も多かったかと思う。完全にルビコン川を渡った、後戻りは出来ない。

東京めたりっく通信の方々も少しずつジョインし、スタッフが40名ぐらいになった頃だろうか。ようやく先行予約者の中から一部都心部にお住まいのユーザーへのサービス開始をはじめた。

「一般顧客宅にて、通信が繋がった模様です!」

本プロジェクト始まって以来の明るい報告だった。

孫さんは物凄く上機嫌になった。
「やった!つながったぞ!ほら、みんな、やっぱりつながったぞ!」
少年のような喜び方だった。
幼稚園児が砂場で山を作って、トンネルを掘って、「ほら!つながったぞ!」って言ってるのに近かった。

「よし!今日は近くで焼肉でも行くぞ!」
30人ぐらいが水天宮前近くの焼肉屋トラジに当日集められた。

「やっとつながったぞ!今日はめでたい!みんな、今日は俺のおごりだ!!」

1年ぶりぐらいの焼肉だった。
ただ、メンバーと飲みながらもほとんど仕事の話ばかりで、冷静になると「早く会社に戻らないと明日からが大変だ」ってことになり、そそくさと飲み食いした後、雑居ビルに戻っていった。

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その数日後だっただろうか。

孫さんはまだとても上機嫌だった。
僕ら現場にとっては、ソフトバンクグループ内のナゾの小さなプロジェクトで一歩進んだぐらいの感覚だったけど、孫さんだけがこの「繋がった」ということの大きさを認識されていたのかと思う。その後のソフトバンクがまさかの本当に「通信事業者になる」未来が実現するための第一歩だった。

孫さんの上機嫌により僕らにも幸福がもたらされた。
その時関わっていたスタッフ、派遣社員の方も含めて、30人ぐらい会議室に呼ばれて、「お前らありがとう!ボーナスや!」と焼肉のおごりに続き、ボーナスの金一封が封筒にいれられて、孫さんからの手渡しで渡されてのだ。

日々クソ忙しくて、何となくハイテンションと意識朦朧を繰り返していたが、現金封筒をもらったときは目が覚めた。僕はまだ20代で100万円の入った封筒など手にしたことがなかったので、このまま強盗やひったくりに襲われるのではないかと危惧し、会議室を出て、すぐ走って箱崎シティエアターミナルのATMに入金しにいったのを覚えている。
(その後、孫さん個人からのご褒美かと思ったら、給与扱いということでしっかり課税されていたことに少しガッカリした。)

===

焼肉プレイや現金封筒プレイなど、ソフトバンクは既にそこそこの大企業になっていたものの、孫さんは中小企業の社長並みの「現場に優しいおちゃめプレイ」を幾度となく見せてくれた。いつのまにワードワークを強いられていた僕らにとっても憎めない感情を抱かせるものだった。

「おちゃめ発言」はピリピリとした会議中でもちょくちょく使われていた。

関係者10人ぐらいでビジネスプラン、数字の精査をしているときだった。細かい数字の詰めを行い、例えば、「このサーバーの電気代とかもうちょい削減出来るんじゃないか?」「NTTの局舎におくラックだけどもっと小さいので行けるんじゃないか、これで賃料削減できるんじゃないか?」みたいなことをやっていた。

予算を積み上げる現場としてはどうしてもバッファな数字をもっておきたいのだけど、そこをバンバンついて、ストレッチな数字を積み上げていった。すると数字は少しずついいものになってきた。そのときの孫さんの決まり文句があった。

「ほらー。俺のほうがお前らより数字強いだろ。おれ、経済学部卒なんだからな」

「おれ、経済学部卒だからな」
が決まり文句で、周囲の笑いをとった。

既にベンチャー起業家として名を馳せていたにも、関わらず今更大学のしかもカルフォルニア大学の自慢ではなく、単なる「経済学部卒」で押してくる。笑いのセンスもあった。トレンディエンジェルの「斎藤さんだぞ」みたいなものである。

また、丸一日、「業者との交渉デー」というのがあってランチタイムも弁当食いながら業者との交渉をし、1日9アポぐらいを全て同席したことがあった。すべての交渉先に「では明日までにカウンター出してください」と言っていた。

全ての交渉が終わった後、我々現場メンバーに
「お前ら、俺の交渉を丸一日見れるなんて、めったにないぞ。高級なオン・ザ・ジョブ・トレーニングだぞ」
とココでも軽いウケをとっていた。

===

一方で心配症な一面を見せるシーンもあった。
夜中の12時まで数字系の会議をしたあと、孫さんだけタクシーで帰宅された。その直後、秘書の方から「出先から孫社長から電話です」と取り次がれた。

僕はこのプロジェクトで会議への同席など終日顔を合わせていたものの、個別に電話で話をするのは初めてだった。

「今日の事業計画の数字だけどさ、あれで大丈夫だよな?いけるよなあれで?大丈夫だよな?」

あれだけご自身でゴリ押ししていたところを念のため現場の僕にも同意を求めるような内容だった。

孫さんと個別で電話で話すことはなかったけど、秘書の方から携帯で呼び出されることはちょくちょくあった。金曜の夜中3時ぐらいに帰宅して、シャワー浴びて寝ていたら、土曜の8時ぐらいに秘書から電話があった。

「孫社長が今すぐ来てくれと言っています」

準備して雑居ビルにいくと、小さな会議室に孫さんと社長室長の三木さんともう一人しかまだ会議室にはいなかった。孫さんは土曜の朝から憤慨していて顔を真赤にしてた。

「お前ら、そんなチンタラチンタラやってたら進まんやないか!タスク管理をやっとるのか!やることはたくさんあるんだ!今からタスク1,000個書け!あるはずだ!必ずやれ!」
「俺は本気なんだ。お前ら本気でやってるのか?本気でやるんだよ、わかってるのか!」

ホワイトボードを叩き、ホワイトボードのペンやら板書消しやらを投げつけた。

後ほど社長室長の三木さんは
「あんなに憤慨した姿を見たのは初めてだった。これは本気だと思った」とおっしゃっていた。

その会議の後、作業に取り掛かる前に冷静にすべく土曜の朝、会社の周囲を散歩した。日本橋蛎殻町勤務になってから、会社ビルと近くの蕎麦屋と居酒屋「とく」に行く以外あまり歩いたことがなかった。会社のすぐそばに隅田川が流れていたのも、仕事に追われすぎていてあまり認識できていなかった。

今、思うと日本橋蛎殻町は東京で激務するにはいい環境で、たまに近くにある隅田川を歩いて心を落ち着かせたりしたら、もっと顔を歪めることもなく、激務の渦を泳いでいけたかもなと思った。東京は人が多くて心を落ち着かせる場所が少なすぎる気がする。茨城県牛久市には牛久沼というブラックバスがよく釣れる沼があり、僕の中学はその沼の近くの高台にあって、近くを流れる「稲荷川」を思い出した。中高時代はその田舎の川の価値を全く感じなかったものの、大学で東京に通いだしてから「一人になって考え事をする場所」として田舎の川の畔がとても優れていることに気づいた。就職活動で悩んでいた頃などはママチャリにのってその稲荷川をひたすら上流に向かって漕ぎ続け、30分ほどいくと周囲に一切建物がなくなって、森林と川のみの光景で人も一切来ない小さな丘に登って体育座りをして、「ああ、今後の人生、どうしたものか。。」などと若きウェルテルの悩みをしたものだった。

20代の仕事は激流に流されているようだった。仕事に限らず、人生というものは、川のような「流れ」があるのかもしれない。そんなレトリックもあって、川で思考することが僕の心をクリアにするのかもしれなかった。

このYahooBBの激流はこれまでのおかめ鬼上司にゲキヅメされる激流をも越える、人生初期の最大のビッグウェーブなような気がしていた。僕がスカパー、デジタルクラブという2社の立ち上げ仕事において、鬼たちに詰められた激流を耐えしのいだのは、僕に優れた泳力があったからではない。まず一つ言えるのは、心を失っていたおかげで、余計な力を入れずに流されていたからである。泳法に例えると、僕は激流の渦を決死のクロールで逃れようとは決してしていなかった。流れに逆らわずに漂うかのように泳いでいた。

それは日本古来の泳法「のし」のようかもしれない。甲冑を来ながらでも泳ぐことが出来たという古式泳法で、城に忍び込んだ忍者が堀の中で仲間の助けを待つためにいかに体力を使わず、長い間泳げるかどうかを極める泳法である。

僕はここ数年、大失恋によって心を失い、そのおかげで流れに逆らわずに無理をせず忍者のごとく「のし」泳法をマスターし、溺れずに済んでいたのかもしれない、と隅田川のほとりを歩きながら気がついた。「のし泳法」とはクロールや平泳ぎとは異なり、水面に対して身体を横や斜めにして顔を出したまま、手をゆっくりと盆踊りでも踊るような動きで少しずつ進むようなもので、僕はハイスクール奇面組で出瀬潔がその泳法で泳いでいたことを思い出した。

しかしながら、今回の孫社長からの直接攻撃は僕ののし泳法では立ち向かえず、初めて溺れてしまうかもしれないという恐怖感に苛まれた。首都高速9号線下の隅田川大橋を渡りながら、隅田川を見下ろした。僕の知っている田舎の稲荷川はもっと細くて自然で優しくて生きているような川だったけど、隅田川はとても大きくて、都会っ子で、進化したロボットのような冷たい雰囲気もあった。

「今からタスク1,000個なんてかけるはずはない。いっそ、この大きな橋から、隅田川に飛び込んでしまったら、どうなるのだろうか。。。」


バシャン!と大きな音がたち、泳げない僕は川の真ん中だと岸まで泳ぐことが出来ずに溺れてしまうと思う。土曜日の朝方で犬の散歩をしているおばさんたちに見つかり、おばさんたちはあたふたするものの、僕を助けることは決して出来ないだろう。リアルに溺れてしまい、20代中盤にて茨城田舎青年の東京ベンチャー物語は隅田川に散ることになる。


まだ何一つ物語がはじまってもいないのに、それは早すぎるだろいかんいかん。と危険な妄想から自分を振り払うように、大きく首を振った。

「しゃーねー。オフィスに戻るか。タスク1,000個書くか」

結局、その日はタスクは300個ぐらいしか書けなかった。そもそも、タスクを書いているヒマなどなく、メールがひっきりなしに入ってきて、いつもの帰れない日々が続いた。


===


「今までの人生で一番働いていたときはいつですか?」

と質問されるときに答えはいつも困ってしまう。労働時間だけで考えると、恐らくデジタルクラブ社の立ち上げ時期だろうか。その当時はタイムカード管理もされていなかったため、万が一のときのために自分でエクセルで労働時間をつけていて月460時間だったのを覚えている。ホリウチくんが血尿をだしてたころだろうか?「オレが死んだ時はこのエクセルを牛久に送信しといてくれ」と遺言を残しておいた。もしくは1週間連続で会社に宿泊して、お風呂に入れなかったため、股間だけはキレイにしようと思い、朝方に男子トイレの手洗い場で高さ80cmほどの洗面台に片足をあげて股間をあらわにして「じゃぶじゃぶじゃぶ」と洗っている姿を入ってきたばかりの年上部下のサイトウさんに見つかったときだろうか。


このYahooBBプロジェクトのときも、働き方は尋常ではなかった。スカパーやデジタルクラブでの鬼上司たちからのゲキヅメ経験がなかったら、この史上最大の濁流に飲み込まれるところだった。過去のハードワークの経験、濁流や渦の中での泳ぎ方、まさにのし泳法のような自分のエネルギーを長持ちさせる泳法をマスターしていなければ潰れているところだった。

起きている時間だけでなく、夢の中でも追い込まれるのだ。

スキーに行く夢を見た。スキーなんぞは学生時代のアルバイト以来いっていないので、5年ほどのご無沙汰だ。僕はリフトに一人で乗っていた。仕事に追い込まれていたので、スキーでリラックスしたいという深層心理がこういった夢をつくるのかもしれなかった。リフトで山を登っていくと、後ろからギャーギャーうるさい客の声が聞こえた。

せっかく久しぶりにスキーに来てるのにうるせー客だなと思い、注意しようかと振り返ったら、そこにいたのは孫さんと筒井さんだった。僕に向かって何かギャーギャー怪獣のように騒いでいる様子だった。

ハッとなって目を覚ました。起きると頭から煙が出ているような感じで、全く睡眠をとった感じがしなかった。明らかに脳が過剰に活動していて、常に微熱をもっていた。悪夢でうなされたような気分で、まだ深夜3時だったがガバっと起きて洗面台にいって顔を洗おうと鏡を覗くと、目はやや血走っていて、頬はコケていて、自分の顔ではないような「あなたはだあれ?」とききたくなるオトコの顔だった。


陰鬱な雰囲気のボロアパートでのオトコの一人暮らしは、さらにその精神症状を悪化させるような作用がある。疲れて帰宅しても何か「癒やし」を感じるような部屋だったら良かったのかもしれない。ただ、貧乏な東京の労働者ではそんなシチュエーションは望めず、疲れて帰ってきて、その部屋に入って、孤独な空気を吸うと、何か悪いドラッグにかかったような錯覚を覚えた。

あるとき、連日の深夜残業でタクシーで3時頃帰宅し、「カンカンカンカン」とアパートの階段を登って、閉まりの悪い扉を開けて自分の部屋に入ると、急に標高5,000m級の山のてっぺんに登ったかのような空気の薄さを感じた。

「ん?何かこの部屋の空気薄いな、、ハァハァハァ」

息を切らすかのように呼吸してみた。苦しい。

ワンルームの部屋に唯一の窓を開けた。対面には僕のアパートよりもボロい部屋が目と鼻の先にあって、窓を開けるとより重たい空気が流れているような感じがした。窓を開けても空気は薄いままだった。


「あれ、、はぁはぁはぁ、、息が出来ない。。。」


深夜3時にこんなアパートで一人息が出来なくなってしまった。一気にかいたことのない冷や汗が出始めた。

「はぁはぁはぁ、、、」

今度は声を出しながら、一生懸命呼吸することを試みた。呼吸を一生懸命するなんてことは人生初めてだ。水の中に入っているようだった。


あぁ。。。僕は溺れてしまった。。。

===

これは過呼吸というものだったろうか。

はぁはぁと声を立てながら、「安心しろ、生きてる生きてる。呼吸できてるできてる」と心の中で自分に言い聞かせた。時間にしては部屋に入ってからの2分足らずのことだったかもしれない。何とか落ち着いて眠りにつくことが出来た。

激流にのまれながらの「のし泳法」スタイルで仕事をこなしてきても、このままだと本当に死んでしまうような白昼夢だった。

そんな最中に本来の上司であったおかめ鬼上司より、

「もう、オマエがいなくても大丈夫だろ。手はうっておくからこちらへ戻ってこい」

との勅令が来た。5人足らずで始まったプロジェクトだったが、気づくと100人ぐらいになっていた。立ち上げ当初は経営企画・事業企画担当だったが、技術検証もクリアしてきたところで僕はコールセンターを始めとしたオペレーション部門を管轄することになっていた。さすがにこの規模で僕一人では厳しかったので、僕よりも一回り年上で老獪な部長クラスのイケバさんが僕と同じくデジタルクラブ社からオペレーション部門のエース人材としてアサインされていた。

アサインなどというとカッコいいけれど、言葉を選ぶと「生贄」という方が正しいかもしれない。僕よりも上質な生贄をお上に差し出すことで、若くてもうそろそろパンク寸前でありボロボロの負傷兵な僕が帰還することになった。

日本橋のソフトバンク本社ビルに戻ると、部下たちは「若頭、ご出勤お疲れさまでした!」的なお迎えの言葉を多く頂き、刑務所からシャバに出てきたか、シベリアやベトナムから帰還したような気分だった。歓迎ムードもひとときで、すぐに上場準備の実務に入らねばならずだったが、このYahooBBプロジェクトのような「精神と時の部屋」で鍛えられたおかげでその後の仕事は比較的そつなくこなすことが出来た。

一方でYahooBBプロジェクトの方はオペレーション構築が全然間に合わずで、炎上を繰り返していたようだった。身体が2つあったら両方のプロジェクトが出来たのかもしれないが、まあ途中でぶっ倒れていただろう。

デジタルクラブ社はクラビット社と名前を変え、無事、大証ヘラクレス市場という新興市場に上場することが出来た。
僕は上場企業の企画室長となった。

(ここまで)

このあと、本編では以下の内容、章立てでハナシが続きます。

===<ナンパ修行編>

===<痛恨のお惣菜屋編>

===<2回目の恋愛が始まる>

===<さらば、茨城県>

===<綾瀬時代>

===<おやじの危篤

===<トラブルと並行した恋愛>

===<クラビット上場前後の戦場>

===<遠距離恋愛>

===<僕はPCBコマンダー>

===<mixi日記>

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