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交換日記(4)世界の終りと幸福論

<1周目のお題:世界の終りと>

炭酸の淡く弾ける感覚と
繰り返し寄せるさざ波の気配と
ひそやかに浮かぶ月の呼吸と

さて。
世界の終わりについては、かつて創作っ子のシュガーとハニーに語らせたことがある。それ以外にも、何度か言葉書きのモチーフとして手に取った。世界終了同盟という響きも懐かしい。

『ねぇハニー』

『なぁにシュガー』

『たとえば明日世界が終わるなら、最後の今日をどうしたい?』

彼らは彼らなりの、実に彼ららしい答えを用意しているのだけれど、さぁ、私自身はどうなんだい? と考えてみる。あの頃も、そして今だって、明確な答えは持っていない。
世界だなんて言葉を使っていいほど、私の手が届く場所は広くない。と、思うから。

いろいろな定義の仕方がある。
世界は言うなれば、自分の手が届く範囲でしか造れない箱庭のようなものだ(あくまでも私にとっての話)。
その中では、ほんの些細な出来事による変化でさえ、確かに「終わり」を運んでくる。私の認識しているものは日々変わり続けて、幾度でも何度でも終わってゆく。同じくらいの頻度で始まってもいるけれど。

それと似たかたちで、幸福について考えてみたことがある。なんたらとかいう哲学者が説いた「最大多数の最大幸福」を、好きなようにこねくり回した。
どんなに頑張ってみようとも自分の手の届く範囲にしかいられない。触れられる範囲も限られている。個人差はあるから一概に言ってはいけないけれど、決して、広くはないはずだ。

その中で何を抱きしめていようか。
何を幸福として望もうか。
自分を囲う世界で、何を守ろうか。

答えはきちんと見つからないままにしておくのが、きっと心地いいよ。

誰の語る「世界の終わり」も、正しくて間違っている、のかも知れない。
本当のことを識っているのはやはり神様であってほしくて、けれど祈り方なんて知らないでいるんだ。どの背中がそうかわからないもの。

ただ、願うことができるなら
世界が終わるそのときには、できれば誰かの体温をてのひらで握っていたいし、笑っていられたらいいなぁと、思う。

世界の終わりには、花束を手向けよう。
きっと少しだけ、幸福な気持ちになれる。

……ああ、私は交換日記には向いていないや。




ここまでお読みくださり、ありがとうございました