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「子供の声は騒音か?」みたいな話のあれこれ

※ヘッダー画像は当該地域とは関係ありません

筆者の住むアパートは、小中学校の通学路に面している。

住み始めた時点である程度は覚悟していたが、下校時間の騒がしさが想定以上に酷い。

楽しくお喋りをする程度ならば目くじらを立てるつもりもないのだが、毎日のように金切り声やら怒鳴り声やらが響き、時には防犯ブザーを鳴らしてふざけている。いささかやりすぎではないだろうか。

こと、一連のパンデミックを経てリモート打ち合わせを頻繁に行うようになってからは実害が顕著だ。相手の声がまるで聴きとれないことがままある。
リモートワーク民だけでなく、寝ている赤ん坊や病人・夜勤従事者にも傍迷惑な話であろう。

この手の話題になると「子供の声は騒音ではない」「今の子は可哀想」と判で捺したようなコメントがどこからともなく発生する。
論点が的外れであり、解決・改善にも繋がらない、悪質な横槍である。

そうした的外れな横槍も踏まえた筆者の言い分は、以下のようなものだ。

喋ることと騒ぐことは違う
少なくとも筆者においては、お喋りにまでああだこうだ言うつもりはないことは、先に述べたとおりだ(もちろん、何十分もバカ笑いを続けている・みたいなケースは別だが)。
人間が会話することは当然であり、全ての声を騒音だと決めつけたりはしない。

一方、お喋りを通り越した怒声や奇声に関しては、大人・子供関係なく褒められた行動ではないだろう。こと怒声については、罵倒や挑発を伴うことも多く、看過する理由はない。

優先順位は小中学生<赤ん坊、ではないか
「子供は可哀想」論者の、子供(小中学生)を楯にする主張が小賢しいのだが、だったら昼寝をしている赤ん坊が可哀想という話である。
何だったら、小中学生の中にだって静謐を好む者はいるだろう。彼らもまた可哀想ではないか。

また、騒いでいる小中学生だって、全員がどうしようもないバカではないだろう。
単に考えが及んでいないだけで、「赤ちゃんが寝てるから大声は控えてくれる?」と伝えれば理解できる者もいるはずだ。そうして視野を広げ、他者を慮る心を学ぶ機会を「子供が可哀想」論によって奪うことの方がよほど残酷な話である。

ついでに「大声を出すのが楽しい」「ストレス発散になる」という声も見られるが、1人の発散で他人がストレスを被っているのが如何に馬鹿げているかは言うまでもない。
(何でもかんでもストレスのせいにすること自体、筆者は懐疑的なのだがまぁ、それは横に置いておこう)

残念ながら、以上の内容を最寄りの学校に連絡しても改善は見られなかった。かといって、防犯ブザーを鳴らしている子供を見ず知らずの成人が注意するのは言わずもがな、余計なトラブルの元である。

「楽しくしゃべるのは構わないし、黙って歩けとは言わない」
「けど、寝てる赤ちゃんや病人、リモートワークしてる人や勉強してる人もいることは気にかけよう」
「君たちが騒ぎたい・叫びたい気持ちと、赤ちゃんや病人の健康、どっちが大事か考えてほしい」
「君たちの生活や趣味も、リモートワークしてる人や夜間に働いてる人が支えてるよね」
……このくらいのことは、子を持つ親が正しく伝えてほしいところだ。

【追記】
なお、道路で騒ぐ人種を「道路族」と呼ぶことに対しては、筆者は強く否定する。
内輪向けの俗称を作ったところで迷惑行為が改善されるわけではなく、また字面から「迷惑である」というニュアンスも、軽蔑の意図も伝わらない。

中立的な立場の人に理解を求め、改善に繋げるためにも、安易な造語の使用は慎んでいただきたいところだ。

(3/10 一部表記を改めました)

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