鎖骨日記 #2 コロナ禍における看護師の負担増を考える
どうも、すちです。
鎖骨入院二日目です。
入院も二日目を迎えると、当然朝から晩まで入院生活になる。面会の可能性が皆無のコロナ禍において、一日に発生するイベントは、ご飯と看護師さんの定期検査、そして朝ドラくらいのものである。
ご飯は毎食栄養バランスの考え抜かれた料理がくるわけだが、平均的に老人が多いであろう食事はその水準に合わせられており、ご飯が柔らかめだったり、おはぎのあんこが少なかったり、ちょっと物足りなくなってくる。美味しいおかずは美味しいんだが、二日目にしてワクワク感が薄れるようなそんな品質である。医療を主として提供している病院に対して、食事のクオリティをもっと上げろというのも、酷な話。だが、面会のない状況下で、生きる気力を奮い立たせ、なんとか元気になってやると一踏ん張りする力をもたらしてくれるのは、こうした日々のささやかな喜びなのだろうと思う。
そして、食事と並んで非常に重要なイベントをもたらしてくれるのが看護師さんだ。一日中、ほぼ一言も話さないこの入院生活において、看護師さんとのコミュニケーションは本当に重要な役割を担っているように思う。
医療従事者としての実務的な会話が発生するのは当然だが、その無機質な会話の中に少しだけ"余分な話"を混ぜてくれる看護師さんがいる。そんな会話をした時は、個人としての看護師さんが少しだけ垣間見えた気がして嬉しくなる。
"お熱測りますね"
"血圧測りますね"
"体調お変わりないですか?"
"今日のご飯美味しかったですか?"
何十人もの患者さんを管轄しなければならない役割であることを考えると、ひとりに充てられる時間が限られるのは当然だ。その限られた時間の些細な会話の中で、ほんの少しでも人の温かさを与えられるのは看護師だからこそ担える役割なのだろう。
コロナ禍で面会ができなくなっている今、病院内の空気は今まで以上に変わり映えせず、退屈なものになっていると思われる。患者たちは数少ない看護師とのコミュニケーションに、今まで以上に救いを求めているのではないだろうか。
看護師の主な役割である医療行為。それと同じくらい、あるいはそれ以上に大事な人としての在り方。その重要性を体感させてもらった一日だった。
どんな分野でどんな専門性を発揮しようとも、社会の中で人と関わって生きていくということは、その土台としての "人としての在り方" が何よりも大事なのかもしれない。
では、また明日。
鎖骨日記で会いましょう。
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