トマム滞在記(XXIV)

 何か集中して物事をなそうと努力する時も、ふとした瞬間に頭の中でお喋りが始まってとまらなくなる。そうして生まれる無様な行動の奴隷になっている自分を、また同様に頭の中で観察している人間がいる。脳内の「彼」はビデオを常にRec状態にしていて、僕がやったあらゆるへまや情けない行動を逐一記録し、こちらが油断した隙に脳内に流す。集合時刻に間に合わない自分、義務を期日までに果たせなかった自分、そういう幾多の恥の記録を好きな時に流してくる。仕方のないことではあるが、外側の人間には僕の内側で起こっている混乱や騒乱とも呼ぶべき状態を把握することなどできないから、社会的なミスに対して勝手に失望する。「何故同じことを繰り返させる」「何故言うことを聞かないのか」こう言葉にしていってくれるうちはまだましで、相手が何も言わないとき、相手の心情を深く考え込んでしまい、想像の自由度のあまり、こちらに致命的ダメージを負わせるような思考を相手がしているように捉えてしまう。これもまた同様に僕の迂闊な行動と統御すべからざる性格に起因している。憂鬱こそ創造の源であり、快楽は堕落と同義である、世の中に蔓延る典型的な欺瞞が自身を疑うことはないといっていい。皆幸せを掴もうとして泥の中に足を突っ込む、泥の奥底にあるものはもっと大きくて価値あるものだという根拠のない愚かな信仰を携えてだ。だが奥底に沈んでいるものが実際空虚であると気が付いても泥の中から出てこない連中がいる、彼らは泥の中にいること自体に密かに快感を抱いているからだ。彼らとはつまり僕のことだ。頭の中で勝手気ままにお喋りをする自分、音楽を好き勝手流す自分、そうして生まれた社会的不名誉をスクリーンショットのように記憶に蓄積させる自分、要するに僕は歩き方がわからなくなっている。ファウストの言葉を拝借すれば「鬼火のようなふらふら歩き」をしている。僕はこの言葉を笑って受け取ることは到底できない。いっそ泥の中で溺れて死ぬことすら考える。勿論そういった内容を具体的に吐露することほど恥ずかしいことは他にないから語ることは止めるけれど、自死について考えない人間は余程幸せなんだろうなという確信は抱いている。

 今日の午後労働開始前の集合場所に足を運ぶと、監督がじっと僕を見つめていた。待っているのは当然僕一人のことで、今日早朝からのシフトを忘れていたことを咎めるためだった。ここまで無遅刻無欠勤を貫いてきて、僕だってやればできるじゃないかと僅かに自信がついてきた時分に、途方もなく大きなミスをしてしまった。僕が入るはずだったのは飲食提供の場だった。人員がもとよりそう多くない職場での無断欠員は致命的だ。正直監督に謝ってもしょうがないけれど、誠意は見せなくてはならない。「高名の木登り」の逸話を思い出したが、これは慣れからの油断というわけではないのかもしれない。自分の性格を的確に把握することのできる人間は世の中どのくらいいるのだろう。皆それができないから、他人に自らの輪郭を規定することで一応の安心を得ているのではないか。自ら自己の輪郭を探ることに反省の概念をラベリングするならば、僕は今まで反省しようと試みながら何もできなかった人間であったことになる。そんな人間がどうやって胸を張って生きられるだろう。さっさと筆をおいて明日に備えて寝たい気分だ。

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