トマム滞在記(XVII)

 『カラマーゾフの兄弟』の中で、ゾシマ長老のもとを訪れた客が予言めいたことを述べる。人類は充実した人生、個性を追求するあまり、孤独と精神的自殺を深めていく。富を失うことのほうを恐れ、より不幸になる。なるほど、科学の進歩とともに人間は生命維持の心配をする必要がなくなった。その代わり、生命の保証によって「何のために生きなければならないのか」という際限ない苦痛にさらされることになる。

 最近ドストエフスキーの『地下室の手記』を一通り読んだ。アンドレ・ジッドはここに「ドストエフスキーの全作品を読み解く鍵」を見出したという。病的なまでに奔走する思考を『罪と罰』で犯行後ラスコーリニコフの頭を駆け巡ったような深甚なものと重ね合わせてみる。自身の思想や聡明さに対して傲慢になり、自己疎外に走り、ひいては破滅に至る、そういう人間の原型をこの小官吏に見出すこともできる。
 こういう奇妙な、具体的には異常なまでに自意識過剰であるこの小官吏は、街中に繰り出せばいくらでも見つかるだろう。今日もツイッターは精神疲弊に一役買ってくれたが、どうしてSNSは止められないのだろう。若者はこの頃インターネット依存に陥る傾向があるらしい。これを「現実逃避」とみる向きもあるが、インターネットを逃避先に選ぶのはかなり愚かだ。なぜなら現実よりもインターネットのほうが人の黒い側面が現れやすいから。苦しみの根源は人だ。インターネットの特徴は、現実でどう振舞っていようが虚構の自分を作り出して、残した形跡に酔うことができるところにある。だから延々と自慢にふけったりする人間が多く発生する。いくら匿名でもそういう姿を僕は好かない。何はさておき、情報化が進んだ現在、玉石混交、自分にとって都合のいい情報も不都合な情報も濁流のように流れてくる( 大抵は不都合で不愉快な情報だ) 。まるでチャンネルの絶え間なく切り替わるテレビを見ている気分になる。どこにいたって世界とつながっていることを意識せざるを得ない。息苦しい世界で僕たちは必死に「安息の地」を求めようと悶える。まさにその時、人は自分が地下室に片足を突っ込んでいることに気が付く。
 日本をはじめ文明化が進んだ先進国では、誰もが個性の開発競争に躍起になる。学生は急いで何者かになりたがり、社会人は仕事こそ人生そのものだと信じ込む。現代における競争の過程で、この小官吏のように「地下室」に閉じこもりそうな人間のなんと多いことか。しかし自分を棚に上げたような発言をしている人こそ、地下室行きになる大きな可能性を秘めているのだ。「四十年の地下暮らし」とは決して大げさな比喩ではない。家庭を放棄して仕事にのめりこんだ人間は退職後に、自分が四十年地下暮らしを行っていたことがわかるだろう。
 人間は「お前の裡に真理は存在しない」と叫び、神を否定し科学や経済の力に生活の糧を求めた結果、互いに持っているものを自慢しあうだけの卑しい生き物になり下がってしまった。だから神が生きていた時代に戻れ、などというつもりは全くないが、現代の主な風潮である「理性絶対主義」は一体どこまで続くのだろうと考え、不安になることがある。パスカルは『パンセ』の中で人間の理性には限界があることを主張している。ドストエフスキーもまた、『罪と罰』や『悪霊』の中で理性のみに基づく改革が破滅をもたらすことを予言した。僕に彼らほどの力はないから、生活が保証された現在、再び築き上げられたバベルの塔の下で新たな苦しみにさいなまれるほかない。だが自分が知らず知らずのうちに「地下室」に閉じこもっていないか、これだけには常に気を配っておきたい。地下室とは結局自分の殻なのだ。個性を気にするあまり、他人に害を及ぼすことがあってはならない。妙なプライドから友人を失望させたり、リーザを辱めたりする哀れな反面教師が時折頭の片隅に現れ、僕を諭している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?