トマム滞在記(XIV)

 名大に突如現れた、社会科学研究会を中傷するタテカンの画像を見た。たちまち怒りが込み上げてきて、短時間のうちに独りエネルギーを消費してしまい、何となく続けている日々の記録を中断してしまうところだった。だが人間ご飯を食べるとどんな疲れも少しは回復するもので、夕飯を食べた後だんだんそれが静かな悲しみに落ち着いてきて、何となく今、こうしてまたとりとめのない文章を練ることが出来ている。だが既に社会科学研究会に事の重大さを連絡させてもらった。何も僕が社研のことを気に入っているというわけではない。しかし大学という自由な学びであふれている場にとって、君たちの行動は害悪でしかない。
 社会科学研究会がこれほどまで嫌われている理由をよく考えてみると、はっきりした理由がなかなか見つからない。彼らは極左思想の持ち主である、という。しかし暴力集団ではない。実際彼らが他人に危害を加えたりしたことがあるだろうか。全共闘の時代のことを心に思い描いてみる。実際彼らと同じ思想を持つ人間が過激な行動に出て、公安と衝突したり逮捕者や死者を出したこともあった。そういう時代の復刻を望むのは馬鹿げたことだ。しかし君たちに学生の思想まで奪おうとする権利はない。そもそも文系の学問というものが、個人の長い研究を経て自身のオリジナルの思想を育んでいく場所だ。そういう人生に根差した価値観を君たちは「時代錯誤」だの、「うざい」だのと語って一蹴する。「学生運動が時代錯誤」本当だろうか。共通テストに反対する高校生たちの運動は果たして時代に即していない的外れなものか。そもそも時代錯誤な運動・主張など存在するのか。各々が社会の今に関する最も差し迫った問いについて、人生をかけて議論しているではないか。極左思想は危険だ、よろしい。しかし極左思想を攻撃的に排除する思想も同時に過激なものだ。君にはその自覚があるか。彼らは君を排除しようとしているわけではない。むしろこちらがしっかりと勉強して自分なりの考えを構築し、意見を発信すれば、相手は一応聞く姿勢は持ってくれるものと信じている。だが君たちは彼らを排除しようとしている。それも幼稚な言動、暴力的な姿勢で。君たちにとって、「思想」が短絡的に危険因子と結びついているならば、きっと君の人生は浅はかなままで終わるに違いない。だが君たちはそれに気が付いていない。もし社研の活動を不愉快に思うなら、自分なりの論理を構成して彼らを論駁するくらいの事をしろ。でも君たちはそれをしない。できないのだ。その時点で、あのような馬鹿げたタテカンを作る権利はない。

 僕は社会科学研究会の支持している思想については全然知らないし、そもそも興味がない。だが単なる勉強不足の連中によって思想の自由、学問の自由が脅かされていることに、僕は深刻な危機感を感じているし、君たちの行動は断じて許されるものではないと思っている。思想なしに動く社会など狂気の沙汰だ。なんだか書いているうちに再び腹が立ってきた。社研への中傷に怒っているというよりは、学問や思想の自由を侮辱する人間が大学にいるということが途方もなく悲しくなってしまったのだ。

 もっともっと書きたいことはある。だがこれ以上感情的になるのは良くないと思うし、そろそろ筆をおくことにする。ナチスドイツにおいて、多くの書物が「非ドイツ的」として葬り去られた。まさにその場所に刻まれている言葉を君たちに送りたい。

Dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen.
「本を焼く者は、いずれ人間をも焼くようになる。」

君たちにはナチの匂いすらするよ。この感想もまた、僕の自由だ。

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