トマム滞在記(Ⅴ)

 北海道で過ごす夜に、既に厳しい冬の匂いがしている。ここは北海道それも山間部で、冬はマイナス20℃にもなることがある。10月中旬には名古屋に戻るわけだから、そう力を入れて防寒対策しなくてもいいだろうと高をくくっていたが、少し不安なので、近いうちに休みを取って防寒着でも買いに行こうかとすら考えている。ところで昨日、ふと思い立って寮を飛び出し(ここには門限というものはない)、夜の真っ暗闇の中に足を踏み入れた。もはや秋ではない。生き物を殺しにかかる冷たい空気で満たされている。ここは街灯すらないのだ。唯一の明かりである寮の部屋の電灯は、歩みを進めるごとに点の群れに還元されていく。寒さにあわせて、どうしようもない孤独がそこにあった。一度そこに落ちたら誰も助けてくれない、無限に広い空間を想像してみるとよい。それが宇宙なのだ。そして空を見上げると、満天の星空があった。
 生まれて初めて天の川をはっきりと視認した。いつも見えている明るい星の隙間に砂粒のように散りばめられた星が、夜空に圧倒的な立体感を生み出していた。頭上にはカシオペア座がある。いつも見えているM字の並びを周囲の細かい星が取り巻いており、写真でしか見たことがなかったようなカシオペア座の姿に惚れ惚れとしていた。カシオペア座だけではない、僕が知らない様々な星座が群れを成して眼前に広がっているのだ。昔の人々がついこの間で、晴れた夜にこうも素晴らしい景観に遭遇していた事実を、僕は信じがたい。

 たまには僕の専門である理論物理の話をしよう。一般相対性理論によれば、空間は重力の影響を受ける、というのは人々の良く知るところである。しばしば「空間は重力によって歪まされる」と説明されるが、その意味をしっかり説明しようとすると幾何学の言葉を様々に持ち出さなくてはならない。例えば、デカルト座標を取ってみよう。マス目が正方形上にきちんと並んでいて、座標は(x,y,z)の形に規則正しく配列される。さて、2点間の距離をどうやって定義するかと聞かれたとき、多くの人々は三平方の定理を持ち出してsqrt(x^2+y^2+z^2)で定義するだろう。このことは、ベクトル(x,y,z)を二つ用意し、間に単位行列を挟んで「内積」を取る作業であるともいえる。間に挟まる対角成分が全て1のテンソルをユークリッド計量という。
 だが、本当にいつでも2点間の距離を2乗の和で定義していいものだろうか?球の表面ではどうなるだろう。明らかに前者の定義は破綻してしまう。曲がった表面の上では最短距離を結ぶ直線も曲がった形をとってしまう。曲がった空間における2点の最短経路のことを測地線という。光は「直進する」というのは実はあまり正確ではなくて、測地線に沿って移動するだけである。こういう幾何学的な空間の歪みは重力によって引き起こされ、重力レンズの効果などが一般相対性理論で説明される。重力で歪まされた測地線に沿って光が移動することから、物体の背後にあって見えないはずの物体の光までもが観測されることを説明できるのだ。ここにも宇宙論の奥深さ、不思議さがある。うって変わって量子力学の話をしよう。「光には粒子性と波動性の二面性がある」ことを数式を使ってしっかり説明しようとすると難しい。朝永振一郎の『量子力学(Ⅰ)』に、物理学者はこの曜日は光を波と考え、この曜日は粒子と考えていた、という面白いたとえ話がのっていた。そのくらい光の性質は当時の物理学者たちを困惑させたのだ。決着がついたのは1920~30年代、ざっくりいえば、調和振動子で許される状態の数学的規則と、ボース粒子を表現する状態の数学的規則が合致してしまうので、波動性と粒子性の二面性が同時に表記できるのだ。人々はいつの時代も「統一」に大きな魅力を感じている。

 こういう物理学上の人類の成功はさておいて、たとえ相対論で時空の概念が革新されようと、量子論で光の概念が更新されようと、やはり宇宙は巨大で、星は瞬き続けるし、風は気持ちよくて、鳥は軽やかに鳴く。世界が抽象に落とし込まれたところで、現実はびくともしないのだ。一日中机に座って、理論ばかり追いかけている物理の学生は少なからずいる。そういう人たちにトマムの夜空を見てほしい。世界に親身に寄り添い感動することが、理論物理を志すうえでまず大事なことなのかもしれない。

 それはそうとして、労働が辛すぎる。『死の家の記録』が読みたい。誰か買ってくれませんか。

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