トマム滞在記(XIX)

 社会が陥穽に満ちているのに間違いはないが、落ちた穴を穴と思わず悠然と生活している人の存在をここ北海道の山中で知った。若い時分を低賃金労働に充てるという悲しい現実の中で、彼らはもがき苦しむどころか一種の快感すら携えながら生活している。ゲームも酒もリゾートも含め、何故平気で資本家たちのくだらない餌に群がるのか。当然、受動的だろうが積極的だろうが、すべての気晴らしは空虚である。しかし受動的な気晴らしが創造のヒントになることになることは極めて多いにせよ、彼らのまき散らす餌の中に価値ある何かを見出すのは少なくとも僕には難しい作業だ。それとも既にこういう見方が何かしらの落とし穴にはまった人間の見解なのか。僕が陥穽と認識している世の中のあらゆる道楽や暇つぶしには実際何かしらの真実が含まれていて、僕が極端に傲慢な意識をもってそれを見まいとしているだけの可能性もある。酒や女やカードゲームに含まれる何かしらの真実とは。いずれにせよ息苦しい生活が続いている。
 インターネットには才能あるクリエイターたちの作品がひしめき合っている。創造性が一切死んだ空間に働きに行くことを決意した僕だが、それは一か月間作品を眺めるだけの立場に回らなければならないことを意味していた。人里離れた虚無の空間でこうした豊かな作品たちを眺めるのは楽しいと同時に途方もない痛みを伴うものだ。貴重な学生生活時分においてまとまった一か月を搾取に付き合わされるのは致命的だ。ある種の死刑宣告だ。こう長い間妙な環境で生活していると、少なくとも僕の薄弱な意志はあっという間に環境に順応してしまい、今後の生産活動にネガティブな影響が出てしまうのではないかと心配になる。ネガティブな影響とは何か。コンビニに陳列されている、生理的刺激だけを要素とする漫画の群れを見たことがあるか。消極的生産の罠にはまった悲しい作品たち!こういう例は世の中に出ればいくらでも存在する。マニュアル肉体労働を経て、僕の価値観が少なからずこういった作品に似た無益なものに寄ってしまうかもしれない。そうなったら僕の生きていく価値はどこまで下がってしまうのか。そして自分の価値観の正当性を信じ込んでいる自分が結局一番愚かなのだ。4年の徒刑生活は遂にドストエフスキーの創造意欲を破壊することはなかった。4年間!この歴史的事実は僕を元気づけるのに十分なインパクトがある。

 最近の時間経過の早さや、無自覚に取っている歳を反省してみると、人生が有限であることあるいはその短さに改めて恐怖する。だから人生、何かを鑑賞したり楽しんだり瞬間が必要であるにせよ、やはり一流の本当に価値ある作品だけを眺めてみたいものだ。その点古典は歴史を超えた普遍的な真実を携えていて、僕の価値観に照らし合わせるとかなり信頼あるコンテンツだから、最近頻りに触れるようにしている。だが古典を鑑賞するということはかなり難しい作業で、時代を超えた創造力や人生経験が必要になる。かつて「十代のころに読んでおくべき本リスト」なるコンテンツが流行った。おいそれと認めるわけにはいかないが、馬鹿げたリストだと思って放棄したい気分でもない。十代とはいかなくても、若いうちに目を通しておくくらいでいい。三十代、四十代と死への階段を登るにつれて、その本の持つ価値というものはだんだんわかってくるし、その人の生に寄り添うことができるというものだ。同時に、良い創作は良い材料吸収から生まれると信じている。今のうちに一流の作品について勉強しつつ、将来何か豊かなコンテンツを発信できるようになるといいな。

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