トマム滞在記(Ⅹ)

 今日は八時間、休憩込みで九時間働いてしまったので、疲れにいつもより一層圧倒されている。出獄間近のゴリャンチコフは刑期を終えるまさにその前日、自分を閉じ込めていた木製の策を眺め歩きながら、監獄の中で国に使われることなく無為に消えていった才能を思って嘆く。忘れがちだが日本は資本主義国家であり、資本主義国家とはもともと残酷な社会体制だ。アルバイトという資本家の練った空虚な甘い蜜に誘われて、大切な時間を低賃金労働に変換し続け、自分の持つ才能を枯らし、そのまま階級保存装置の歯車になり終わる学生の如何に多いことか。これが学生だけの罪ではないのが口惜しいところだ。
 僕はそういう社会体制への反逆のために、あるいは現実から目を背けるために、物理学の本をバイト前後で読んでいる。幸い理論物理の世界にはランダウという偉大な先人がいる。ランダウはソ連が生んだ最高の理論物理学者で、同時に教育の才能も兼ね備えていた。物理学科の学生がやるべきことはひとまず彼とランダウの弟子、イェ・エム・リフシッツが共に築き上げた『理論物理学教程』という全10巻からなる書籍群にすべてまとまっている、といっても過言ではない。要するに具体的な目標があるから勉強しやすいのだ。生物や化学など、その他の自然科学においてこういった具体的指標みたいな書籍があるのか、僕は知らない。どうやって体系的に勉強しているのだろう。最近は、先日も紹介した『流体力学』を読んでいる。流体力学はランダウの得意分野の一つで、例えばこの書籍の中には細長いジェットから流体中に発せられた粘性流体に関するナヴィエストークスの方程式の厳密解が記されているが、これは彼の論文である。(A new exact solutions of the Navier Stokes equations (C.R.Acid.Sci.URSS,43,286,1944))正直計算を追うのは非常に困難だったし、今も手元で計算を再現できる自信がないので、まだまだ訓練が必要だ。ナヴィエストークスの方程式は非線形項を含むので、2020年現在でも一般的な厳密解は得られていないし、部分的な条件を与えて解こうと思っても、凡そ非人間的な数値計算を強いられたりするらしい。この辺の研究は例えばL.L.Cinあたりが詳しく行っているので、興味のある人は調べてみるとよいと思う。

 労働の話に戻る。皆さんは「本当に名大生か?」と尋ねられたことがあるだろうか?こういう話を切り出す以上、僕はある。カラオケ店でバイトしていた時のことだ。おっこれが噂の学歴ハラスメントかとその時は軽く考えていたが、今反省すると、「こいつ名大生のくせに物分かりが悪すぎるしふざけているに違いない」くらいの認識をされていたのかもしれない。そう思われても仕方がないような過失、ミスをいくらでも重ねてきてしまった。トマムでも同じだ。以前も話したが、僕はもともとマニュアル肉体労働をするべき人間ではないのかもしれない。ミスは多いし、手際が遅いので、いつも一緒に働く人間からあからさまな敵意を向けられる。この瞬間は幼少期から遭遇しているが、何時まで経っても慣れるものではない。とりわけ今日は緊急ヘルプを出されてしまい、3人くらい追加されたメンバーに手伝ってもらってようやく仕事が時間通りに終わった。情けない話だ。僕は通常この任務を負っている人間がやるべき量の半分もこなせたかどうか疑わしい。
 この鬱憤をどこで晴らすか。幸い僕は今リゾート地で働いているので、料金はあまり変わらないが、観光客のために用意されたレストランでちょっとだけいい食事をいただくことができる。暗い気分を跳ね飛ばそうと思い、職場から少し歩いたテラスにあるラーメン屋に足を運んでみた。断っておくと、僕は立川マシマシだのあっぱれだの、ギトギトの空気感の中提供される豚の餌みたいなラーメンに慣れているので、入った瞬間に違和感を拭い去れなかった。裕福な家のリビングを思い浮かべるとよい。上には木製の大きなファンが回っていて、オレンジがかったふんわり柔らかい照明が店内を優しく照らしている。これがラーメン屋なのか?と思いながらメニューを開いて、たちまち自分が場違いであることに気が付いてしまった。同時に、どこか社会に対するもどかしさ、切なさのようなものも味わった。僕は決して資本主義社会を憎悪しているわけではない。理学部生だからと言ってマルクス主義を掲げているわけではない。ただ、学生が来るような店ではなかった。薄々気が付いていたけれどあえて知りたくなかった世界を、メニューからガンとぶつけられてしまい、深刻なめまいがしたのである。

 メニューには1000円から2000円のラーメンばかり並んでいた。僕が先日食べたもつ鍋とは違う、階級意識から来る驕りでべたべたに塗り固められた食事!もちろん目ぼしいものを注文したし、新鮮な風味がしておいしかったが、実のところ僕はこんなものを食べるために働いているわけではないのだ。僕が「パパ活」なるものをあまりよく思っていない理由の一部もここに含まれている。金が絶対的権利の象徴になり、社会的身分によって潤色された環境、そういった世界が「いずれ大切になってしまう」にせよ、一学生にそんな世界は必要ではないし、空虚でしかない。麻雀やパチンコ、ガチャゲーと同じくらい空虚だ。具体的にいえば、リゾート地に来るのは社会の高層部の人間で、それを低層部の人間がスタッフとして支えている、古代ギリシアとあまり変わらない光景、そういったものをせめて学生の内だけでも見まいとしているだけなのだ……。どうせ人間の作る世界なぞ汚くて、愚かな所産でしかない。ここから目をそらして真に美しいものを眺めたり、感動的なものに触れたり探求したりするのが学生の特権だと僕は信じて疑わない。でも学生もいずれ「人間」になり、薄汚い世界に飛び込んでいかないといけない、それもまた運命だ。せめて今だけ、今だけはと念じながら、最後の一滴までスープをすすっていた。疲れた体には沁みる、とても濃厚な海鮮ベースの風味だった。

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