トマム滞在記(XXVI)

 寮の中を歩いていてふと、妙な静かさに気を取られた。僕も入寮してそろそろ一か月になるが、僕の見知った人々は大抵僕より一種間ほど早く労働を始めていて、ひと月ほどの契約で去っていく。僕の知らないうちに寮を出て行って、新しい人生を始める。僕には関係のないことで会っても、出会うまでに既に二十数年分の人生を積み重ねた彼らの今後を、この一か月間の観察を基に想像してみることは存外楽しいものだ。彼らのほとんどと連絡先を交換していないから、「一期一会」という現代人が忘れがちな、警句とも喜びともとれる言葉の深長さを噛みしめている。かくいう僕も、あと数日で解放される。せめて手元に『死の家の記録』が欲しかった。労働内容は契約満了が近づくにつれて過酷になってきた。少しでも稼いでおきたいので、シフト管理人にもっと仕事をくださいと懇願したところ、皆が一番やりたがらない飲食の場に置かれることになった。わがままは言っていられないが忙しいのだからしょうがない。製造ラインを止める工場職員の心情を想像してみるとよい。皆何も言わないが、直接怒られるのと同じかそれ以上の心理的負担がかかる。そんな人間と僕は大いに重なるところがある。労働中は発狂しそうになるし、表には出さなくとも常に何かに怒っているのだが、いざ労働を終えると喉元過ぎれば熱さを忘れてしまい、強烈な疲れと忙しさの余韻だけに取り残される自分をひたすら観察している。
 朝6時から始まった労働を3時に終えたが、元気は少し残っていたので、先日Rさんに教えていただいた図書館で勉強することにした。山の上に少し豪華なタワーホテルがあって、ホテル内部にカフェを模したリラックススペースが設けられている。棚にはそう多くの本があるわけではないが、外国人向けの本が半分くらいで、「日本の文化」と言われて思いつく典型的な内容、日本酒とか、観光名所案内とか、そういう本が多く存在していた。海外向けに日本はどのように紹介されているのかふと気になって、後者の本を開いてみた。京都や奈良などはもちろん紹介されていたが、直島や中央高地など、日本人の僕もあまり関心を持ったことのない名所が載っていて、新鮮な気分だった。
 机に座って二時間ほど特殊相対性理論と格闘した。読んでいるのはランダウ=リフシッツの『場の古典論』である。『力学』より先に購入はしていたが、ちゃんと読み始めたのは最近だ。アインシュタインの偉大さや、世界の不思議さを携えた方程式を目の前にして、感慨にふけるだけの元気があったのは少し驚きだ。カフェの目の前で小さな木がふさふさと揺れている。「物理学は自然のより詳細な近似モデルを作り上げることが目的だ」という言説を目にしたことがある。断っておくが、人間に1molの分子を記述することは今の技術では到底できない。実は自然を詳細に記述することは理論物理学者の目的ではない。それを目的にしている人間が仮にいるにせよ、恐らく違う畑の人間だと思う。「物理は現象のエッセンスを抽出する学問だ」ともいう。だがそのように語る人間には、「現象のエッセンス」が何かを真剣に考える義務がある。物理学は決してやさしい学問ではないし、小手先の言葉を舌の上で転がしてごまかせる体系でもない。例を挙げよう。「すべての慣性系で系を記述する方程式は普遍になる」ことが特殊相対論の主張の根幹をなす部分である。19世紀も終わるころ、マイケルソンの実験は光の速度が伝播方向に寄らず不変であることを示してしまったし、マクスウェルの方程式には謎の定数cが出てきて、これを違った慣性系に応じてどのように扱うかなどの問題も出てきていた。当然、上の原理のもとでは「相互作用の伝播速度が全ての慣性系で不変である」ことになる。古典力学では、相互作用におけるポテンシャルの記述が位置を直接含む以上、一方の位置のずれがポテンシャルを瞬時に替え、したがって一瞬で位置変化の情報を他方に伝えることになっていたが、この情報伝達の速さには実際上限があり、それが光の速さである。こういう一連の議論に「現象のエッセンス」を取り出すことの難しさや楽しさを見出すことが出来る。膨大で精密な計算だけが、物理学ではない。 

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