トマム滞在記(XIII)

 毎日しんどい作業をしていると、ふと休みの日が舞い込んできたときかえって違和感を抱いてしまう。今日は一日中暇をもらったので、午前は環境構築、午後からトマムのカフェに赴いて電磁気学と格闘していた。本当に毎日こういう作業だけしていたいものだ、せめて学生の内は。
 しかし一日「お客さん」になる権利を獲得して、こんなことを思った。仮に一人の人間、仕事も気晴らしも取り上げて、リゾート地に閉じ込めるとどうなるのだろう。3日くらいは彼はのんびりのどかな時間を過ごすだろう、だがそれが一週間、二週間とつづいたら、彼は憂鬱になってくるに違いない。そして一か月くらいたつと「仕事をください」「何かさせてください」と発狂せんばかりに懇願するはずだ。そのとき、夢の空間は単なる監獄になる。リゾート地は、普段忙しく苦痛にあえいでいないとリゾート地たりえないのだろう。しかしこんなくだらないことを言ってもしょうがない。

 ドストエフスキーは晩年、キリスト教、特にロシア正教に基づく社会制度の建設を頻りに訴えていた。ローマカトリックはピピンの寄進以来、キリストが拒否した悪魔の第3の誘惑を受け入れてしまい、それから信仰対象を神から『悪魔』へと変えてしまった。彼の人生最後にして最高の栄光だったプーシキン講演のなかで彼はロシアの来るべき未来、社会主義について雄弁を振るった。後にその内容について反論が出たが、それに対してすぐさま彼はこう叫ぶ。「講演が成功したのは聴衆の気分がおめでたかったからだ、と君は言う。よろしい、君は君の公民的団結に向かって進み給え。自由、博愛、平等。だが同時に次のスローガンを掲げていることも忘れるな。ou la mort.然らずんば死。(中略)西欧文明はもはや崩壊に差し掛かっている。試みに見てみるがいい、彼らは数十回も憲法を変え、幾度も制度を変更している。いずれ決算となる大戦争が起こるであろう。それも遠い未来の話ではない、すぐそこに迫っているのだ。」ドストエフスキーが死んで間もなく、皇帝ニコライ2世は暗殺された。理性万能主義の下に教会は破壊され、大地に血の雨を降らし、プロレタリアの作り上げた見事なソビエト連邦が完成した。「だがこういう社会が一世代と持つか疑わしい。」『大審問官』の中でイワンが叫ぶ。イワンの背後には、気が触れかねないほどの思想を抱えるドストエフスキーを思い浮かべてみるとよい。スターリンの狂気、ゴルバチョフのペレストロイカ、こういう一連の政治を経て、ソビエト連邦は崩壊した。

 人生の後半に向かって、キリストへの帰依を主張し始めるドストエフスキーを見ていると、早世した天才パスカルのたどった考えに近いものを感じるのだ。彼の遺稿集『パンセ』は護教本と言われているが、一冊の本として完成しなかった結果、むしろあらゆる文脈で読むことが可能になり、読解の幅が広がったということも言えるかもしれない。神を持たぬ人間の「みじめさ」について彼は頻繁に悲嘆している。

 「惨めさ。われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らすことである。しかしこれこそわれわれの惨めさの最大なものである。なぜなら、われわれが自分自身について考えるのを妨げ、 われわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、まさにそれだからである。それがなかったら、 われわれは倦怠に陥り、この倦怠から脱出するためにもっとしっかりした方法を求めるように促されたことであろう。ところが、気を紛らすことは、われわれを楽しませ、知らず知らずのうちに、われわれを死に至らせるのである。」

「この世のむなしさを悟らない人は、その人自身がまさにむなしいのだ。それで、騒ぎと、気を紛らすことと、将来を考えることのなかにうずまっている青年たちみなを除いて、それを悟らない人があろうか。だが、彼らの気を紛らしているものを取り除いて見たまえ。彼らは退屈のあまり消耗してしまうだろう。 そこで彼らは、自分の虚無を、それとは知らずに感じるだろう。なぜなら、自分というものを眺めるほかなく、そこから気を紛らすことができなくなるやいなや、堪えがたい悲しみに陥るということこそ、まさに不幸であるということだからである。」

 人生について深く真剣に検討してみると、確かな意義というものは実はあまりないことがわかる。わかってしまう。それで皆どういう風に行動するかというと、考えないようにする。そうして別の気晴らしに自己をうずめ、時間を消費して死にひた走っていく。そうだろう、というパスカルの声が聞こえる。最近芸能人の自殺が相次いでいる。皆自粛生活で人生の意義を見失っているのだ、などというつまらないことを僕は言いたいわけではない。
 ドストエフスキー、パスカル、ベートーヴェン、トルストイ、偉大な芸術家たちは最終的に神に対する信仰を揺るがぬものにし、自己を神にささげようとした。無神論、無宗教がはびこる現代において、人はますます心に闇を抱え、苦しみ、挙句の果てに自ら死んだりする。宗教とはただの洗脳手段ではない。本来怖がるべき対象ではないし、我々に精神的安寧をもたらす唯一といってもいいほどの拠り所だったのだ。何が彼らを崩壊させたのだろう。ひょっとして、物理学か。物理学を包含する科学の進歩か。僕はできればそちら方面の仕事に従事していきたいと考えているけれど、本当に幸せになれるのだろうか。
 最近自分が無神論者であることに途方もない心配を抱くようになってきた。ノイマンですら死の間近に司祭を呼んでいる。どれだけ知性を振り絞っても、結局死の前には皆無力で、愚かなのだ。そうすると、「自然は支配できる」という価値観はどれほど脆弱になってしまうのだろうか。今僕は「信じることと知ること」という晩年の小林秀雄氏の講演も思い出している。

 明日からまたマニュアル肉体労働が始まる。愚かな「気晴らし」に備えて、早めに寝ようかと思う。人間は何故生きているんだろう。多分意味はない。でも皆心のどこかでそれを受け入れようとしない。そう、ひれ伏すべき対象があれば、楽になるのだ。鬱病になって死ぬ前に、キリスト教だの仏教だの信頼できる宗教を探しておいたほうがいいかもしれないぞ、と勧誘じみたことを言ってみる。無神論者による宗教勧誘である。

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