自分語り

私の主観的な惨めさは私が考える対象の惨めさから構成されている、と開き直ってしまうくらいが良いのだろう。日記をつけるにも慎重さを要する。どう書くかではなくて、何を書くかのほうがよほど重要なのだから。

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自分について語ることがどれほど的確な自己表現になっているかはわからない。一方で、とある同人音楽の歪んでいてなお耳になじむリードシンセが良いとか、とある本の一節の皮肉の利かせ方が良かっただとか語っているあなたは、存分に自己を語っていることになる。経歴は自己である。しかし半分の意味でしか自己ではない。

自己について語っている自己は不幸である、過去も未来も一斉に背負いこむことになるから。空想の圧力を甘く見てはいけない、想像力と価値観の嚙み合わせが悪かったせいで命を落とす人もいるのだ。では自己以外について語っている自己は幸福だろうか。

否、他人について語るとき、同時に自分のことが頭の片隅にあるような気がする。他人語りは後々自己語りの糧になってしまう。だから他人のことについても同様に、あれこれ考えるべきではない。

不幸と格闘している自己はある意味幸福である。留年に対する恐怖は、留年によって損傷したありもしない未来を思い描くことで得られる。留年を補償しようと躍起になっているとき、貴方の頭は単位確保の計画でいっぱいになっている。この時実は、恐怖そのものは消えているのではないか。恐怖を頭で作り出してかき乱す時が、本当の不幸の始まりである。

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