トマム滞在記(Ⅺ)

 ちゃんと調べたことがないから経験でしかわからないが、トマムリゾートは雲海を売りの一つにしていることからわかるように結構降水量は多く、僕が来てからきれいに晴れていた日はそう多くない。トマムはいわば広大な庭であるから、雨の日は水に打たれる植物たちの鳴き声とも呼ぶべきかすかな音楽で一杯になる。今、ラヴェルの名曲『夜とガスパール』の第一曲、オンディーヌを聴きながらこの文章を書いている。トマムの靄が静かに山林を包み、夜の静寂の音楽を一層引き立ててくれている。ラヴェルのピアノ曲は基本的に静かで、慎重で、それでいて複雑な光沢を放つ無二の音楽なのだが、『夜とガスパール』はピアニスティックな技巧と相まって一つの極致ともいえる作品である。僕はこの曲を聴く度に言いようのない衝撃をうけるし、不思議なことにその感覚が増していくのだ。音楽に対峙する時、芸術家の伝記的事実は邪魔にこそなれ、助けにはならないという考えもある。実際音楽家について勉強しても演奏技術に役立ったり、曲の完成度が上がったりすることはそう多くはないのだが、曲を鑑賞する時、背後に一芸術家の姿を思い描きながらあれこれ考えてみるのはずいぶん楽しい。

 『古風なメヌエット』は彼の20歳の時の作品であるが、聴いていて若さを感じないのが不思議なところだ。大抵若い芸術家は、意識して独創性を編み出そうとし、失敗する。凡人にとって個性の追求は、結局意図して作り上げた「自分」を自分の中に混在させる遊戯になり終わる。ラヴェルのような一流の作曲家にもそういう時期があったりするのか、そんなことは僕にはわからない。しかし、妙な言い方をすればラヴェルは個性を隠すことに失敗しているのではないか。『古風なメヌエット』の中に、形式を重んじるバッハ的な旋律が幾重にも重なり形成される美しいハーモニーを我々は感じ取ることが出来る。どれだけ古典的形式をなぞって曲を作ったところで、異常なまでに大胆かつ繊細な和音、ディレイのように表現されるフレーズ、そういうオリジナリティが爆発の機会を狙い所々で顔をのぞかせている。こういう所業は天才にしかできないのだと、僕は思う。実際この才能は彼の26歳の時の作品『水の戯れ』の中で遺憾なく発揮され、混乱と共に大きな感動を人々に与えた。サン=サーンスが当初彼の音楽を認めることが出来なかったのも、ラヴェルが周りの人間を差し置いて圧倒的な表現の世界を独り拓いてしまったからだろう。

 それでもラヴェル自身は当初、『水の戯れ』を失敗作だと思っていたようである。ここに潜む創造的な不安の正体を掴むことは非常に難しい作業だ。だが失敗作というよりは、発展の余地を十分残しているといったほうが正確ではないか、彼のその後の歩みを見ていてそう感じるのだ。この傑作を以てしても表現しきれなかった彼の世界について、ほかの曲を聴きながらあれこれ推測してみるのも愚かなことではあるまいと思う。ラヴェルの「水」を表現した作品は他にもある。組曲『鏡』第三曲より「洋上の小舟」では、『水の戯れ』よりもずっと広いスケールで鍵盤が使われ、力強いダイナミクスを生み出すことに成功している。スケールのみならず、静と動の使い分けも大胆に行われている。こういう曲を経て一つの完成形を成したのが『夜のガスパール』、彼の33歳の時の作品である。

 「印象主義音楽」を語るとき、印象が一体何を指しているのかしっかり考えている人間がどれほどいるのだろうか。形式にとらわれることなく、自由な心象や風景を基に作曲したものとはよく言うが、そういう一連の風潮がドビュッシーやラヴェル等の個性によって作りだされた虚像だとしても僕はさほど驚かない。自然に形式はないが、迂闊な印象主義は即興に堕する。要するに主観表現から印象表現への移行は単なる形式破壊ではないのだ。単なる即興から芸術へ昇華させる要は何になるのか真剣に考えてみる。バッハは対位法でまず明確に音楽上の方法を規定した。芸術とは既存の芸術観の破壊の歴史であり、印象主義に現れる音楽、例えばラヴェルの「ソナチネ」などは対位法の殻を破って新たな創造の切り口を生み出しているともいえる。彼らの才能にとって、自然から音楽を切り取りだすことは容易だった。それが既存の古典的形式とコンフリクトする。ドビュッシーが自己の表現力にたいして頑固で、そういった矛盾を力で解決したとするならば、ラヴェルは少し引いて共存の道を探り続けたとも言えよう。「新古典主義」の誕生だ。自然は対位法に沿って音を生み出してはくれないし、むしろ不協和音であふれている。彼らの観察能力によって拡張された新たな和音やメロディー、そこに「印象主義」という亡霊が乗りこんでしばらく暴れ続ける。だが指揮官を失った船はいずれ沈没する運命にあるのだ。彼らの後に残った印象主義音楽を引き継げるほど大きな力を持つ作曲家はそう多くなかった。

 トマムの山林は今も霧で覆われ、しとしとと雨が降っている。土の香りが漂い、木々がざわめいている。こういう美しく静かな風景を切り取ったなら、彼らはどんな音楽を作っただろう。空想は走りすぎるとよくない。でも労働で疲れた精神には良い保養になる遊戯である。

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