トマム滞在記(Ⅱ)

 向いているいない以前の問題、僕にはからっきし素質がないと諦めているものが二つあって、それがイラストと武道なのだが、今日はそこに新たな項目が加わった。1日の三分の一、起床時間の半分をマニュアル肉体労働に充てる活動を行い、絶え間なく出る指示と習熟度確認で脳みそがタコ殴りにされてしまった。今は寮で目を回している。一日で物事に習熟できるだけの器用さを不幸にも持ち合わせていないし、来るべき社会生活に不安しか残っていない。コンプラ的に労働の内容をここに書くことはできないが、ただ疲労感がある。基本的に労働に向いていないんだろう。
 断っておくと、この記事は今日たまたま二日連続で更新されるだろうが、毎日投稿するつもりは今のところ全くない。そもそも日々不断に投稿されるブログは大した価値を持っていないと思う。短時間のうちに書いたまとまった文章でその価値を最大化したものといえばドストエフスキーの『賭博者』くらいではなかろうか。彼が悪徳業者ステロフスキーと長編小説の間に挟まれて苦労して書き上げたような文章を、僕が容易くかけるわけはないのだ。一方で下手の考え休むに似たりという真実もある。何か文章を書き散らすというのは難しいことだ。

 マニュアル肉体労働で摩耗した精神には、野原の真ん中で呆ける時間が必要だ。昨日も書いたように野原には羊やヤギなんかがいるので、糞が気になって野原に直接寝そべろうとは思えない。いつもは柵の中だが人間に引きずり出されて闊歩させられていることもあるわけだ。今日は労働を終え、草を食むヤギの姿、一面の緑に凡そふさわしからぬ高層タワーホテル、流れの早い雲、そうしたものを交互に眺めながら、設けられたベンチに座ってコーラを胃に流し込んでいた。コーラ、究極の回復飲料。「人間は基本的に砂糖をぶち込めば元気になる」と芸音のFKSM先輩が以前おっしゃっていたのを思い出した。そういえばFKSM先輩に1月ころ借りたバッグを延滞している。また返却期間が1か月伸びてしまったことになる。気がかりになり途方もなく申し訳なくなるのは15秒ほどで、それ以上経過すると別の思考で頭が満たされるようになる。人が見たらきっと病気だと思うに違いない、皆さんはどう思いますか?
 FKSM先輩の名前が出てきたことだから、たまには芸音民っぽいことを書こうと思う。鍵盤楽器の扱いは多少慣れているにせよ、実は大学に入学するまでシンセサイザーには一切触れたことがなかった。僕の在籍していた中学にはミニ卒論のようなものがあって、そこであらゆる音を作るにはどうしたらいいか、みたいなことをフーリエ解析を使って理論的に説明していたのがシンセサイザーとの唯一の縁だ。だから実際音楽に必要な電子機器の扱いに慣れているわけではないし(初年次は「EQって何?」とほざいていたくらいです)音作りに関して質問を受けても、2年分くらいの経験に基づいたアドバイスしかできない。その点JUNO-DSのプリセットの多さには救われたし、最悪音作りしなくても現場で通用する。結局鍵盤楽器は鍵盤楽器だからだ。何故こんなことを書き始めたのかというと、北海道の僻地に引きこもり全く楽器を演奏しない期間が1か月以上もあることに大きな不安を感じているからで、ここで失われた技術を取り戻すのにどれくらいかかるか、そもそも取り戻せるのか、解決しようのない悩みを抱いているのだ。鍵盤演奏の技術がなくなったら、それこそ僕には何もなくなってしまう。9月5日に大学の緊急事態レベルが下がり、ある程度ならサークル活動ができるようになった。最近精神が安定してきて、あと数回くらいはバンドを楽しくやれそうな気がしてきた。来年の予選に出ることは確定していて、そのほか是非またみんなで演奏できる機会が生まれたらいいと思っている。北海道から帰ってきたらしばらくリハビリが必要だな、とそんなことを考えている。

 とりとめのない、ひどい文章になった。ひとまずマニュアル肉体労働のせいにしておこうと思う。良くも悪くも、人間どんな環境にも慣れうる。しばらくの辛抱だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?