トマム滞在記(XVIII)

 やはり人間、朝食はちゃんととったほうがいいらしい。今朝自販機で北海道限定カステラを二つ買って胃に入れてから出勤したが、予想以上に体力をつけてくれたようで、てきぱき働くことが出来た。おかげでリーダーに褒めていただいた。仕事ぶりを褒められるなんてことはここでバイトを始めてから一度もなかったから、どう反応していいかわからず、照れ笑いと共に「僕はいつもは遅いほうなんですけどね」と返した。食と睡眠は体調メンテナンスの基本であるから、今日明日からは一層の心がけに努めていきたい。

 本当は今回、はてなブログで今話題になっている「取り返しのつかない人が職場に来た」といった内容のブログについて個人的経験も交えながら語りたいはずだった。結論から言えば、先送りにしたい。需要はあるはずだし、いずれ書きたいとは思っているけれど、多分長くなる。加えて書くにはある程度の恥や負担を覚悟しなくてはならない。僕は今年の1月にwebアプリケーション開発に携わるシステム系の会社でバイトを始めたが、競技プログラミングで「問題を解く」以外の触れ方をしてこなかった僕にとって、洗礼ともいうべき痛い体験だった。今も継続して働いてはいるものの、断続的に行われる遅々とした訓練と、職場の人のやさしさの賜物であり、恐縮するほかない。とはいえ、断り書きが長くなりすぎるのも良くないな。いつも通り、くだらない日記を書き綴っていこう。

 トマムの職場では、一切食費は出ない。向こうから提供される食事といえば、寮の食堂で夕方しか提供されない450円の定食だけだ。あとはパン、カップ麺を売る自販機が立っている。このような環境だと、必然的に一日一食か二食の生活になる。うち一食はパン一袋とか、カップ麺一つとかだから、栄養は保証されていない。人間どんな環境にも慣れうるけれど、貧弱な食生活から生み出される悪質なコンディションの下、豪華なリゾートでのびのびしている人々を接待するのは心理的にかなり負担がかかる。階級の高い社会のために低級の社会が奉仕している構図を、僕は低級社会側から眺めている。資本主義の縮図がこのリゾート地にはある。いや、資本主義を持ち出すまでもないかもしれない。貴族のために農作物や土地を納めなければならなかった社会なんて昔はいくらでもあった。歴史は過去の遺物ではなく、脈々と現代にその形を残している。こういう構図に対して、僕にどうこうできる力はないのだ。
 『罪と罰』の中でラスコーリニコフは、「選ばれた天才は、世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という思想を基に老婆を斧で殺害する。例えばスターリンやヒトラーは「天才」だったのだ。そしてこの思想は何もファシズムや共産主義に限った話ではない。むしろ資本主義という、一部の限られた「天才」に握られた資本で動く社会にこそ、ラスコーリニコフの生み出した悪魔は深く息づいていると思わないか。労働者の人生を低賃金で買い取り、利潤の追求のためにこき使う。それも社会の成長のためだ。僕は決して共産主義の復刻を望んでいるわけではないし、『罪と罰』で現れた思想を資本主義になぞらえるのは僕の文学趣味ではないが、それでも社会に史上しぶとく存在する支配体制、一部の人間によって操作される人間をここトマムで観察し、ドストエフスキーの現代に交響する息遣いを感じ取りたいまでなのだ。
 少ない食事を基に7,8時間近く肉体労働をし、へとへとに疲れて寮に戻る。寮で提供される定食を眺めやりながら、こいつに僕は今命を握られているのだと気づき、傷ついた自尊心と妙な反抗心が燃え出す。第一次世界大戦に繰り出され、生き延びた元ロシア軍兵士のセリフを思い出した。「もう腹が減って仕方がありませんでした。1皿の食事を8人の兵士で奪い合うようにして食べました。兵士は人間として扱われませんでした。公園に入ることすら許されなかったのです。全く犬並みの扱いでした。」
 僕は「天才」こと資本家にとって犬に過ぎないのかもしれない。リゾート業を回すために飼いならされた、義務遂行のために必要な犬、代わりなどいくらでもいる家畜!僕の目の前にある食事は抽象的な数字、カロリー等のエネルギーを表現する数字としか映っていない。これを摂取すれば、このくらいの元気で働けるだろうという、計算のためにしか用意されていない数字だ。僕に今、食を心から楽しむ余裕はなくなってしまった。そして摂取した数字を基に、ぜいたくな時間を楽しむ人間に奉仕しているのだ。僕はこの感情を疲れという一言で済ます気はない。犬は噛みつく生き物だぞ!

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