ハンドルネームで呼ばれた日
単語の頭に"最後の"と付けると何でもエモーショナルに感じるという説がある。
最後の闘い
最後の晩餐
最後の授業 etc.
そして俺は"最後のツイート"をした。
理由はただ一つ、Twitterのアカウントが妻にバレてしまったから。
今朝、俺よりも早く家を出る妻が何の脈絡も無く「スーアンコー」と言いながら仕事に向かった。
ベッドで惰眠を貪っていた俺の耳に飛び込んできたそのワードはあまりに唐突でそして、驚きで脳を覚醒させるには十二分な引導火力を備えていた。
どうしてばれた?
聞き間違い?
それともただの夢?
あらゆる可能性がグルグルと頭を回るがいくら考えても答えは出ない。
出来る事なら外に出た妻の後を追って「今すーあんこって言った?」なんて問いただしたいところだったが哀しきかな今日は平日。
どんなに心臓が跳ね上がろうとも仕事に行かねばならない。
顔を洗いスーツに着替えて玄関を開け、鉛になった脚を引き摺りながら仕事に向かった。
そもそもツイッターなんてそろそろ辞め時だったのかもしれない。
3,500人分のタイムライン全てに目を通し、そして週に2度だけ呟く。
生活の中にいつの間にかその無駄すぎるサイクルが組み込まれていた。
7日間で280文字しか喋れない俺の居心地の良い世界はいとも簡単に、ある日突然崩壊したのだった。
「ああーイヤだ……」
夜、誰もいない職場の更衣室でロッカーに頭を打ち付けうなだれる。
こんな日に限って残業は無い。
思い返せば、今年は本当に忙しかった。
俺もその内の一人だが、金融機関勤務の人間はあまりの忙しさに地獄を見たと思う。
コロナ禍に突入してからというもの、世間の外出自粛自宅待機ムードを振り払うかの様に押し寄せる事業者達の波、波、波。
倒産を目前にした焦燥感からか、早く金を貸せと怒りのボルテージが上がり切っている。
だが、いくら非常事態だからといえど審査無しに誰も彼もに融資承認が下りるわけではない。
AIに奪われる仕事ランキング堂々の1位に君臨する俺の仕事はまだまだ人力で粘るらしい。
「はぁ〜カスカスカスカスカスカス……」
いったい何に対してなのか、自分にも分からない暴言を小声で吐きながら職場を後にする。
俺もこうやってずっと独り言をぶつくさ呟き続けるおっさんになっていくんだろうな。
20時頃に仕事を終え、小田急線に乗る。
最寄駅のスーパーで買物を済ませて家に帰る。
スーツにアイロンをかけて洗濯機を回し、猫のフンを片付けてシャワーを浴びる。
2人分の晩飯と翌日の弁当を作りながら妻の帰りを待つ。
我が家は共働きなので比較的仕事が早く終わる俺が一通りの家事をこなすことが多い。
「今日はキムチ鍋を作ります」
料理しながら一人でYouTuberごっこ、みんなやるよね。
白菜を切りながら自分の人生に想いを巡らせる。
アフター5ってなんだろう。
よく仕事をしている夫VS家事をしている妻の構図でどちらの方が忙しいのか論争が起こっているのを見かけるが、俺のような余暇時間的弱者の立場はどうなるのか。
人生は辛い経験の方が遥かに多い。
いわゆる"普通の人生"を送る為に犠牲にしなければいけないことがあまりにも多すぎるんだ。
ある者は金を犠牲に時間を手に入れ、またある者は家庭を手に入れる為に時間を犠牲にしている。
自分は幸せといえば幸せなんだと思う。
だが締めた蛇口から一滴ずつ水が溢れるように、日々少しずつフラストレーションが溜まっていくのを確かに感じる。
確かに感じるが自分の性格上、このまま不満が溜まっていつか爆発して頭がおかしくなる。と思いながら結局爆発なんてせずに一生イライラしながら人生の幕を引くことになるんだろうな。
時間と心の安寧を犠牲にして手に入れた愛と安定のキャッシュフロー。
俺の人生はもうこれでいいや。
「はい、では次は大根を短冊切りに……」
時刻は22時、YouTuberごっこには無反応のままソファで眠っていた猫が突如ハッと顔を上げ、そしてすぐにウトウトとまた目を閉じる。
そろそろかな……。
遠くからカンカンと階段を登る音が聞こえてくる。我が家は4階に位置しているため、殆どの住人はエレベーターを使う。が、妻は違う。
楽をすると太るからという理由でいつも階段を使って帰ってくるのだ。
この時間、この場所、そしてこのカンカン音はパンプスで階段を登っているから。
俺の妻で間違いない。
徐々に大きくなっていく足音がついに玄関の前で止まる。
2〜3秒して、ガチャリとドアに鍵を挿し込む音が聞こえた。
「ただいまー」
帰ってきた。
黒のパンツスーツに紺色のビジネスリュックを背負い、左手に提げているファミマのビニール袋にはハーゲンダッツのバナナ味が2つと猫用のおやつが入っているように見える。
妻は弁護士だ。
スーパーの特売ではなくコンビニでハーゲンダッツを買うなんてさっすがブルジョア!一生着いて行きます!
「おっ! おかえりー」
いつものように自然に言えた。つもりだったが物凄く緊張感に満ち溢れたおかえりになってしまった。
……ああ俺は、次の瞬間には死ぬかもしれない。
妻の口から「すーあんこって名前でTwitterやってるよね」とでも言われようものなら、今はまだ大根に向けられている包丁の切先が俺の喉元に移動することになるだろう。
靴下でカタツムリを作り、手洗いうがいを済ませて無言でリビングに移動した妻がジャケットをハンガーに掛けながらついに口を開く。
さぁ、どう来る……?
「カジュマは今宵はどんな一日だったかの?」
……厄介な事になった。
今日はその"モード"の日か……!
説明しよう。
妻は時折、家の中限定でおじゃる丸の真似をし続ける時がある。
法則性は未だに分からないが、おそらく仕事で特に疲れたであろう日に発動する率が高い気がする。
個人差はあれど、人は辛い出来事があると幼児退行する習性がある。
正直、気持ちはとても良く分かる。
ストーリー性皆無のほのぼのアニメが仕事に疲れた社会人にバカウケするのと同じ現象なのだろう。
おそらく俺にとってのTwitterが妻にとってのおじゃる丸なのだと推察される。
「尺ぅ〜!元気だったかのぉ」
妻がソファで寝ていた猫の腹に顔面をグリグリと押し付けながら言う。
しかし、この猫の名前は尺ではない。
妻がおじゃる丸モードの時にだけシャクシャク言いながらダル絡みしているだけだ。
だが意外にも睡眠を邪魔されたはずの猫も満更ではない様子であった。
この猫は妻がおじゃる丸モードの時、大人しく尺を演じていればチャオちゅ〜るが貰えることをラーニングしているのだ。
妻が持っていたビニール袋のガサガサ音でおやつの存在に気付き、このまま尺を演じていればチャオちゅ〜るにありつけるという心算なのだろう。
コイツ下等生物のクセに俺より頭良いな。
ちなみに俺の名前もカズマではない。
あんなモヒカンみたいな髪型していないし綺麗な石をコレクションする趣味もない。
お互い、外では辛い事もあるよなぁ。
夫婦間のパワーバランスが偏っているわけではないが、妻がおじゃる丸モードの時はなるべく"カジュマ"として付き合ってあげることにしている。
デンボじゃなくて良かったよ。
「千穂ちゃんは今日はどんな一日だったの?」
「……」
「……おじゃるは今日はどんな一日だったの?」
「ほっほ、雅な一日であった」
徹底してんなおい。
こうなってくるといよいよ分からない。
何気ない会話の中で今朝のスーアンコー発言の真意を探ろうと画策していたが、相手がおじゃる丸となると話がややこしくなってしまう。
「なに雅って! 何で秘密にするの〜」
「……秘密といえば君も隠し事するの下手だよね」
怖いから急におじゃる丸やめるのやめろ。
え?やっぱりばれてる?もうゲームオーバー?
「……秘密って? 俺なんかあったっけ?」
神様神様神様神様神様神様神様神様神様神様神様神様
「えー? あるじゃん」
妻は、口は笑っていないのに目は笑っている不思議な表情をしていた。
例えるならば蟻の巣をほじくり返し、水を流し込む子供だろうか。
この場を支配し、純粋な心で楽しんでいる無垢な怖さがあった。
「えー無いよ! 教えて教えて!」
死の綱渡り。
「うーん……じゃあマロに"しりとり"で勝ったら教えてあげてもよいぞ」
「……いいよ。受けてたとう」
突如始まるしりとり。
意見が割れた時、こうなる事は予想出来ていた。
しかし真実を知る為に挑戦を受けたが無理、勝ったことありません。
何故なら我が家のしりとりは世間一般に言うしりとりとは一線を画しているからだ。
【消失尻取(デリートテールトゥノーズ)】
①一度使った文字を二度と使ってはならない
②望むなら返ってきた単語を謎掛けで返してもよい
③5秒以内に番を返さなければならない
上記3点を特徴とする変則的しりとり。それが我が家のしりとりだ。
俺は大学受験期に左脳を開発しているので長期記憶には絶対的な自信があった。
そして今までの知識や語彙の蓄積を活かすことで、投げられたお題に対して瞬時に謎掛けにして返す自信もあった。
しかし、天才は存在する。
妻に勝った事は一度もなかった。
根本的な脳の出来や格が違いすぎるんだ。
このゲームを遊ぶにあたり、『さ』と『ん』はなるべく温存しておかなければならない。
国語辞典に掲載されている語彙の内、『さ』から"始まる"単語が最も多く、『ん』を"含む"単語が最も多いからだ。
このゲームは後攻が有利。
せめてものハンデとして、妻の先行で対戦が開始された。
「ほっほ、では……『サンダル』」
初手から『さ』と『ん』を消費する妻。
これは戦略ではなく「『さ』と『ん』が無くてもマロの勝利は揺るがない」という挑発・宣戦布告だろう。
そして始まる死のカウントダウン。
5……
4……
「……整いました。『サンダル』と掛けて『テニサーの飲み会』と解く。その心は『履く(吐く)ことに意義があるようです』」
このゲームには理論上の必勝法がある。
それは"全てを謎掛けで返す"こと。
謎掛けで手番を返した場合のみ、五十音を消費しないというルールがあるのだ。
基本的には全てのワードを5秒以内に謎掛けで返し、どうしても間に合わない時にだけ五十音を消費して通常の語彙で返すムーヴをひたすら反復する。
もっとも、それが出来ればの話だが……。
テニサーの飲み会の尻である『い』もしくは『テニサーの飲み会』で謎掛けを作ることが彼女へのお題となる。
そして5秒間のカウントダウンが始ま
「『テニサーの飲み会』と掛けて『カルト宗教の洗脳』と解く。その心は『「仲間で・中まで」「親交・信仰」を深めます』」
らなかった。
俺の回答にほぼ被らせるレベルのスピードで、尚且つ『なかまで』『しんこう』の全パターンに言葉が掛かっている。
しかし感心している間にも死は迫り来る。
5……
4……
3……
2……
「……『うんこ』!」
バカなのか俺は。
『う』で始まる単語を早急に捻り出さねばならない時にいの一番にうんこが浮かぶ悲しき漢の性よ。
『さ』と『ん』は温存しておかなければならないという話はなんだったのか。
「ほっほ、『抗生物質(こうせいぶっしつ)』」
後に彼女は述懐する。
この時のカジュマの思考が手に取る様に分かったと。
『今回だけは負けたくない。なるべく五十音を使わずに、全てを謎掛けで返し続ければいずれ勝てるだろう。そのためには単純なしりとりの思考を放棄して謎掛けだけに集中する必要がある』
カウントダウンが始まる。
5……
4……
3……
2……
1……
「……っ! 整いました! 『抗生物質』と掛けまして『リボ払い』と解きます。その心は『頼りすぎると痛い目を見ます』」
「……ん?」
「……あっ!」
掛かっていない。
この場合、『頼り』か『痛い目を見る』のどちらかに別の意味合いを持たせなければ謎掛けとして成立しない。
「……参りました」
やはり負けました。完敗です。
おそらく妻はやろうと思えば全てを謎掛けで返し続けることが出来ただろう。
しかしそれをしなかった。
俺の焦りを感じ取り、あえて謎掛けとしりとりを織り交ぜることで混乱からの自滅を誘ったのだろう。
普段ならば7.8回続くラリーも俺の自滅により僅か3ターンで幕を閉じたのだった。
「えー、もう一回やらない?」
「ほっほ、よいぞ」
やるのかよ……。
「……」
「……」
「……」
やらないのかよ……。
しりとりは今日も俺の負け。
結局有益な情報は何も引き出せず、他愛もない話をしながら二人でキムチ鍋を突く。
後片付けを終え和やかムードになりかけた頃、洗濯物を畳んでいた妻が突如として衝撃的な一言を発する。
「スーアンコーだってぇ! 変なの!」
「え!?」
突然の死!終わった。さよなら。
「スーアンコー!」
「いや、それは……一応そういう本名っていう設定で……」
「ねぇ、どうしてそんなに秘密にするの? 別に良くない?」
「いや、うわ俺これから死ぬわこれ。内容が内容だし終わってんだよね。愛してるよ」
あまりに急すぎる展開に脳が追い付かない。
もう自分でも何を言っているのか分からない。
「昨日夜中にこっそりゲームやってたでしょ! 私そんなことで怒らないよ?」
「んぎゃあ! あばばばうげげげげげげげ……ん?」
……ん?
「マロにも麻雀教えてたもれ! スーアンコーダイサンゲンリューイーソー!」
……こ……この流れは……!
「……いや、千穂ちゃんが寝てるのに夜中までピコピコゲームやってんのもなんか悪いなぁと思って……」
「ゲームやってもいいけど次から秘密にするの禁止ね!」
急死に一生。
俺が昨夜妻が寝静まった頃に某麻雀ゲームをプレイしていたのを見られていたらしい。
緊張と緩和で全身の力が抜けていく。
ヘナヘナとへたり込む俺を尻目に妻が立ち上がり、化粧台の引出しをゴソゴソと漁る。
「じゃあ仲直りね! おいで! 耳掻きしてあげる!」
正座した妻が自分の太ももをポンポンと叩きながら言う。
消失尻取の敗者は勝者の命令を何でも聞き入れなければならない。
俺はごろんと寝転び妻の太ももに右耳を引っ付ける。
妻が左耳の浅い部分をほじほじと耳掻きで撫で回す。
耳掻きって何でこんなに気持ち良いんだろうな。
死ぬ時は耳掻きでほじほじされながら死にたいな。
段々と意識が遠のいていくのを感じる。
化粧台の足元では尺が器に盛られたチャオちゅ〜るを美味しそうにべろんべろんと舐め回している。
……結局全部思い違いか。なんだか一人で焦って馬鹿みたいだったな。
「……全部知ってるよ」
突然、妻がぽそりと呟く。
意識外からの発言に、停止しかけていた脳が急激に覚醒する。
また勘違いか聞き間違い?それともカマ掛け?疑惑は晴れたはずだよね……?
顔は動かさず、視線だけで妻の顔をチラと見る。
『蛇に睨まれた蛙』
今の自分に相応しい慣用句が頭に浮かぶ。
首筋にじわりと汗が伝うのを感じる。
「聞こえなかったかの? マロにはカジュマのことはなぁ〜んでも分かるのじゃ! 」
「……本当に何でも」
ホクホク笑いながらいつもの台詞を吐く妻は未だ、蟻の巣をほじくり返す子供のような眼差しで俺の顔に視線を落としていた。
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