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ナッツとホロシーツとチョコ

いつも歩いている場所の近くにあるパチンコ店が閉店した。数週間前には開いていて確かに人がいたはずなのに、今朝見たら店内にあったパチンコ台や、装飾が根こそぎ外に出されていた。騒音防止の壁が設置されていたので、年度内にはパチンコ店があったことすらわからない状態になってしまうのであろう。何かがなくなるときにはあっという間ということを、度々感じている。

仕事をしていて、年度内/年度明けのことをよく考える。年度を区切りとした繁忙期というワードの威力がそこまで大きくない場所で働いているので、みんなさも当たり前かのように年度明や5月の連休前までの仕事を考えている。その一方で、来年度も続くと信じていた案件がスッと消えた。私が思っている以上に、年度や年、大きく言えば時間というものは地続きになっていて、川のように区切りなく続いていくものなのか。地続きになっていると、途中で分断されるときのことを考えるのが難しい。続いていく安心感と、なくなったときの不安感を抱えながら、私は仕事をしている気がする。

関西で働くようになって3回目の年末年始を迎えた。脳みそが割と限界だったのもあり、13日の冬休みを取得し、10日間の帰省をした。学生の時から数えても、こんなに長く帰省をしたことはないかもしれない。認知症の祖母は体調が良く、お雑煮を作ってくれた。祖母のお雑煮を食べられるのはいつまでなんだろう。考えたくないことについ思いを馳せてしまう。

私には祖母が2人と祖父が1人いる。10日間の中で2人の祖母に結婚の催促をされた。1人には「お付き合いしている方はいらっしゃらないのかしら」、1人には「あの人にもらってもらったらいいんじゃないか」。どちらも祖母に悪気があったわけではないこと、幸せになってほしいことがわかるので、2人に反論する気はない。私もどちらかといえば結婚したい派なので。けれど、年齢ゆえの宿命を背負っている気がする。

ここからは、メンタルが弱っていた故の思考である。祖父母が意図していたことではないだろうという憶測込みだ。私は、地元を離れてもうすぐ10年、コロナ禍や就活時期を除く長期休みの度に地元に帰っていた。就職してからは帰省が容易ではなくなったが、帰らない理由にはならなかった。無論、誰かに強いられたわけでもなく私が帰れたくて、家族に会いたくて帰っていた。

遠方に住む従兄弟が、両親に「育ててくれてありがとう」という意で贈り物をしたらしい。祖母に「あなたもそういうことをしなさいよ」と言われる。少しだけ心臓がひんやりした。私なりの親孝行は、遠方で(元気に)生きて、帰ってきて顔を見せることだと思っていたのに。親孝行ととられていなかったのかという少しのがっかりと、「してあげている」気持ちに少しでもかられてしまった罪悪感が私を襲う。物で、形でしなければならなかったのかもしれない。自分の浅はかさを悔いた。

それ以上祖母は言及してこなかったし、関西に戻る時にはいつも通りたくさんの荷物を持たせてくれた。そこから、親孝行とは何かを考え続けている。この問題に終わりはないし、それぞれの考え方があるのはわかっている。私は私なりの考えをもったまま、だけど周りの人になるべく笑っていてほしいと思い続ける。


小さい頃から、夢をよく見る。眠りは深いのだけど、週の半分くらいは夢を見て、そのほとんどをしばらく覚えている。

職場の仲がいい先輩に、夢の話をする人がいる。真面目な話よりもくだらない話を聞くことを好んでくれる人で、その人の前では無駄話も捗ってしまう。記憶力がいい先輩は私の夢の話を私と同じくらい覚えていて、時に私が忘れてしまった話も覚えている。先輩に話す前は、携帯のメモ機能に残していた。このタイトルは、2023/04/06にみた謎の夢だ。固有名詞がたくさん出てくるのではばかられるが、夢日記を載せるだけのSNSを作ろうかとも思っている。


今日の帰り、パチンコ店の外装をぐるりと、防音マットが囲っていた。すぐに、店の名前や外装を忘れてしまうのだろう。日々が溶けている一方で、刻一刻と年度末への時間が近づいている。やれることをやらなければ。



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