言葉にすること、しないこと

言葉にすることと、しないことがある。

言葉にしないと失われるものがあり、言葉にすると失われるものがある。別の言い方をするならば、言葉にするのには時があるし、時が来ないものもある、のかもしれない。

農やなりわい、という営為から僕が学んでいるものは、言葉にし難い。

環境問題、SDGs、自然と触れ合う……様々な言葉が溢れかえっているが、僕が農やなりわいという営為から学んでいることは、それらの言葉では収まりきらない「生」そのものに関することだ。これは、言葉にした途端、陳腐になってしまう。説教臭くなってしまう。無意味な哲学的風味を伴ってしまう。もっともっと深淵で、時間の経過とともに熟するものを、僕はゆっくりゆっくり考えている。

考えるのには、言葉が必要だ。僕はそう思っていた。でも、最近は少し違うように「考える」を考えている。言葉になる前のナニカが、考えることの発露としてあり、それをそのままにしておくことで、その露の中に宇宙を見、身悶えするような美を見、真理の欠片を見ることがあるのだ。

それを、名付けずにいたい。

名付けた瞬間に壊れてしまう露。宇宙、美、真理の欠片、のようなナニカ。

僕が農やなりわいという営為から学んでいるのは、そのナニカの中に埋もれている確かさのようなもの、だと思う。

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