本を読むということ

あるときから、出来事や感情に「名前」を付けることを躊躇するようになった。それは、なんというか、出来事の意味や感情の理由が、自分の思っている(感じている)(考えている)(知覚している)以上に繊細で、揺らぎを含んだものであるということが、少しずつ身に染みてきてからかもしれない。

僕にとって、「本を読む」という営為は、そのことを教えてくれる源泉だ。

本を読むとき。そこには、深みに漕ぎ出すような体感がある。自分の身体、精神、知性では思い抜くことのできない、感じきることのできない、考え尽くすことのできない、知覚し得ない「まだ知らない世界」がそこには広がっている。そこに、漕ぎ出す。踏み出す、というほどに確かなものではない。漕ぎ出す、という言葉すら確かすぎるように思う。湖畔に繋ぎ留められていた小舟のロープを外して、横方向の重力のような、謎の力によって湖の中央に向かって漂い出す、そう、漂い出すような体感だ。

本が言っていることが、分かる、ということは多くない。字義が分かったとて、文脈がわかったとて、その本が言っていることが「分かる」ということにはならない。逆に、何かがスパークするように、著者がどのような世界を見ていたのかということが、言葉になる前のポエジーというか、エネルギーとして実感されるような「分かる」に出会う時がある。そういうとき、私は読書という孤独の中に、読書という共同を見る。この景色を、あの人も見ていたのか。そう気づいてみる湖畔からの景色は、意図してそこに着いたわけでは決してないにも関わらず、いや、だからこそ、本当に、ただただ美しい。

そのような景色が見たくて、僕は今日も本を開いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?