五感による記憶

船旅の後半、ベネズエラのスラム街に行った。

その時のことを振り返ると、最初に
「におい」が思い出される。

スラム街の子ども達に楽器をプレゼントする、
という企画。

坂道にたくさんの家が並び、
その中のひとつの建物に子どもが集まり、
楽器を贈呈した。

自由時間、建物を出て少しだけ坂道を登ってみた。
建物の周りはザワザワしているのに、ほんの数メートル坂の上はものすごく静かだった。
他にも家がたくさんあるのに、誰も外に出てこない。窓も開いていない感じで、人の気配を感じなかった。

すると、しばらくして独特な「におい」を感じた。
生ごみのにおいのような、日本にいると街中で感じることのないにおいだった。

このまま先に進んではいけない、と身体が反応して、急いで坂道をくだった。

元の建物の周りに戻り、船の友人やスタッフの顔を見て「現実」に帰ってきたことを確認してホッとした。

……

ベネズエラのスラム街では、頻繁に銃撃事件が起こると言われていて、
確かその日だか、その月だか、5件くらい事件があったと移動中のバスで聞かされていた(もしかすると帰りのバスだったかもしれない)。

恐らく私が坂道を登って感じた恐怖というのは、「予測不可能性」に対してだったのだと思う。

今何も起こっていなくても、
数秒後に事件に巻き込まれてしまう可能性があるのではないか、という強い恐怖感。

間違いなく人生で初めての体験だった。

「予測不可能」ということがこんなにも怖いことなのか。

日本にいると、今が安全なら、
基本的に数秒後も、明日も、明後日も、
なんなら何年間も安全であることが当たり前である。


しかし、「何が起こるか分からない」
という「現実」が、
「今」も存在しているのか。

私にとっての「現実」は「安全」であること。
でも、スラム街の人達にとっての「現実」は「予測不可能」であること。

同じ「今」、同じ場所に存在しているのに。
「何かが違う」という強烈な違和感だった。


よく、誰かが亡くなった時、
「それでも時間だけが過ぎていく」
「それでもお腹はすく」
と、現実を表現することがある。

同じ時間を、
世界はこれまで通り進んでいき、
自分は取り残されていく。
ように感じているが、

自分もお腹がすいてくる。

そのことで、多分、
自分にも世界と同じ「時間」が流れていることに気付かされる、ということなのではないか。

自分の「世界」と、
スラム街の「世界」は、
やっぱり何かが違っていた。

でも、「だから私の方が幸せである」
とは言えないし、言いたくないと、
最近は特に思う。

なぜなら、私は日本の現代に生まれることを「自分で選んだわけではない」から。

スラム街にいる人達だって、誰ひとり生まれることを「選ぶ」ことはできない。

たまたま生まれただけで、
それを周りの人が「幸せだ」「不幸だ」
と決めるのはなんか違う気がしている。

私は、自分の今を、
「幸せだね」とか、「不幸だね」とか、
人から言われたくないなぁと感じる。

きっとスラム街の人だって、そうなんじゃないか、と思ったりする。

人は相対的にしか何かを捉えることができない。

だからといって、
自分が幸せであることを確認するために、
自分より「不幸」だろう境遇にいる人を持ち出して、「私は幸せだ」と捉えることに、
最近むなしさを感じている。

そうするしかない時期もあるけど、
今の私は出来るだけそのままを受け止めることを
意識していきたい。

最近は哲学の本や文学を読むことが多く、
ふとベネズエラでの体験を思い出し、書いてみた。

2020/10/05の私はこう思っているけど、
そのうちまた変わるだろうと思う。
その時にこれを読んだら、それもまた面白いかもしれない。

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