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エタニティラルバを知っておこう

みなさんこんにちは
エタニティラルバを知っておこうの会 会員キヨナッツです。

東方projectに登場するエタニティラルバというキャラ『東方天空璋』で初めて登場し、アゲハ蝶のような見た目はあたかも既作品に登場してきた妖精キャラのような立ち位置でした。
しかし同作六面ボスの摩多羅隠岐奈に「もしかしたら妖精ではなく神かもしれない」なんて言われる始末。
今回はその謎大きエタニティラルバを、元ネタである『常世の国』を元に皆さんに知っておかせようと思います。




第1回 エタニティラルバを知っておこう

エタニティラルバは東方天空璋の一面ボス。この名前はeternity(永遠)+larva(幼虫)で永遠の幼虫の意味です。
知っての通りその正体は常世神と予想されており、今回はその元ネタと摩多羅隠岐奈との関係性についてまとめます。


さて、古代日本において常世の国という場所が民衆の間で知られていました。
端的に言えば常世の国は「海を越えた理想郷」で永久不変や不老不死の場所として認知されており、日本昔話では『浦島太郎』の竜宮城のモチーフになんかにもなっています。
この常世の国はあくまで民間信仰であり、国としての宗教的存在とは異なりました。


そしてこの常世の国を司る神が常世の神、今回のエタニティラルバというわけです。
エタニティラルバが幼虫を語源とするように、常世の神も虫の姿をしているらしく『日本書紀』においては「橘に発生する虫」で、この神を崇めれば富と長寿が授かると書かれていました。
確かに『浦島太郎』の玉手箱もそのような効果を発揮すると記憶しています。
また『胡蝶の夢』で知られるように蝶の存在自体が、過去の東洋での民間で理想的な存在であったと想像できます。


常世の神については一度ここまでにして、次になぜ摩多羅隠岐奈と関係があるのかをまとめます。
摩多羅隠岐奈のモチーフ「摩多羅神」は天台宗寺院の常行三昧堂という所に祀られた神で、後戸という窓口の門番をしています。

また後戸の神は6世紀頃に実際にいたとされる「秦河勝(はたのかわかつ)」という人物と同一とも言われています。
秦河勝は日本舞踊『能』を作り出した人物であり、ここでは取り上げませんが聖徳太子との関係も深い人物です。
秦一族は古代中国から古代日本へ渡ってきた帰化人ですが、稲荷神社を創祀したり倭の国づくりを聖徳太子とも成し遂げた有力氏族としても知られています。


そんな彼は元より仏教圏の人間で、既述の民間新興宗教であった常世の国を「民を惑わせる」として打倒していきました。
確かに上記にある『能』とは現代で言う『ストーリー』の源点であり、一番重要なのが"終わりがある"ということです。
常世の国とまさしく対照的な『能』を作り上げた河勝は、永遠を空想する民に一石を投じた存在だったのでしょう。
この常世の国打倒劇こそ、エタニティラルバと摩多羅隠岐奈のライバル関係の所以と言われています。

ちなみに天空璋では摩多羅隠岐奈が"自身の勢力縮小の危機"を見て行動したのが発端ではありますが、遠い昔に信仰力を打倒された常世の神エタニティラルバが知らない顔をして主人公組の前に1面から出てくるというのは、心の奥底で相当な復讐心を燃やしているのではないかと考察しています。


「第1回 エタニティラルバを知っておこう」は以上になりますが、常世神の出生や秦河勝の民衆からの評価というのもとても興味深い話があります。
それはまた次の知っておこうでお話します。


第2回 エタニティラルバを知っておこう

さて「第1回 エタニティラルバを知っておこう」では、ラルバの元ネタや摩多羅隠岐奈との関係性を簡単にまとめました。
今回はエタニティラルバの元ネタである常世神がどう生まれたのかをまとめていきます。


エタニティラルバとは第1回で申し上げた通り、常世神ではないかと言われています。
常世神とは常世の国と呼ばれる場所に住む神様です。
常世の国とはそもそも古代日本で信仰されていた海の彼方にある理想郷で、当時の天皇であった垂仁天皇の命令で、田道間守(たじまもり)という人物がこの常世の国へ派遣されました。
目的は非時香菓(ときじくのかくのみ)と呼ばれていた"橘"の入手です。
数年後に田道間守は無事に日本へ帰ってきますが、この橘が常世の国と関係する存在として各所で話題に上がりました。

6世紀ごろに、富士川近辺で大生部多(おおうべのおお)というシャーマンがいました。
彼は村人たちに虫を崇めることを勧めて「この虫(神)を祀れば富と長寿が授かる。」と吹聴しました。


大生部多は生没年不詳ですが、大生部という苗字は当時皇子と皇女の養育に携わる人々に与えられた名で権威を有している存在でした。
そんな人が民衆をあざむき新興宗教を築こうとしたのは、恐らくまだ国としての体制のもろさや飢饉など、情勢が不安定であったのだと想像できます。

また大生部多が言う「虫」というのは、橘の木に住む虫を指します。
橘の木は既述の通り常世の国の植物で、橘の実が永遠を与える果実として民衆たちには知れ渡っていました。


この実につく虫を神格化させ、永遠の都をみんなで目指そうというのが常世の国の目的です。
民衆たちもそれについてきたものですから、当時の人たちが渇望していたものが何なのかが何となくわかります。


当時の常世の国の騒動は、富士川近辺(山梨県近く)から発生したと言われていますがその影響はかなり酷かったらしく、当時の都が置かれていた奈良県にまで広がっていました。
山梨県から奈良県までの一体を領土に持つ宗教となれば、当時の社会規模ではほぼ日本全域と言っても過言ではないかと思います。


こんな大規模になった新興宗教の神様こそ常世神、今回のエタニティラルバなのです。身震いしてきますね。
また常世の神は、橘につく虫というだけの日本の原生生物です。
日本人的観点なら愛の神様やお金の神様よりも、実際にそこに存在し、さらには魂を持ち生きている存在である方が神としての威厳を感じませんでしょうか。
つまり、常世神は日本に住みつく根源的な神様であったのです。


常世神はただ神棚に座っていただけだったら、今も信仰を確保していたかもしれません。
しかし、当時の常世の国の言い伝えは目に余るものでした。
「常世神に財宝を差し出せば、貧しい人は富を得、老人は若返る」と言って、あまたの人が虫を安置し財宝や食料を差し出していたようです。
民衆は財を献上しても献上しても、常世神からの返礼は無く、ある土地の大地主は全財産を失ったとも言われています。


これは私見ですが、常世神とはそもそも永遠を司る神様でした。
この神様から何かを貰うのであれば、こちらも"永遠の"何かを渡さなければいけなかったのではないでしょうか。
人は財も土地も、自身の魂ですらも有限です。
そもそも釣り合っていないのです。


さて、この民衆の私財が吸われ続ける現状に待ったをかけたのが、後の摩多羅神こと秦河勝です。
「第2回 エタニティラルバを知っておこう」は以上になりますが、河勝はなぜこの当時最強の神様を打倒できたのか、それには河勝の出生が関わる面白い話があります。
それはまた次の知っておこうでお話します。


第3回 エタニティラルバを知っておこう~終

八百万の神、付喪神、イザナギ、イザナミ…日本は古来より神様が住む場所でした。
今回テーマにしているエタニティラルバと摩多羅隠岐奈もそのうちの一人です。

神同士の戦争というのも珍しくありません。今でも代々続いている「相撲」も元を辿れば神同士の対決が所以です。
しかし、常世神と秦河勝の戦いというのは神の戦争とは少し異なります。


秦河勝はそもそも古来中国の秦(しん)の国から渡ってきた"人物"です。
とは言っても昔の人物は今の人類とは少し異なりますが、神様ではなかったのは変わりません。
既述のとおり、古代日本へ渡来してから国づくりへ寄与した秦一族の子孫です。
言うなれば常世神と秦河勝は、神様と人間という関係に他なりません。

人間が神様に歯向かうというのはたいそうな出来事という以前に、本当に恐れ多いことであります。
また常世神は大生部が出てくる前にも、民衆の間で親しまれてきた存在でもありました。常世の国騒動でいくら民衆を欺き、経済を混乱させ、社会を乱そうとも人間が神様を打倒するというのは相当な度胸が必要です。

しかしこれが出来たのには秦河勝が異国出身であった為という説があります。
というのも常世神が皆に親しまれ、神様の威厳の下に生きたり、神様という存在そのものを大事にしようという話は全て日本人としての考え方です。
第2回で書いた「原生生物を慕う気持ち」というのも、そこに住み、同じ食事を食べ、同じ時間を過ごしてきた原生日本人であるからこそ持ち得る気持ちです。
リベラル思想が強い今の時代には少し危ない文章ですが、昔は実際にそうであったと思います。

だからこそ、日本人が日本の神様を汚すような真似は出来なかったのでしょう。
日本人は無宗教と言われますが、厳密には地域宗教が正しいとも言われます。
西洋宗教のような神様の教えというよりも、その土地その文化自体が、人の生きる術であり救いであるというものです。そして、土地や文化を大事にするために神様という偶像を置き、大事にする気持ちを可視化しているということです。
神様が大事だから土地や文化を守る、西洋宗教とはまるで反対ですね。

であるために、昔から根強く存在していた常世神も、日本人にとっては生きる土地であり、過ごす文化であり、救いであったのだと思います。
いくら自分たちの生活が崩壊しかけようとも、その土地を手放すことは容易ではありません。

つまり、常世の国騒動とは日本人が自分らの考える信念で、パラドックスを生じていたために起きたのだと考えます。
それを打破するために必要だったのが、原生日本人ではない秦河勝の存在だったのです。

秦河勝は日本のためにその身を動かしましたが、出身が日本ではないために常世の国騒動の根幹であったパラドックスに陥ることはなかったのでしょう。

余談ですが、日本人は定期的にこのパラドックスに陥っているように感じます。
特に第二次大戦では戦争末期において、日本の民衆を戦争の道具にしてその土地を守ろうとしたのです。
日本という神様は大事だけど、日本人は戦争によって蓄えた資源を消費し続ける一方でした。生きる土地であり、過ごす文化そのものであった日本という神様を守る、存続させるためには戦争をし続けなければならない。
当時はどこの国でもそうであったと思いますが、決死という言葉を用いるほどに、土地や文化を尊重する志はかなり強かったのだと思います。

閑話休題、秦河勝は日本に限らず秦(しん)の考えも持っていたために、上記の志に惑わされることはなく、国づくりという強い決心を盾に常世神を打倒することができました。

秦河勝に対する常世の国騒動当時の批評は不明ですが、その後には

太秦は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲ますも
[太秦(うづまさ)は神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神を、打ちこらしたのだから。]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D

と、神を打倒した神として評価されています。
ちなみに太秦とは当時呼ばれていた秦河勝の名前です。

また、秦河勝が常世の国騒動を収められたのは、日本人的な宗教観を持ち得ていなかった以外に、第1回知っておこうで考察した「能」との関連性も伺えます。

能とは現代で言うストーリーの前身です。
創作や、芸、作詞において起承転結や序破急というストーリーがあります。
それを最初に行ったのが能で、秦河勝がその生みの親だと言われています。

ストーリーにおいて大事なのは、始まりがあり終わりがあるということです。当然ですね。
しかし常世の国においてはかなり重要なことで、常世とは永遠の意味です。
有限の存在である人間が出来ることというのは、永遠の観点においてはほぼ無いにも等しいです。つまり、人間は永遠の中では価値を見出せないのです。
それを能では終わりを設けることで、人間が1つの価値として見いだすことができるのです。

始まりがあり、終わりがあるという今では普通の考えですが、能を生み出した秦河勝は当時よりこの考えを持ち得ており、常世の国に対抗する手段の1つだったのだと思います。

1つの物事が終われば、次の物事が始まり、そしてまた終わる。
そういう風に時は淡々と流れて、日本では幻想郷が完成しました。
二童子の後継者を探すために秦河勝は摩多羅隠岐奈として生まれ変わり、常世神はエタニティラルバとして蛹から羽化したのでしょう。
ここまで読めば、なぜ摩多羅隠岐奈がエタニティラルバに興味が無いのかというのもなんとなく分かるような気もします。


エタニティラルバは人が求める永遠の理想郷を夢見させてくれました。
摩多羅隠岐奈は辛辣ながらも、この世に確かに存在する美しさを教えてくれました。
色々なことが生じようと、この日本で生じた出来事は歴史として、はたまた土地として、文化としてつづられ生き続けます。

昔の事をずっと大事にするエタニティラルバ
昔の事など気にせず前に進み続ける摩多羅隠岐奈
どちらも日本の大事な神様であることには変わりないのかもしれませんね。

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