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ポージィのフォトグラファー/マネージャー 大村正樹という人

はじめまして。大村正樹です。僕のプロフィールを読んで頂いてありがとうございます。このページでは簡単に僕の自己紹介をさせて頂きます。。僕は1986年5月18日生まれの34歳(2020年5月現在)です。既婚。2歳の娘と9ヶ月の息子がいます。

少年時代

注目を浴びることがとにかく好きな子供だったと思います。学級委員に立候補したり、合唱会だと指揮者に立候補したり、とにかく人前に出ていくことが楽しかった思い出があります。

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(この写真は卒業アルバムにも使われましたw)

当時はマンション暮らしで今の自分のような年齢のファミリーが多く住んでおり、その子供たちの面倒を見たりする一面もありました。ママ達に喜ばれることに自分自身も喜びを感じていました。一人っ子ということもあり、弟妹への憧れも今思えばあったのかなと思います。

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(当時住んでいたマンションの隣の部屋に住んでいた男の子)

じいちゃんが野球中継を毎日見ている影響から野球を始めることにし、少年野球チームに所属していました。「三崎ガッツ」というチームです。このチームは当時、本当に弱小チームでチームメンバーも勝つことに対して誰も執念がなく、試合で負けてもへっちゃらで笑っていました。練習中もふざけてばっかでコーチのことをバカにしたり練習というより遊びの延長でやっていましたね。


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(バッティングは得意ではなかったです)

青年時代

いわゆる不良少年でした。学校にもろくにいかずに友達と遊んでばかり。夜も公園やゲームセンターなどでたむろし、警察のお世話になることもしばしば。(物理的に人を傷つけたりするようなことはしてませんw) 


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(不良の憧れ、応援団長をやった時の写真)

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(中学の卒業式の写真。今こんな学生いませんよねw)

そんな生活をしていたので、高校にあがっても変わることはありませんでした。そんな時に初めてといっていい、人生の大きな挫折?選択?を迫られることになりました。それは出席日数不足による留年。そのままその学校に残ってもう一度1年生をやるか、通信制の学校に編入するか。はじめは迷うことなく通信制への編入を決めていました。一つ歳の下の子とやるなんて考えられなかったし、僕が通っていた高校は学年色(学年毎に何年生がわかる色)があったので一目で留年していることがわかってしまうので恥ずかしいというのがあったので。ただ、おかんに「どうせ、通信制に編入したところであんたは続かない。留年にはなるけど、最後までがんばって通って卒業した方がかっこいいと思うよ」と言われて思い止まり、留年することを選びました。留年生活は最初に2週間くらいは恥ずかしさなどありましたが、学年はちがうけど友達はいたのであっという間に慣れてしまいました。それどころか、見た目もピアスを耳と口にしたりとで怖かったのもあり、同級生(歳はひとつ下)の子達は自分のいうことを聞く子分のようで過ごしやすかったです。笑


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(3年生の時の写真、よくみると一人だけ体操服の色がちがう)

成人時代

18歳になり、やれることが少し増えたことでクラブに通うようになりました。元々音楽はJ-popを少し聞いていたぐらいでそんなに好きではなかったのですが、クラブに通うことでダンスミュージックに興味を持ち、そこからどっぷりハマっていきました。最初はトランスミュージックに始まって、ハウス、テクノ、サイケトランス、エレクトロ、と電子ミュージックを中心にハマっていました。そして先輩が機材をくれるということでDJも始めました。先輩が主催するイベントに出演したり、先輩と一緒にイベントサークルみたいなのを立ち上げて月1回くらいのペースで1年くらいやったりしていました。今はもうなくなってしまいましたが、某クラブの専属DJとしても活動していたこともあります。昼はじぃちゃんの工場で働き、夜はクラブでDJ活動をする充実した毎日でした。先輩付き合いも多かったので先輩たちとよく遊んでいましたね。


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(先輩たちとやっていたイベント終わりの集合写真)


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(成人式の時の写真、みんな袴だったけど僕はジゴロスタイルw)


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(よく遊んでいた先輩達との写真)


そして24歳の時に人生の転機ともいえるできごとが訪れます。それはおじぃちゃんの会社の倒産と死です。


いつも気にかけていてくれて、仕事も一緒にしていたじぃちゃんが亡くなってしまったのです。


その少し前から、リーマンショックの影響で仕事がなくなってきており、午前だけ出勤して午後から家に帰るという生活でした。そのころは会社も長くないかなと思ってはいましたがとくに行動していませんでした。そんな状況を見かねてなのかはわかりませんが、おかんが、「知り合いが忙しいから手伝ってくれないか」と声をかけてくれてアルバイトで行ってました。それが今自分がいる写真業界だったのです。じぃちゃんの会社がなくなり、いつも一緒だったじぃちゃんが亡くなった事で、自分はこの仕事をがんばることを決意しました。


主に振袖の前撮りを出張で受け持っており、毎週のように全国各地に出向き、年間800件くらいは撮影していたと思います。成人式当日なんかは朝3時から式が始まる直前までぶっ通しでの撮影というのもありました。その時は1300人くらい撮ったんじゃないかな。もう2度とやりたくないですね、、、そんな仕事を3年くらい続けていました。忙しい毎日で充実はしていましたが、心に余裕はなく、すぐに感情的になっていたりしていました。そんな時、スーパーで見かけた3〜4歳の女の子と目が合い、笑いかけてくれたのです。その瞬間、一瞬だったと思いますが、心に余裕を持つことができたのです。そしてそのときから僕は子供の笑顔を写真に残して、忙しい現代人を元気にしたいと考えるようになったのです。それが今のスタジオポージィに就職するきっかけとなったのです。


こうして書き出してみると、きっかけをくれたのはいつもおかんだったことに気づきました。口は悪いですし、素手で殴るのは痛いからとフライパンで殴られたこともありましたが、自分のことをいつも気にかけてくれていて、フラフラしていた自分を導いてくれていたんだなと思うと感謝しかありませんね。ありがとう。

これからは「写真」というツールを使って、関わる人たちにきっかけを与えられたらと思っています。

という感じで自分のことを長々と書きましたが、少しでも「大村正樹」に興味を持って頂けたら幸いです。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

大村正樹

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