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桜とサクラ

作:ハリー


1


 「ただいまー」
僕が家に帰ってくると、いつもいるはずの母さんがいなかった。出掛けているのかな?と思い、ポイっと手提げかばんを投げて靴を脱ごうとすると、何か鳴き声のようなものが聞こえた気がしたので、耳を集中させてみると……あ、また聞こえた。
「……裏庭の方から聞こえる」
脱ぎかけの靴を履きなおし、家の周りをくるっと回って庭の方へ歩いていく。家の裏側にある庭には、とても大きな桜の木がそびえたっている。夜になると風に揺られてざわざわと音を立てるので僕は少し苦手だった。
「あ」
その大きな桜の木の下で、茶色いかたまりがあった。鳴き声はそのかたまりから聞こえているみたいだったので、おそるおそる近づいて鳴き声の正体を確認する。
「たぬき……?」
最初は野良犬でも迷いこんだのだろうかと思っていたが、茶色と黒の毛がいっぱいのたぬきだった。たぬきは僕に気付くヴっとさっきまでとは違う声を出し始めた。
「怒っているの?僕はなにもしないよ」
たぬきは、人を見るとすぐに逃げ出す動物だと思っていたが、木の下にいるこのたぬきは僕を見ても逃げ出さない。どうして逃げないのだろうかと不思議に思ってたぬきを観察していると、あることに気付いた。
「足、血が出てる……痛くて動けなくなっちゃったの?」
手を伸ばして触ろうとするが、やはりヴ―っと牙をむかれてしまったので、急いで手をひっこめた。僕はいじめたりしないのに。それを分かってもらうまで、僕は地面に広がる桜のじゅうたんに座って、たぬきを見守った。桜の花がひらひらと落ちるなか、僕とたぬきのにらめっこが続く。だんだんと辺りが薄暗くなってきた。
「お腹空いたな……きみもお腹空かない?」
僕のご飯は毎日母さんが作ってくれるが、たぬきはいつもどうしているのだろうか。もし、自分で作っているのだとしたら、ケガをしていたら何も食べられなくなってしまうのではないだろうか。
「ちょっと待っててね」
僕はゆっくりと立ち上がり、自分の部屋へ急いで戻った。確か、昨日拾った残りがまだあるはずだ。かあさんはすでに帰っており、料理の支度をしていた。僕も料理の支度を急ごうと思い、ポケットに詰め込む。桜の下まで戻ると、たぬきは変わらずにそこにいた。僕が近づくとやはりヴ―っと声を出す。僕はポケットから料理をたぬきの口のそばにそっと広げた。
「ほら、どんぐり。昨日山で遊んだときに沢山拾ったんだ」
食べていいよ、といったのにたぬきはじっとどんぐりを見たまま食べようとしなかった。どんぐりは嫌いなのだろうか。たぬきが何の食べ物が好きなのか知らなかったので僕は困ってしまったが、あ!とひらめいた。口に入れるのは食べ物ばかりじゃない。そう思った僕は、かあさんにばれないようこっそりと押入れにしまってあった何に使うか分からないお皿を持ち出し、家の近くに流れる小川に水をくんだ。
「よいっしょ。ほら、お水だよ。のどもかわいちゃうもんね」
どんぐりのとなりに、水の入ったお皿を置く。たぬきはくんくんと匂いをしばらくかいだあと、僕をじろじろと見ながらぺろぺろと水を飲みはじめた。
「よかった、お水がほしかったんだね」
水を飲めるだけの元気があることが分かりホッとする。あ、母さんが家の中から呼んでいる。僕もご飯の時間だ。
「もう戻らなきゃ」
ケガをしているたぬきを、一人にしておきたくなかったがお腹の虫には逆らえない。僕は暗くなって輪郭しか見えなくなったたぬきを振り返りながら家の中に戻った。

「おや、今日はずいぶん早起きだねぇ」
「う、うん。なんだか早く目が覚めちゃって」
翌朝、おばあちゃんにおはようといったあと、僕はウサギのように裏庭へと駆けていった。あのたぬき、まだいるかな……。秋から冬に変わろうとしているこの季節の外は少しひんやりとしていた。
「……いない」
桜の木の下には、昨日せっせと水をためるために使ったお皿しかなかった。……あれ、お皿しかない。昨日は片手いっぱいのどんぐりも置いてあったはずなのに。僕はどんぐりを探すため、桜の木の周りをぐるりとまわってみる。すると、近くに生えていた低木のそばに、どんぐりがひとつ、落ちているのを見つけた。
「どんぐりみっけ。……あ、たぬきみっけ」
ひょいとどんぐりを拾うためにしゃがんだとき、低木のほうをみると低木の日陰にぽてりと、あのたぬきがしゃがんでいた。まるでかくれんぼをしているみたいに。
「もしかして、どんぐり食べてくれたの?」
沢山持ってきたどんぐりが一つしか見つけられないということは、たぬきが食べてくれたのではないかと僕は思い、うれしくなった。空っぽになったお皿にまた水を汲んで、今度は低木のそばに持ってくる。たぬきは昨日と違い、僕に向かってヴっとはしなかった。そのあと、まだ僕の部屋にあったどんぐりを今度は両手いっぱいにしてたぬきのところへ持っていった。その途中、母さんに学校に行く支度はできたのかと怒られてしまった。
「学校に行かなきゃ……どんぐりたくさん食べてね」
たぬきにそう言ったあと、僕は家に戻ろうとして少し歩いたあとチラっと振り返る。たぬきが低木の茂みの中からのそっと出てきてどんぐりを食べていた。それを見て僕は決心した。学校が終わったら、山に行こう――


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