朱殷の狭間 ~鳴澤朱音~

作:ハリー

1

 目の前が眩しいほど明るくなり、世界が暗転した。私はなにをしていたんだっけ……私という身体はあるのに感触がない。手を動かしているはずなのに動いていない。心と身体が別々になったような不思議な感覚だったけれど、徐々に手も、足も、腕も思い通りに動かせるようになっていった。身体が動くことに少しだけ安堵した後周囲を見渡す余裕ができた。物体が何もなく、私の周り、空間、すべてが赤色に染まっていた。
「……夢?」
私が知っている世界の中で一番可能性が高い予想を言葉に出してみる。こんな場所、SNSでも見たことがない。あっても空想、幻、夢。携帯があればすぐにでも動画を撮りたいところだがあいにく手には何も持っていなかった。
「ここに辿り着いていきなり携帯を探す辺り、さすが現代人ね」
「っ!誰?」
私ではない誰かが発する声にも驚いたが、一番心臓が跳ね上がったのは声が聞こえた位置だ。ついさっきまで虚空だと認識していたのに、まさか上から声が届くなんて誰でも驚く。上を向き声の主を探すが視えたのは宙に浮かんでいる可愛らしい黄色のぬいぐるみだった。黄色のぬいぐるみは私の目線の高さまで降りくるのを私は唖然として見つめ続けた。
「……ぬいぐるみが、浮いてる」
見た光景をそのまま口に出す辺り動揺が浮き彫りになっていたのは明らかだ。
「フフ、おかしい?あなたも浮いているのに?」
え、と思い足元を見てみる。確かに、地に足がついている感覚が足の指から踵までどこにもなかった。ていうか私、素足じゃん。ペディキュアそろそろ予約しないとなー。
「……って待って待って!大切なのはそこじゃない!」
「あら、指だけじゃなく足にまで美意識を向けるのは大切なことよ?」
「私の心を勝手に読まないで!っていうか私……ぬいぐるみとおしゃべりしてる!?」
「自分も浮いていることは特に驚かないのね……」
いや、浮いているのもヤバいけど、ぬいぐるみとおしゃべりしてるのもヤバいでしょ。私は思わず黄色いぬいぐるみを手に取ってしまった。どこからどうみてもぬいぐるみだ。どこかに拡声器かスピーカーでも取り付けてあるのだろうかとあちこち触りまくってしまったが、それらしいものはどこにもなかった。
「体の中に埋め込まれているのかな……でもそんな硬い感触はどこにも……」
しばらくモフモフしていると突然バチっと指先に衝撃が走った。思わず黄色のぬいぐるみから手を離すが、落ちることなく宙を漂っていた。
「いったーい!……今の、静電気?」
「フフ……同性だから大目に見たけれど、同意もなくモフモフしたら次は黒焦げにするわよ?」
パリパリと黄色のぬいぐるみから放電している気がするのは、目の錯覚なのだろうか。
「い、以後気を付けます。ごめんなさい」
色々気になることはあるが取り敢えず、黄色いぬいぐるみのご機嫌をこれ以上悪くしないよう謝罪する。
謝罪したあとにあ、と理解したことがある。指から伝わった痺れと痛みは本物だった。少なくともこれは夢じゃない……

「さて、いろいろやらなきゃいけないことはあるけれど、順番に少しずつ終わらせていきましょう。まずはお互いの自己紹介からね。私の名前はリンっていうの」
よろしくね、と付け足しながらリンが空中で右回りをした。それだけで表情もなにも変化はないが、声色だけは優しかったので私も円滑に名前を名乗ることが出来た。
「私、鳴澤朱音(なるさわあかね)です」
朱音って呼んでくださいと付け足しながら右手を差し出す。握手の意味を込めて出した右手にリンが華麗に宙を舞い手の平に乗った。ふわっとした感触で、手の平に羽が乗っているような感覚。
「気づいてないかもしれないから言っておくけど、私の見た目はキリンのぬいぐるみってことになっているわ」
「あぁ、なるほど」
言われてみればキリンだ。角がないし、首も長くないし、キリン特融の模様もなかったから分からなかった。首元にある大きいリボンがアクセントになっていて可愛らしい。
「見た目ってことは、中身は違うんですか?」
「私はぬいぐるみじゃないわ。あなたの世界で、ぬいぐるみが動いて話しているのを見たことがある?」
それは、ない。だけど私が知らないだけで、見ていないだけで絶対にないとは言えない。
「なんだかややこしいですね。姿はぬいぐるみだけど、実際は違うんですね?」
「仮の姿、とだけ言っておこうかしら。本来は私、妖精なの」
妖精、といわれて思い浮かべたのは小さくて可愛らしい羽の生えた空想上の生き物。
妖精が、ぬいぐるみに姿を変えて私の手の上にいる……?
……謎しかないが、とりあえず謎のまま受け止めておこう。
「朱音、今度はあなたのことを聞かせてもらえないかしら。あなたは今までなにをしていたの?」
「私、ですか?」
なにをしていた、とは自己紹介しろということなのか。自己紹介は苦手だ。何を話していいのか、どこまで話さなくていいのかの境界線が分からない。
「えっと、名前はお教えしましたよね。大学に通ってて、3年生で、バイトもやってて、えーとそれから」
「ごめんなさい、質問の仕方が悪かったわね」
色々と頭のなかでごちゃごちゃさせていたら話を中断された。
「改めて聞くわ。あなた、ここに来る前の記憶はある?」
記憶、この赤い空間に来る前の記憶……
「……よく、覚えてないんです。明るくなって、急に暗くなって、気づいたらここに浮かんでいたと思います」
こんなところまで歩いた覚えもない。今更だがここはいったいどこなんだろう。
「……やはり覚えていないのね。大丈夫、私が教えてあげる。ここは朱殷の狭間(しゅあんのはざま)と呼ばれる場所よ」
朱殷、聞いた事のない言葉だった。
「リンが私をここへ連れてきたんですか?」
ここには私とリン以外誰もいない。そう思うのが自然だ。
「私じゃないわ。朱音……私はあなたを探していたもの」
リンの姿はぬいぐるみだから、何も、動かない。瞬きさえしない。感情を読み取るには、声を頼りにするしかなかった。リンの声が、どこか曇って聞こえる。可愛らしいぬいぐるみからは想像もできないくらい恐ろしいことを私は、
「朱音、あなたが今いる朱殷の狭間は、生と死の境界線にある世界なの」

――あなたは、もうすぐ死ぬわ――

私は朱殷の狭間と呼ばれる赤い世界で、宙に浮くぬいぐるみの皮を被った妖精に死を宣告された。


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