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なんて、淡白な。

 
2024年5月21日

私は淡白な人間なのかもしれない。と感じる時が多々ある。

例えば、食べ物を食べている時。
一緒に食べている人に「これ美味しいね」や「これ味薄くて美味しくないね」と言われたときに、“あ。そうだ“と気づかされる。
食べ物への感情。
“美味しい“と“美味しくない“というものがあったのだ。
私はどうやら食べ物をこの“おいしい“というベクトルで捉えるのを、いつからか辞めてしまったのだ。
そのため、「おいしい?」という問いにはとても困ってしまう。
食べ物は生命を維持するために必要で、食欲が湧いたら口にするものとしか、私の中で意味を成さない、成さなくなっていた。
食べ物への興味がないわけではないはず。
欠かさず毎日食事は行う。
ただ、味を評価するものさしがどっかに行ってしまっただけ。

また、人に対する評価のものさしも失くしてしまった。
人に対して“スキ“も“キライ“も無いのだ。
これはかなり幼少期からあった記憶が乏しい。

この事実は誰かに正直に言ったら怪しまれるのは分かっているので、
“キライ“というベクトルがないことを粒立てて伝える。

本当に“キライ“な人がいないのだ。ただ、苦手な人はいる。
これに関しては、本能的に苦手な人は避けて生きているのかもしれない。
苦手な人とは深く関わらないが吉とし、“キライ“までいかないのかもしれない。

“スキ“に関しても残念なことに失ってしまった。
ただ、これは人には言いにくい。
“スキ“な人について、人と話すときは、ギアを2段階くらい上げて話に相槌を打つことで乗り切ってきた。
“スキ“という感情のベクトルの欠落はかなり痛手である。
そのため、私にとって“興味がある“を必死に“スキ“へと近づけてはみるものの、うまくいったことはない。難しい。

そもそも、人に対する感情を“スキ“と“キライ“に分類できる方が、変だ。
そっちの方が淡白ではないか。



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