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衝動と見えない壁 -目的思考からの脱却-

昔から、インプットだけで終わらせず、アウトプットすべきと言われる。
自分も、人にはアウトプットが大事だよとフィードバックする。
そして、自分もアウトプットをしたい気持ちがある。

なのに、うまくできない。
メモ帳に何かを吐き出して、自己完結するだけでは物足りない。
本当は人に伝えたい。

正確に言えば、仕事においてアウトプットする機会は存在する。
でも、もっと自由に、ただ何かを伝えたいという気持ちで発信したい。
幸いなことに、今、「それ」を読んでくれているあなたがいる。

このコミュニケーションを経て、生まれるかもしれない何かに興味がある。
内省だけに頼ったフィードバックに飽きたのかもれしない。
もとより人に読まれることを意識するだけで、内省の質は高まる。



今日、何かをアウトプットしてみようと思った。
その、僅かに心に灯った「衝動」の種火が消える前に、動こうと思った。
思考するだけで行動に移さなければ、何も為していないのと同じだ。

思考という自身の内面の醜態を晒すのだから、勇気がいる。
自分にとって、アウトプットはそれなりの覚悟が必要になる。
でも、それ以上に思考の罠にハマって動けない自分に気づいた。

何かを始めるにあたり、何が最善なのかを考えてしまう。
何かを始めた後のリスクを、ついつい考えてしまう。

 note、はてなブログ、WordPress…

気がつくと、自分にとって最善の手段を探してしまっているのだ。
 利用者層、使いやすさ、収益手段、カスタマイズ性・・・
何だかズレたところで足踏みする自分がいた。

分からないなら無料だし全部使ってみれば?
そんな選択肢にすら躊躇する。
「何だか面倒くさそうだ」

勢い note の会員登録をクリックする。
決め手は「動かなきゃ何も始まらない」から。
必要だったのは正確な比較情報でも、判断のための価値基準でもなかった。



登録画面でも足踏みは続く。
 メールアドレスが漏洩したら嫌だな
 破られないパスワードを決めなきゃいけない
 クリエイター名こだわりたいな
 note ID は何にすれば良いんだろう

登録を終えた後も、足踏みは続く。
 興味のあるコンテンツ…
 SNS連携…

ふと目に止まった初心者マークを何気にクリックしてみると
 まずはプロフィールを設定しよう
  自己紹介
  プロフィールアイコン
  etc…

どんなアイコンを登録しようか悩むうち、気持ちは随分萎えていた。
そんな自分に気づき、慌てて記事作成のボタンを押す。
本当にやりたかったことはアイコン登録ではなかった。



語弊を恐れずに書こう。
この社会は、目的に向かわせない誘惑が多すぎる。

無料でサービスを使わせてくれている note には感謝しかない。
note の運営思想からも、サービスそのものからも、「クリエイター」の思いを「悪用」して「狡賢く儲けよう」とするかのような浅ましさも感じない。

なのに、だ。

どんな機能もどんな要素も、なくては味気ないものばかり。
仮に自分がサービスを設計するとしても、何だかこうなりそうだ。
コンテンツ・読者・書き手の質のためにも求められて当然なこと。

そして、それらは何だかとても正しく感じらる。
問題なのは「書きたい」のに「書き始められない」というジレンマだ。


つまり、これは意図されず自然発生した淘汰圧なのだと思った。
「アウトプット」できる人を選別する「ふるい」である。
盲目的に衝動で突き進むか、導かれた長い階段を着実に登り切るか。

いずれにしても、発信したいという強い思いで乗り越えなければならない。
「ふるい」は、コンテンツの質とは本質的には無縁だろう。
そもそも、「ふるい」を目的としたサービスではないのだから。



「自分」がなんだか無性に「歩きたい」と思った時。
どんなに魅力的な目的地を探してみたところで、どんなに綺麗な景色を辿るルートを選んでみたところで、歩かなければ意味がない。

いつ歩くか、どのように歩くか、どこまで歩くか。
目的を課すのも制限を課すのも自分だし、決めるのも自分だ。
だが、本当は歩きたいなら、何も考えずただ歩けば良いだけなのだ。


それはあまりにも当たり前のことなのだが、今の社会を形成している目的や効率を追い求め過ぎるシステムは、悪意の有無に関わらず、それらを覆い隠してしまっている気がする。

そして、そんな社会システムに無自覚に順応している自分は、気がつかないうちに、見えない壁を作って自らの衝動を押し潰しているのだろう。
自らが産み出した幻で。だとしたら虚し過ぎる。

だから、種火に気づいたら、消える前に全力で走り出さなければいけない。壁が見えても突き破る気持ちで向かうしかない。
本当にそんな壁が存在するかなんて、考えても案外分からなかったりする。

壁は本物で、ぶつかって痛い思いをするかもしれない。
それは失敗に感じるかもしれない。
上等だ。それは正しい失敗だ。
その時に、初めて壁をどう乗り越えようかと考えれば良い。
そして、正しい失敗は成長に必要不可欠だ。
今の社会は、自分は、無意識に正しい失敗までもを恐れ過ぎている。

こうして、「何を」を持たない純然たるアウトプット衝動は、自分でも気づいていなかった思考を浮かび上がらせてくれたのだった。

<終わり>

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