第82葉, 周年とか 舵とか 夕市とか
こんにちは、yasu59 です。
(すぐにでも という訳ではなくて)ふと レコードプレイヤーを買いたいな、と思った。レコードよりも、先にだなぁ… 当たり前だけど。
先日 時々コーヒーを飲みに行っていたカフェバーの15周年の集まりに参加させてもらった。人と人との有機的な繋がりが感じられる とてもいい会で、自分は遅れ馳せながらの参加であったが すごく楽しませてもらった。その帰り道、思いがけない話を耳にした。思いがけない というより、予想外という言葉のほうがしっくりくるかもしれない。それが知れただけでも、来た甲斐があったと思う。
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とある知人宅に泊まった その翌朝に、これを書いている。外は雨だ。
その周年祭の少し前にも、人とのいい繋がりを感じたイベントがあった。(別の)知人に声を掛けてもらって、夕市(ゆういち)なるイベントに参戦してきた。月に複数回 開催されているイベントで、夏季には暑さを避けるために 朝市ではなく夕市にされているそう。ちらほら話は伺っており 行ってみたいなとは思っていたが、その念願がようやく叶った。
言わずもがな、いいイベントで すごく凄く楽しかった。あくまでも体感上の話だが、長くその地域にいるという印象の人よりも 周辺環境や(ある種)コミューンのような人との繋がり方の良さに惹かれ、移り住んできた人たちの方がどちらかというと多い気がした。(そのスペースの隣合わせに また別の団体の催しがあったのだが、全く別の国の人たちみたいだ と感じられた。)
それも至極当然というか、本当に そこは周辺環境がいいのだ。清水が湧いていて、お米が美味しい。それゆえに 食への意識や考え方のレベル、その偏差値(のようなもの)が高いなと感じた。まぁ、そのコミュニティ特有のものかも知れないが、私にとってはすごく居心地が良かったし、演奏されていた音楽もとても良かった。
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「かわいそう」という、言い回しは あまり好きではない。と 思いながらも… 私も使っていた。良くないと改めて思うし、泊まらせてもらった知人からも (冗談めかしく ではあったが)嗜められた。自戒せねば。
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最近は、色んな人に出会う、、、必要性みたいなモノをひしひしと感じる事が多い。もちろん、時間には限りがあるから 出会いがあれば… その分 別れだってある。そしてまた 時間には限りがあるからこそ、別れた事について回る 悲しみ / 寂しさ に翻弄されたくはない。
ただ、別れ 離れてしまったモノたちを 無意味で、出遭わなければ良かったとは思わないし、思いたくないし、思えない。
人やその考え方、取り巻く環境は変わってしまう。その時々の相性だってある。より良い方向に、舵を切っていきたい。ただ それだけだ。
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若くみられる という事が少なくなってきた。決して それが悲しい、という訳ではない。その時々の気分や活気、服装も作用するだろうが、「落ち着いて見えるから 30代前半くらい」という印象だそう。
それとは全く関係がないが… ここ最近は、 藤井風 「満ちていく」が頭から離れない。その中に
という歌詞があるのだが、放す / 離す の違いについて考えたい。自分の中でのイメージだが、「放す」は放任、放牧、放物線のように 一方は動いてゆくが、手を放したもう一方はその場に留まる印象がある。対して、「離す」は離別、離婚、離握手のように 独立していた二者がしっかりと結ばれていた状態から、元の互いに独立した状態へ戻る/ 戻った という印象である。
「放す」の方だと、手を放された側は 手を放した側のエネルギーや影響を少なからず受けて、運動してゆく。放した側の意志を、明確に受ける。だからこそ、グレーな形で 緩やかに繋がりがある、、、とも とれそうだ。
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植本一子, 滝口悠生 著「さみしさについて」、ニーチェ 「善悪の彼岸」、長田弘 「自分の時間へ」をちょっとずつだが並行して読んでいる。
図書館が好きになってきた、と 自分でも思えるようになった。
そういった、開かれた場所が やはり好きなのだと思う。
ー筆おきー
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