兄弟の声、その奥の聖霊に信頼する
奇跡講座テキスト第九章 贖罪の受容 Ⅱ 祈りに対する答え 3からのところ
私によく響く箇所
「兄弟について私が決断することが、私がどのようなメッセージを受け取ることになるのかを決定する」
「聖霊が兄弟の中に居ること、そして、兄弟を通して聖霊の声があなたに語るということを、思い出しなさい」…
………
朝散歩の帰り際、道端で倒れ込んで遊んでいる中学生くらいの知的障害の男の子と、彼を見守る根気強いママを見かけた。
あのママは、息子にサレンダーしとるんや
と思った。
(私はみっちゃんのペースに合わせてちんたら歩くのすら嫌いであるが)
あのママは、息子に「路上で寝るな」とか「ちゃんとしろ」と命令することもなく
今この一瞬を感じて生きてる息子の、そのままのあらわれを許してるんだな と
私はみっちゃんの「一緒に登校しよう」のリクエストを蹴って、自分のペースで歩くために
祈りもせずに苛ついたまま道の途中でみっちゃんと分かれたのに
(これが良寛様なら、どこまでも彼女とともに歩いただろうに)
と
しょんぼりというかグッタリして帰宅したらはるかからコールがあり
祈らず決めた(だからお前は悪い)と責めてくる声は全部自我だよ
その時々の選択の際に祈れなかったとしても、ベースでいつも「御心のままに」と祈っているのだから、浄化されるべきものが消えるために、今現れているだけだよ
台本はすでに書かれているから(起きることは起きる、言動のレベルに責任はない)、誰と見るかだけだよね
(ってラファエルが言ってたよね)
と言ってもらい
聖霊の声だな
となってありがたかった。
それでもまだ、「私はやっちまった」と言い張りたい感覚があり
これまで私が、みっちゃんに対して苛々してきたあれこれは全部、神への反逆に紐づいていたという気付きが、知的な理解でなく体感として染み込んできて心臓が痛い
序列の差はないってこれか
もう「小さいこと」として扱うことができん
私はみっちゃんという神の子の、小さなリクエストにさえ服従したくないんや
「私のペース」というI KNOWを手放さないために、私はみっちゃんに文句を言うてきたんや
やれ部屋を片付けろだの
宿題を早くやれだの
靴を並べろだの
早く歩けだの
何のためだよ
目的は
全部自我の目的に仕えてきた発言だったんだよ
しゅうちゃんが、みっちゃんと二人のときは仲良しなのに
ももこと3人で出かけるといつもみっちゃんに酷く文句を言う理由がやっとわかった
私が、心の中で、無意識に感じていた(自分からも隠していた)やつを
ただ彼というfigureが表現していたんだ
私の信念を明確に映し出すために
家族が演劇をしているだけだ
打ちひしがれている
今日から、祈りを増やそうと思った。
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