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第10回六枚道場 感想 「幻肢痛」いみず

作品は上記リンク先にあります。

ちょっとこの人、天才なんじゃないかって思いました。いや、以前からいみずさんの作品はリスペクトしていたんですが、今回は幻肢痛という実際にある症状を、母娘という関係に結びつけて、共依存に近い主人公たちの関係が切れても残ったほうには痛みが残り続けている、言い換えればトラウマになるのだろうか、そんな切れても残り続ける痛みを幻肢痛として重ね合わせる。どっからそんな発想がでるんですかと小一時間問い詰めたくなるくらいです。時間を戻すことができるのであれば戻って先に自分が書きたい。そんな悔しさでいっぱいですよ。

と、あだしごとはさておき、気になる点もいくつかあります。まず、母親の様々な行動の原因が何だったのかは明確には語られず、宗教にはまったのが身ごもったから、というのもわかるようなわからないようなで、娘に対する非道な行為も夫に見捨てられたからという。じゃあ自身の信仰は心の平穏には結びついていないじゃないかとか、細かな部分を見れば気になる部分があるんです。けれども、そういう部分は多分作者の描きたい本質ではないと思うのでこのぐらいで良いのではと思う部分もあります。

そんな隙のある母親の描き方に対して作者の周到さとして注目すべき点は父親に対する描き方だと思いました。
配偶者が宗教にのめり込んで家庭崩壊ということだけでは誰も助けてはくれない。これが精神疾患として認められたのであれば治療という行為に結びつけることができるが、そうではないので、夫としては家庭のこともそうだが仕事もしなければいけなく、説得するという行為が無駄である以上、実は彼にできることはほぼ無いわけです。そういう状況で心身喪失状態になるのはだらしないとか、心が弱いだけだとか、子供のために踏ん張れとかいうのであれば、世の中にそんなに強い人間ばかりじゃねーよと言いたくもなりますよね。むしろ踏ん張ったせいで心神喪失になったのですよ。こういう場合、共倒れになるということが一番危険なことで、そうならないためには逃げるということは実はものすごく大切なことだったりします。逃げることが出来なかったばかりに共倒れあるいは悲劇に結びつく事例は多いです。この部分は共依存からの脱却という部分。つまり実は共依存は母娘だけでなく夫婦間にも存在していたと読み取ることが可能なのです。そして父親は共依存から脱却(妻を切り離すこと)に成功したわけです。もっとも父親の内面は描かれていないので父親にも娘のような幻肢痛があったのかどうかまでは定かではありません。いやいや、そこまで描くと主題がブレてしまうので、あくまで二つの幻肢痛という可能性もあるというレベルでとどめておいたほうがいいのかもしれません。

話をもとに戻しますと、心神喪失という状況では離婚しても親権を引き取るということも難しいわけですね。わずか数行のなかで、あくまでテキストに忠実に読み取るとすれば、父親は侘びているだけなのです。自分もつらかったという自己弁護のセリフはありません。そもそも母親が主人公に非道な行為をし始めたのは離婚したあとのことで、テキストを見る限りではそれ以前の問題となる母親の行為は宗教にはまったというだけです。育児放棄したとか、児童虐待したという記述はありません。そう考えると父親は娘を見捨てたと言い切ることは一概にいえません。そして父親の離婚も自分の意思によるものではなく医者の勧めです。僕はこの部分に、どうしようもないやるせなさしか感じ得ませんでした。精神を病んでいる状態ではその原因から離れるしかなく、だから父親本人も会いたくても会うこともできなかったのではないだろうか。じゃあ治ったら会いにくればいいじゃないかという思いもありますが、何を持って治ったとするのかは精神病の場合は難しいのです。原因が妻である以上、そして妻の行動に変わりがない以上、会えば再び心を病む可能性は十分にあります。
とそこまでいみずさんが考えて書いたのかは本人に聞いてみるしかないのだけれども。

そしてそんな父親のに対する主人公の感情は無きに等しく、自分も密接に関係している事柄なのに父親の告白は他人事のように受け入れています。主人公の憎悪もしくは複雑な感情の対象は母親に対してであって、父親に対してもその矛先が向けられていません。それは向けてしまうと主題が分散してしまうからで、ここでは父親は限りなく無色透明な存在である必要があります。理想をいえば父親の存在は描く必要がないし書かないほうがよかったと思います。しかしそれでも父親の存在を書いたということの最大の理由は後述する、主人公に対する救済装置としての役目のためだったのだろうと考えます。

救いのない物語で、じゃあどこかに救いを入れてよ、という気持ちにはならなかったのはどうしてなんだろうとしばらく悩んだのですが、ようやく気がつきました。この物語は終わろうとしているのではなく、既に終わってしまっている物語なのだと。終わっている物語にあの時こうしていればよかったのにと、もしものことを追求しても良い未来は生まれません。主人公はこの先も生き続けなくてはいけないのです。終わろうとしている物語であれば救いが必要なのですが、終わってしまっている物語には作中での救いは必要はありません。救い、つまりどうすればよいのかは読者が考えることなのでもあります。そしてここで作者による救済の手段が残されていることに気がつきます。父親の存在です。罪を償い、そして幻肢痛と向かい合う主人公を支え、そして救済するための存在として父親を用意したのではないでしょうか。父親もまた、妻を切り離し、そして幻肢痛に苦しんだ人として。

あとは些細な疑問を二つ。一つは「わたしに父がいたことを知ったのは、母が亡くなってから」の「亡くなって」という言葉です。語り手が自分で母を殺したのを自覚しているのであればこの言葉使いはおかしな気がします。逆に言えばこの言葉を使っているということで語り手の異常性を描いているのかもしれないのですが。
もう一つはラストの一文。この一文がどのような意味を持つのか、無いほうがスッキリして、あることのほうが違和感を覚えるのですが、いみずさんは解説してくれるのでしょうか。

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