第12回六枚道場(後半)
「麻雀騒郎記」閏現人
これはやられました。
以前に自分でも改行なしでみっちり詰め込んだ小説を書いたのですが、それでも六枚を埋め尽くしたわけではなく構成上最後の一文は改行したりと2400文字を使い切ることはしなかったのですが、閏現人さんは使い切ってくれました。しかも全編会話文だけです。とそこまでは良いとしてラストは会話の途中で寸断されているのです。面白い。
「動物園」山口静花
群青公園、みずいろ動物園と青のイメージから、動物園のなかにはいると一転、フラミンゴとピンクに切り替わる。意図的にねらったのか、それともそこには作意はないのかわかりませんが、この切り替わりが面白いと思いました。
湿気ったお菓子の匂いというのが面白い表現だなと感じたのですが、湿気ったお菓子の匂いってどんな匂いなんでしょうか。そこが気になりました。
「秋月国小伝妙『終る前のメヌエット』」今村広樹
六枚道場が今回で終わることを知っていたかのようなタイトルですね。相変わらずの秋月国シリーズですが、しっかりとディケンズが登場していて、ありがとう今村さん。
六枚道場が終わってしまったあとでもこの秋月国シリーズ、いや秋月国は永遠に存続し続けていて、どこかでその名前を聞く機会があるかもしれない。そんな期待とともに余韻を楽しみました。
「残心」いみず
残心ってなんだろうなと読んでいったら剣道の話になり、おお、その残心かと納得すると同時に、ここでの残心がそれ以外の含みも持たせているところがいいですね。
とそんなことを思いながら読んでいくと、あれっと思う描写があって、相手は男だよなともう一度確認しなおして、二回目のおお、ですよ。これはいみずさんの新境地なのかと。佐々木と宮本、そして先生の名前が吉川。これは狙ったんですよね。
と、ここで自作にふれて恐縮なんですが、以前に書いた自作で僕は障碍という言葉をつかいました。一般的には障害、しかし数年前あたりから障害の害に負のイメージがつきすぎて障がいと書かれることが多くなりました。これって言葉狩りじゃないのかと思う部分もあるのです。とはいえその一方で、精神分裂症という病名は分裂という言葉から引き出される負のイメージが強くなりすぎてそして統合失調症という名前に変わりました。名前が変わったくらいでそんなに影響があるのか、と思われる人もいるかもしれないのですが、精神分裂症から統合失調症に変わったことで負のイメージはかなり減ったのです。それを思うと障害という言葉を変えるというのは単なる言葉狩りではなく意味のあることだと思うのです。しかし単純に害という文字をひらがなにすれば済むことなのか。統合失調症という病名に変わっても、統失、あるいは糖質と負のイメージでもって言われることがあります。なぜそこまで言葉に追い詰められなければいけないのだろうか。そういった部分もふくめて悩んだ末に僕は障碍という言葉を使うことにしました。
いみずさんは障がいという言葉を使われています。もちろんそれはいみずさんが選んだ言葉ですのでそれに対してなにか思うことがあるということはありません。漢字をひらくことでのやさしさがあります。障碍は明治時代に使われていた言葉でありながら使われなくなった経緯の一つに碍という漢字が当用漢字に含まれなかったという経緯があります。ということで障がいという言葉をつかったのはいみずさんのやさしさなんだなあと感じ取りました。
が、ここで障がいという設定を追加する必要があったのかという部分では疑問もあります。六枚という分量では同性愛という部分だけで描ききったほうが良かったんじゃないのかな。
「キロアラーム」土地神
キロってそのキロなのか。おもしろいなあ。
主人公がなぜ石田さんと結婚できる未来があると確信しているのかがわからない部分だけど、しかし、思い込みなんてそんなものだし、そのあたりも含めたうえでの主人公のいい加減さがこの作品の肝だろう。そしてなによりも人生の岐路がわかってもそれだけじゃ解決はできないというオチの部分が愉快だった。
「懺悔/散華」乙野二郎
タイトルもそうだけども、冒頭からしばらくスタイリッシュな言葉が連続して続く。スタリッシュでありながらそこで語られているのは後悔の言葉だ。
冒頭の延々と続く後悔がラストでは、残酷に苦悩が永遠に続く予感をさせて、バッドエンドかこれは。とうなった。
「読みかけのディケンズ」成鬼諭
後半グループの発表があったとき、あれ、一徳さんは? となりました。が、消去法でいえば成鬼諭が一徳さんでしかありえないのは当然の帰結。読んでいくと、そうか今回はそう来たのかとなりました。実は僕が今回最初に出そうとしたものもTakeman名義ではなく別名義で出すことを想定していたのです。というわけで今回はいろいろと他の人とネタのニアミスがあったわけですが、それでもなんとかバッティングは回避したなと思ったら、成鬼諭さんとかぶりましたよ、人生は読みかけという部分で。
それはさておき、冒頭の詩といい、ご本人が私小説といっているあたりといい、今回は一徳元就さんの今までの集大成ともいえる盛り込みようで、もっとも集大成だからといって必ずしも完成度が高いというわけでもないのですが、というかそのあたりも含めて集大成という感じで、良かったです。
「読みかけのディケンズ」坂崎かおる
小学生の男の子と年上の女性。おお、これは高野ひと深の『私の少年』の世界じゃないかと、坂崎さんがこれをどう調理してくるのかとワクワクしていたのですが、女性のほうは中学生でした。お姉さんのほうはちょっと大人びているなあと思いながらも、これどういうところに着地するんだ、しかもディケンズはどう絡む。と後者に関しては自分のことは棚にあげて考えていたわけですが、そうきましたか。いやはや、これはお姉さんのいわゆる黒歴史ですね。ああ、こういう形で自分ではなく他者の黒歴史をさりげなく描く残酷さ。しかも追い打ちをかけるかのように、長い手紙と微苦笑まで追加してます。残酷っですよ坂崎さん。といいたくなりました。
「近くの彼女」佐藤相平
油断してたらやられました。そもそも佐藤さんは初回から不穏な話ばかりを書かれていて、それでも前回はその度合が少なく、ちょっと安心していたのですが、というか、今回のタイトルをみて、これは男女の話かなと勝手に思い込んでいた自分が悪いのです。近くのとあるところが絶妙で、この距離感の部分が残酷さとそれを当人が感じ得ない距離をも表していて、うーん、と考え込んでしましました。
「田辺んちの奥さん」椎名雁子
椎名さんはこれまた不思議な文章の書きかたをされる方で句読点なしに改行を入れられていて、これが自覚的なのかそうでもないのかがわからないので、このあたりの作者自身の解説をおききしたいところです。
それはさておき、内容はというと佐藤相平さんの「近くの彼女」と同じくこれまた辛い内容で、個人的にこれは認めることができないという部分があります。
その一方で、これがホラーとして書かれているあるいは、この状況を受け入れてしまう人を描いているのであればそれはそうだなと思う。
「宇宙作家ディケンズ」小林猫太
なんだかんだいってしっかりとディケンズしているじゃないか、しかも読みかけだし。と思うのだけれども、それでありながらもタイトルを「読みかけのディケンズ」にしなかったところが小林猫太さんの良いところなんだろう。
物語時空発生とかは、牧野修か! とツッコミをいれたくなったけど、いろいろと考えるなあ。一服の清涼剤のようで楽しませてもらいました。
「異動」USIK
大型怪獣対策課から超小型害獣対策係に人事異動させられる主人公。以前にいたところは大型怪獣なのでこの世界にはゴジラのような怪獣が出没している、しかも県庁なので全国各地、じゃないかもしれないけれども少なくとも怪獣は東京以外の場所にも現れている。その一方で主人公が移動させられるのは今度は超小型害獣。怪獣ではなく害獣でしかも超小型。小型だから安全だとは言い切れないけれども対策課から対策係と規模もあきらかに小さくなる。なにが起こっているのはわかるようでわからない不穏さをはらんだままの展開は面白く、いつか僕もこういう不穏さをはらんだままの話を書いてみたいとおもっているのですが、なるほど、こういうパターンもあるのかと思いました。
「CITY」馬死
前作「ボロンちゃん」と比べるとだいぶおとなしい感じになっているけれども、やっぱり変な話だ。そもそもケントとチョーゾーの会話はどこか達観している部分があってしかしその会話はパンツの色を当てるという行為で締めくくられる。毎回。まあこれだけ見ていれば何か達観する境地になるのかもしれないけれども、ケント亡き後に突然登場する妹の存在と、そして彼女の位置づけの描き方を見ると、作者の登場人物に対する突き放し方が面白い。
「読みかけのディケンズ」山崎朝日
世の中には3つのタイプの小説があって、一つは自分でも書ける小説。二つ目は逆立ちしても自分には書けない小説。そして三つ目は書けるけど何らかの理由で書けない小説。
山崎さんのこの話を読んで、これは三番目のやつだと感じました。
これはなんらかのモデルがあるんじゃないのか。読んで感じたのはそれで、いや、モデルなんかなくって全部作者が頭の中で作り出したものだよということであれば、申し訳ありません、私の読みが浅はかでしたと謝るしかないのだが、もちろんモデルがあるから、それで作品の善し悪しが決まるというわけでもなく、モデルがあったとしたら、よくここまで制御することができたなと、感心してしまったということです。僕が書くとしたらそういう部分ができないことはわかっているので対象を突き放して書くしかなくって、そういう部分で、書くことはできるけど、やっぱり無理だ。
ディケンズ祭りでこの話が最後に来たのは僥倖というべきだろう。