見出し画像

プシュケーの海ができるまで


 最終選考に残ったことで自分の立っている足下が不確かなぬかるみではなく、物語という建築物を建てても崩れることのない固い大地であるということを教えてもらった。という気持ちです。



馬鹿馬鹿しいこと

 馬鹿馬鹿しいことを考えるのは好きだけど、それを小説のような形にするのは辛くて仕方がありません。書くのは嫌いです。プロットまでは作るから誰かそれを小説に仕上げて欲しい。といつも思っています。しかし悲しいことにそんな私の願いを叶えてくれる人は誰もいません。今書いているこういうエッセイみたいなものだと全然平気で数万文字ぐらいすらすらと書けるんですけどね。
 chatGPTだったらそんな願いを叶えてくれるんじゃないだろうかと思ったりもしましたが、ちょっと試してみたところ、全然ダメでした。かなり細かく指示しないことには言うことを聞いてくれないのです。ちょっと程度の努力じゃだめで、かなり努力しないといけなくて、そんな努力するくらいなら自分で書いたほうが楽だって思うぐらいに……それじゃダメじゃん。

おそらくは自分一人だけ

 そういう自覚はありました。なにが一人だけかというと未来のスポーツというテーマのくせにスポーツそのものを書かないことです。未来のどこかで行われるであろう、まったく新規のスポーツを登場させるわけでもなく、現在のスポーツが未来のどこかにおいてルール変更されて現在とは少し異なる物となったスポーツを描くわけでもなく、さらにはスポーツが行われている描写すらしない。
 観測範囲では玖馬巌さんの「ダムナティオ・メモリアエ」が近いのですがメインの競技は自転車レースを扱いながらもVRレースを登場させています。吉美駿一郎さんの「頼むから何か言ってくれ」は現在とまったく変わらない野球を扱っていますが、競技の場面こそないものの野球用語が飛び交っています。
 最終選考に残った作品をみても、何らかの形でそれぞれの競技の場面を描いています。
 拙作では水泳を登場させていますが、登場人物が水泳選手であることを描写しているのは三カ所だけです。

”オリンピックでメダルを取ったときのインタビューでもこんな感じの口調だったのを思い出した。世界最速のスイマー。”
”背泳ぎは得意じゃなかったけどね。”
”メイビスと一体化したツグミは世界最速のスイマーだ。”

どうしてこうなったんだ

 どうしてこうなったんだといえばこんな感じで始まったからです。
 今回のテーマは未来のスポーツです。スポーツというと爽やかなイメージがあります。もっとも、実際のスポーツは爽やかなことばかりじゃなくて、どろどろとした醜い部分もあるでしょうけど、すくなくとも4000文字の小説で読者が読みたいと思うのは爽やかな話のほうでしょう。しかし自分が書きたいのはそういう爽やかな話ではなくて、それとは真逆な話です。さてどうしたものか考えました。まず前提条件として、架空のスポーツを描くのはルールの説明など分量的に無理があります。(と決めつけましたが他の作品を見ると他の人は易々とやってのけていたりしました)そこですでに存在しているスポーツを使い、未来のある時点で社会的な変化とともにそのそのスポーツも変化せざるを得ない状況になったという形。つまり外挿させるという方法しかしないだろうと考えたのですが、そもそもスポーツというスポーツには縁がないので外挿させるだけの知識がありません。
 ならばシチュエーションのほうを変えたらどうか。
 ある時、異星人が地球にやって来ます。その異星人が野球に似たスポーツを文化としていることを知って親善試合を行うことにします。しかし試合が始まったところで彼らのルールでは負けた方は勝った方に食べられてしまうという宗教じみたルールがあることを知り、選手として選ばれてしまった主人公はさてどうする。という話を考えたのですがオチが思い付きません。この案は捨てることにしました。最終候補作が公開されたとき、オチが思い付かなくってよかったと思いました。ネタかぶりです。
 そもそもインドア派の自分には競技のシーンを描くのは無理があります。そこで考えました。だったら選手だけ使えばいいじゃないか。未来から誰かがタイムマシンで過去にやってくる。未来を変えるためです。スタルヒンという実在の野球選手のエピソードを使います。史実ではスタルヒンは事故死しますが、小説内では事故死はしません。そのためにディストピアと化した未来を変えるために事故死させようと主人公が未来から送り込まれてくる。そんな話を考えたのですが、実在の人物を使うのはいろいろと問題があるので止めました。
 次に考えたのはイルカの視点でイルカが競技をしているという話です。新しいスポーツを作るのは無理があるって言ったばかりじゃないかと思われるかもしれませんが、イルカが行っているのはあくまで水泳です。ポイントはその描き方で、イルカの思考を擬人化しない形で独自の言語体系を作ります。過去も未来も概念として存在せず、常に現在形でしか思考できない言語、その言語で物語るという方法です。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「愛はさだめ、さだめは死」という短編と同じような感じです。あれよりもさらに人間くささを取り除くのです。何故イルカにしたのかといえば、イルカであれば水中という三次元区間と、ジャンプすることで、空中という別の三次元空間を行き来できます。二つの世界を描けるため描写に多元性を加えられるだろうと考えたからです。
 といってもそんなもの簡単にできるわけありませんが、ちょっとだけ断片的に書いてみたんですよ。で、やっぱりこれは時間的、気力的に無理だと諦めました。でも、そこで人がイルカの脳に介入してイルカを操るというアイデアが浮かびました。そこからあれやこれやとひねりまわして、事故で半身不随となった水泳選手がイルカの脳に介入して泳ぐという形になっていきます。事故の場面から病室の場面、主人公の友人がイルカとして泳ぐという提案をしてくる。とそういうシーンを軽く書いて見ました。でも着地地点は見えてません。物語もあまり動いてくれないし、書くのも面倒になってきました。そもそも主人公がどんな人間なのかも考えていません。そこで主人公がどんな人間なのか書かなければいいじゃないかということで視点人物を変えます。主人公の友人のほうにすればいいのです。選手生命を絶たれてしまったアスリートの気持ちなんてちょっとやそっとじゃ書けません。一人称にするか三人称にするかは決めてなかったのですが、視点人物はカメラの役割に徹してしまえば心理描写などの面倒な部分は書かなくてすみます。とにかく書くのに面倒な部分があったらそんな部分は書かなくても大丈夫な構成、設定にしてしまえばいいのです。選手を半身不随にしてしまえばスポーツをしている場面も書かなくてすみます。
 と、勢いに任せてイルカと水泳の組み合わせで考えてしまったので別の組み合わせについて考えます。作中でイルカと水泳の組み合わせするための必然性を補強しておくためと、他の動物と競技の組み合わせのほうが合理的だった場合はそっちに変更したほうがよいからです。猿と陸上競技ではどうか。しかし猿ではこれといった競技が見つかりません。人に近すぎるため走ってもいいし、ジャンプしてもいいのです。猿=○○と結びつく競技が思いつかないので、猿は止めます。では犬はどうか。犬であれば走る競技が結びつきます。しかし、犬の視点と人の視点では大きく異なります。視点の高さもそうですが、犬は視力が弱いと聞きます。身体のみを使った競技で動物と結びつきそうなものはやはり水泳で、そしてイルカという組み合わせが一番必然性の高い組み合わせになるだろうという結論になりました。
 ミステリのジャンルのなかにハードボイルドというジャンルがあります。心理描写をせずに客観的に描くのがハードボイルドの描きかたのひとつです。しばらく前からぼくはこういう形式で書くことが多くなりました。語り手は傍観者、もしくは主人公であっても感情を描きません。物語を駆動していくためのカメラにすぎないように描くのです。ハードボイルド小説の御三家の一人、ロス・マクドナルドが生み出した探偵リュウ・アーチャーがまさにそのとおりで、アーチャーは後年の作品ではカメラアイに敢えて徹した傍観者になります。これまで文体や書き方をいろいろと模索し続けてきたのですが、到達したのはロス・マクドナルドがたどり着いた地点と同じでした。とはいえどもセンチメンタリズムな部分がだいぶ残ってしまっていますけどね。あと、ピート・ハミルの『ニューヨーク・スケッチブック』なんかも好きですねえ。ああいう、スケッチ的な話が書きたいと常々おもっているので、できあがるものは地味な話ばかりです。
 しだいに今回のテーマも形作られて来ます。助けようとしても助けられないという喪失の物語です。手塚治虫の『ブラック・ジャック』という漫画のなかに「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいと思わんかね」という台詞が登場します。
 僕は技術という物は必ず人を幸せにしなければならないと考えていますが、しかしその一方でそれは難しい問題であるということも理解しています。本作ではその部分を描こうとしました。
 そしてラストは複数の解釈が可能なようにしました。
 ・主人公はツグミの意識を回復させようとしてメイビスの情報を送り続ける。
 ・主人公はツグミの意識が回復しないことを知りながらも、ツグミの無意識の中でツグミを泳がせようとする。
 という解釈が妥当なのですが、その一方でツグミの意識が回復したところでツグミ本人にとっては何も変わるわけではありません。つまりツグミは再び泳ぎたくても泳げないという辛い現実と向き合うことになるのです。そのことを主人公は知っているのです。そのうえでツグミの意識を回復させようとする行為は、主人公の贖罪のつもりなのか、自己満足にすぎないのか、それともそれ以外の何かなのか。死にたいと思っている人を助けようとする行為は正当化されるのでしょうか。

SFに何を求めるのか

 今の時代に必要なのは希望なのかもしれません。SFが可能性の物語だとすれば、無限の可能性を描くほうがいいだろうし、そういうものが求められているのでしょう。しかし可能性の大きさというのは与えられた時間に比例します。若い頃と比べると今の自分の持っている時間ははるかに減っています。希望などないことを知りつつも、それでもあると勘違いして生きていく。あるいは希望など持たなくても生きていく。失われてしまったことを受け入れて、そこからどう進むのか。振り返ってみると、そういう喪失の物語ばかり書いてきました。エンタメとはほど遠い世界です。そもそも、自分が面白いなと思う話は一般受けするようなメジャーな話ではなくマイナーな話ばかりで、そういう話を書きたいなと思っているのですから、書き上げた話が一般受けなどしないのは当然のことです。常々そう思っているので今回もかぐやSFコンテストに応募しましたが、選外佳作にでも選ばれればいいほうだなと思ってました。そしたら最終選考まで残っていたので何が驚いたっていろいろと驚いたわけですよ。たぶん、アンソロジーを編むのならこんな話もひとつくらいはあってもいいんじゃないかな、とそんな感じで残ったんじゃないのかとそう思っています。
 悲しみだけで希望もなにもない話ですが、僕の話を読んだ人が他の人に、少しだけでもいいから優しくしてあげたい。そんな気持ちになってくれたらうれしいです。

SF設定

 SFとしての部分では自由意思の問題を扱っています。ベンジャミン・リベットの実験と意識受動仮説は実際にあるものです。作中世界では自由意思など存在しないのですが、現実世界でも意識受動仮説が正しいとしたら自由意思は存在しません。自由意思が存在しないとしたらどういうことが可能なのかという部分をちょっとだけ書きました。過去にこのネタで別のアプローチをした小説を二つほど書いているので、自分としては二番煎じならぬ三番煎じなネタになるのですが、一応それぞれアプローチの仕方は異なっています。なので四番煎じも書いてしまうかもしれません。
 SFとしてはここから先の部分が面白くなるんじゃないのか、主人公が開発したインプラントが一般化して広く使われるようになった時、社会はどのように変化していくのかということを期待する人もいるでしょう。でもこの話はそういった社会になる前の前史的な位置づけを想定しています。実際にはその後の世界の話は書くつもりはありませんけど。物足りないと思われたのならもくろみは成功したのかなと思います。
 ガジェットとして登場させたインプラントはかなり謎のオーバーテクノロジーと化しています。そもそも損傷した脊椎をバイパスする仕組みというのもがどういうものなのか。神経網をつなぎ合わせるものであればインプラントなど使わずにそのままつなぎ合わせればいいだけです。神経の活動電位を受信して伝達させる物であるとした場合、損傷部位が広範囲だった場合などを考えると脊椎そのものを入れ替えてしまったほうが手っ取り早い気もします。文字数の関係上そのあたりの説明に費やすことができないため、インプラントという名前を使い、体内に埋め込む器具として読者にイメージを固定させて、それ以上の情報を与えない方法をとりました。同時に読者がインプラントに疑問を持つ前にインプラントからイルカの話に切り替えて別方向へと意識を向けさせるようにしました。小型のカプセル状の物と思ってもらえたら成功です。
 しかしそこまでは前準備の部分で、本題はインプラントの技術を応用して意識外の情報を意識に送り込むという部分です。組み込まれたAIを使って情報変換をするとしましたが、小型のインプラントにAI処理をさせるだけの機能を組み込ませることができるのかといえば難しいといえましょう。そもそもイルカ側の情報をネット回線経由で転送させるのですから、途中にサーバーを介してサーバー上で必要な変換作業をさせるほうが現実的です。しかしそうしてしまうとせっかくインプラントという小型のカプセルイメージを固定させようとしたのに余計なイメージを追加させてしまいます。ここはイメージ優先にしてインプラント内ですべてを処理させるようにしました。
 そうなると問題となるのは電源と発熱問題です。発熱問題に関しては体内に埋め込んでいるので解決不可能ですので無視します。解決させるのであれば、一体化したカプセル一つですべての機能を賄うことをあきらめて複数のモジュールに分割し、発熱するモジュールは体表付近に埋め込んで体外から冷却するという方法ならなんとかなるかもしれません。電源のほうはボタン電池並みの小型電池で賄えることができるかといえばネット転送とAI学習をさせるだけの供給量は無理です。電源は内蔵ではなく、体外にバッテリーを装着させる形をとるしかありません。そうなると致命的なのは防水問題です。短期間ならば可能でしょうけれどもイルカのように二十四時間水中にいる場合は無理です。ということでインプラントに関しては謎のオーバーテクノロジーの産物という設定です。SF度はそれほど高くない話なのでまあいいかと。

作品構造

 プシュケーの海はメイビスの場面が現在、ツグミの場面が一年前で、現在と一年前を交互に描く構造をとっています。
 4000文字でそんな構造にするのは無謀かもしれないのですが、その日書けそうなところを断片的に書いていって最後にパーツを組み合わせて整えるという創作スタイルに影響している部分があります。ワンシーン・ワンアクションのカット単位で撮っていって最後に編集する映画に似た感じですね。もうひとつは書いている時にフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』に影響を受けまくっていたということです。
 試しに書いた部分は病室の場面だったのですが、イルカの場面も描く必要があります。物語を病室から始めてしまうとイルカへの場面転換が難しいので、物語はイルカの場面から始めることにします。
 わたしとツグミの二人の話でありながら、わたしとメイビス、わたしとツグミの二つのエピソードを交互に組み合わせるという様式美みたいなものをねらいました。もちろんそれがどれだけの効果を出しているのかは疑問ですけど。同時に、ツグミはしゃべり出すと饒舌になり、わたしのほうは技術的な説明になると饒舌になるようと饒舌の部分で二つ対にします。わたしはイルカを助けようとして倫理的な問題で失敗しながらも、ツグミにも同じことをして失敗する。失敗が二回。ツグミは選手生命を絶たれるという絶望に追い込まれ、イルカと一体化して泳げたことで再度現実を突きつけられて絶望する。絶望が二回。わたしはツグミを助けようとして、そしてラストでもう一度助けようとする。二人の行動は二回行われるように書きました。わたしが作中で悔やむのも二回です。最初の後悔の前に、「別の言い方をすればよかったか」と後悔まではいかないけれども自分の行動が間違っている言動をさせているのですがこれを含めて、語り手が後悔しているのは語り手の失敗を予兆させるための味付けでもありました。
 中間のメイビス視点の部分は余計かなという気持ちもあるのですが、イルカ視点の物語の部分をせっかく書いたのだから使ってみたいという衝動を抑えられませんでした。もう一つはメイビス視点の描写を入れることでツグミの見た世界と、メイビスの中にはツグミは存在していないということを知らしめるためでもあります。「クリッキス」はメイビスが「わたし」につけた呼び名という設定です。人がペットの動物に名前をつけるのと同じ意味合いです。
 音楽を扱った漫画は沢山あります。絵でしか表現できず、音を出すことができない漫画でいかにして音を感じさせるか。そのために様々な技法が漫画の世界では使われています。躍動感のある構図にしたり、音符を並べたり、音符以外の記号でもって表現したり。しかしそのなかで一番音を感じさせる可能性があるのは無音を表現させることではないかと考えています。福山庸治は無音を描くことのできる漫画家でした。その無音から音を感じ取ることができるのです。
 漫画ではなく活字の世界でそれを応用できるのではないかと常々考えていて、今回は泳ぐという部分でそれができないものかと試みました。冒頭でメイビスの泳ぐ場面を描き、途中でメイビス視点での泳ぐ場面を描き、そしてツグミがメイビスと一体化した場面ではそれを省略します。

ツグミはメイビスと一体となって海を泳ぎ始めた。

 ここで読者にツグミが泳いでいる場面を読者に想像させることができないものかと試みたわけです。成功しているかのどうかはわかりませんが。
 ツグミに関しては全身麻痺で両足を失っているというのはさすがにちょっと都合よすぎる設定だとおもいます。でも4000文字ではあまり書き込む余地がありません。最後に死を選ぶ理由も読者に納得してもらえるのかという点で、もう少しツグミの自殺願望の要素を書いておけばよかったと思っていますが、一方で他人の内心なんて理解できるほうがおかしいという思いもあります。ツグミを語り手にしなかったのは、そういう複雑な心境を描かずにすむからでもあります。ツグミを語り手にしてしまうとツグミにたいして読者が共感できるように描かなければいけません。エピソードを費やしてやれば可能でしょうが、4000文字では無理です。とにかく描かなくてすむ方法をとるしかありません。
 そんなわけで、最初は今まで書いたことのない手段や技法を使って新境地を目指そうとしたのですが、書き終えてみると新境地どころか、近所のコンビニに歩いていって、そして帰ってきた。というようないつもの作風になってしまいました。

人称について

 できるだけ三人称で書こうと思っています。昔読んだ本のなかで、アメリカでは三人称が一般的という話を読んだことがありました。二十年以上前のことなので今は違うかもしれません。そのころは小説は書いておらず、読むだけの側だったのですが、なるほど三人称のほうが難しいということなんだろうなと勝手に思っていました。で、実際に自分で書くようになってみるとたしかに一人称のほうが書きやすいのです。これじゃだめだ、書きづらい三人称も書けるようにならないと、と思いながらも題材によっては一人称で書いたりしています。今回は一人称で書いておいてあとで三人称になおそうかと思ったりしたのですが、二つのエピソードを交互に書くという構成とか、
いろいろと細かいところで読みにくさをあえて導入したので三人称にするのは止めました。で、問題は人称代名詞のほうです。日本語には「僕」「俺」「私」さまざまな人称があります。大人のイメージを出そうとするならば「私」が妥当です。人称代名詞なしで書くということも考えましたがそちらは止めました。で「私」よりも中性的なイメージがある(と勝手に思っているだけですが)「わたし」を使うことにしました。
 登場人物の名前はほとんどの場合は適当で、誰が誰なのか混同しないようには心がけていますが、ふりがなを付けなければ読めない名前を付けることはなくて平易な名前にすることが大半です。ツグミは最初はキヨコとしていましたが、イルカの名前をメイビスとして、メイビスの意味がウタツグミであることを知ってそこでツグミに変更しました。

タイトルは難しい

 タイトルをつけるのにいつも悩みます。最初は「最速のスイマー」という題名でした。初稿を書き終えた段階でもこのままで、今ひとつだなと思いつつもこのまま出しちゃってもいいかという気持ちでした。でも初稿が早めにできたのでちょっと余裕もあり、タイトルをもう少し考えてみるかといろいろと考え始めたのです。
 今回は技術は必ずしも人を幸せにするわけではないというテーマがありましたので、そこからギリシャ神話に登場するイカロスをタイトルにつけてみようかと思いました。イカロスは自らの技術を過信して自滅してしまいます。でもイカロスは自滅、拙作はそうではありません。そこでイカロスではなく、父親のダイダロスのほうを使えばいいじゃないかと思ったのですが、イカロスの話は蝋で作った羽で空を飛ぶ話で、拙作は水です。ちょっとイメージ的に結びつけるのには距離がありすぎるなと思い断念することにしました。じゃあ同じギリシャ神話で何か使えそうなものはないかとwikipedia を調べていくとプシュケーに出会いました。言葉の響きも悪くありません。でも響きは本題ではありません。本題は意味のほうです。幸運なことに「意識」があるじゃないですか。もう勝ったも同然です。あとはプシュケーの○○とすればよくて、○○にはいるのは「海」しかありません。ラストの一文はこのときにはもう書いてありましたが、ラストでタイトルの回収ができたとおもいました。『ゴールデンカムイ』という漫画があります。この『ゴールデンカムイ』というタイトルの意味ですが、わかるようで微妙にわからないのです。ですが、物語が延々と続いて全31巻のなかで27巻目にしてようやくタイトルの意味が語られるのです。ぞくりときました。いつか似たようなことをやってやろうとは思っていなかったのですが、奇しくも今回、ラストの一文でそれができました。
 最終候補に残ったあと、事務局から公開にあたって誤字脱字の訂正の確認連絡が届いたときに、そのなかにルビを振るということも可能とありました。そこでラストの一文を、

ツグミ、君の意識プシュケーは今どこにいる。

 としようかと迷いました。ルビを振ったほうが読者にはわかりやすいと思うのですが、その一方で、語り手のわたしはそれまでプシュケーなどという言葉は使っておらず、ギリシャ神話に詳しいというような情報も書いてはいません。ここでいきなり設定に無い要素を追加するのは不自然だとおもい断念しました。では応募する以前に気がついていたらそうしていたかといえば文字数が制限ギリギリの状態なので追加できる余地もなく、どちらにしても無理だったでしょう。でも、ここにルビを付けていたらどのくらい印象が変わったのか、それとも大して変わらなかったのか、そのところは気になっています。

AIを使う

 今回は応募にあたって、応募フォームの最後に執筆にAIを使用したがどうかという質問がありました。昨今の流れからいってAI使用の有無を尋ねるのは当然だよなあと思いながらも、後日、最終選考に残ったという連絡があったあとでなにげなく募集ページを見ていたら下の方にAI使用についての記述があったことを初めて知りました。いやあ、こういうのは応募する時点でしっかりと確認しておかなければいけませんでしたね。
 本作は校正の段階で生成AIを少しだけ利用しました。これまではMS-WORDの校正ツール、一太郎の校正ツール、tomarigiという三つの校正ツールを使い、最終的に音声ソフトに読み込ませて耳で聞いて校正するということを行っていましたが、chatGPTに校正させてみたらどうだろうかと思ったのです。物は試しとさっそく使ってみたのですが無料版の場合、一回の入力できる文字数に制限があり、500文字程度しか入力できません。まずは冒頭の部分400文字ほど抜き出して校正させてみました。そのときのログがこれです。

https://chat.openai.com/share/59e31671-43a0-44cd-a390-bfbe644ca635

 ・不自然なところを教えてください。
 ・言い回しがおかしい部分を指摘してください。
 ・推敲してください。
 の三つの問いかけをしてみたのですが結果としては「言い回しがおかしい部分を指摘してください」が一番役にたったのかなと思います。自分が勘違いして覚えていた、あるいは誤用していた部分を指摘してくれる可能性が高いと思います。推敲してくださいは全くだめでした。
 気がつかなかった指摘をしてくれたという点では面白いと思ったのですが、小説の文章として指摘された内容をそのまま利用できるのかといえばできません。
 有料登録をすれば文字数の制限が緩やかになるだろうから、全文を読み込ませればもう少し有益な指摘をしてくれるのかもしれませんが、たまに小説を書く程度の状態なのでそこまでのメリットがあるかといえばありません。プロンプトを工夫すればもう少し改善される可能性もあるかもしれませんが、感触としてはやらないよりはマシかもしれないけれど、誰かに読んでもらって意見を聞いたほうが有益だなという感じです。将来的には一太郎やWordの校正ツールにもAIが組み込まれる可能性あるのではないかとおもいます。
 執筆に利用したという範囲には含まれないのではないかという意見ももらったのですが、例えば校正で使用して物語として致命的な部分の指摘があり、正解例に近い回答を得た時にそれをそのまま使用したのであれば執筆にAIを使用したとも言えるのではないだろうかと思ったりもします。ですが、それをいうのであれば、artificial intelligence ならぬ intelligence つまり知人に読んでもらって意見をもらい、修正した場合、AI使用ならぬI使用ということになるのではないかとも考えられます。

マイノリティ

 僕はわりとマイノリティ側の人間を登場させることが多いのですが、それは自覚的ではなくほとんど無自覚に近くて、ごく自然に当たり前のようにそこにいるから登場させるのです。ですが、無自覚なので逆に意識的に登場させないようにしたほうがいのではないかと思うこともあり、今回は登場させないように努力していたはずが……結果としては選手生命を絶たれたアスリートを登場させてしまいました。これがマイノリティになるのかというと異論はあるかもしれないのですが、マイノリティを少数派とすればオリンピック選手だってマイノリティになると思うのです。マイノリティだからといって不幸でなければいけないというわけではありません。で、選手生命を絶たれたアスリートは、言葉は不適切かもしれませんが、「正」のマイノリティから「負」のマイノリティに、あるいはマイノリティのなかのさらにマイノリティになったともいえるのではないでしょうか。
 ツグミを女性にして、わたしを男性にしたのは、そっちのほうが書きやすかったという理由です。当初はどちらも男性だったのですが、先にも書きましたが視点人物を半身不随にしてしまったので物語が動かず、視点人物を変えたわけですが、その時点でツグミを女性にして年齢も下げました。同性よりも別性にしたほうがイメージが広がるのではないかと考えたのと、男性よりも女性のほうが肉体的なフォルムが美しく、それは流線型という意味ですが、具体的にツグミが泳ぐ場面は書かないだけにイルカの流線型フォルムと相似性を持って読者にイメージさせるのではないかと考えたからです。
 視点は変えても性別は変えずに年齢だけ下げた場合、あるいは視点人物を女性にした場合でも書けたのかというと疑問で、どの組み合わせの場合でも書けるようになるというのは次の課題です。

最後に、偏愛小説を五作だけ。こういう話が好きです。
 『出身国』ドミトリイ・バーキン
 『海炭市叙景』佐藤泰志
 『罪深き誘惑のマンボ』ジョー・R. ランズデール
 「暗夜」残雪
 「アルファ・ラルファ大通り」コードウェイナー・スミス

つたない文章をお読みいただき、ありがとうございます。 スキを付けてもらうと一週間は戦えます。フォローしていただけると一ヶ月は戦えそうです。 コメントしていただくとそれが酷評であっても一年ぐらいはがんばれそうです。