(落書き)0505

こじ開けた貝のなかからあふれ出すいつかの背中の彩度が低い

海辺に腰を下ろして、湿って冷たい砂の感触がじわりとコートを突き抜けてくるのを感じた。青くない海だ。クレヨンの、最初に与えられる12色には存在しない、もっと大人になってはじめて、ずらりと並んだ画材屋の色鉛筆を目にするとき、くっきりと他の色からわかれてそこにあるんだと気づく色。青と灰のあいだの色。見渡してみれば街も自然もそういう色に溢れていると、大人になれば目が少し悪くなるはずなのに、そういうことだけにはやけに気が付く。足元には貝がぱらぱらと落ちていた。ひとつをつまみ上げると、かたくその殻を閉ざしている。大きさは、コートのボタンより少し大きいくらい。爪を、うまく差し込んで開かせようとする。簡単には開かない。死んでいるのかもしれない。しばらく格闘したが、あきらめて、そのまま貝を手のひらに握り込み、暗くなっていく周囲を眺めていた。だんだんと、視界に入るものが減り、海面の動きをちらちらと追う白い反射だけが、夜光虫のように目につくようになってくる。暗い。考えることが減ってきて、代わりに、細くて薄い背中のことが、空洞にうすい刃を差し込むようにすんなりと思い出された。路地裏の、ぬるい空気のなかで。旅先の緑道のなかで。ショッピングモールの黄色い像を、手を引かれながらすぎたあとで。いくつか背中のかたちを思い出せるけれども、いつでもどこか色を失って、灰色なのはなぜだろう。童話に出てきた、寂しい北の土地に立っている一軒の家を思い出す。あるいは薄とか茅みたいな細さで、永遠に野原の風に揺れている銀色。ねえ。声が、高かったか低かったかは思い出せないけれども、鼓膜に届く掠れだけを再生できるような気がする。手のひらの貝にはいつまでも温度が伝わらない。あたたまって緩むこともなく、凝まっている。意志のよう。背中の持ち主は、繊細なわりに、ほかの人に綱になることを求めるわけでもなくて、こちらに与えるのはいつも、ひとことふたこと、ときに詩みたいな切れ切れで少しずつの言葉だった。意味がわからないまま記憶のなかに置いてあるものもいくつかある。隣で、薄暗がりのなかで、目を閉じて眠っているのをみるとき、そうした無言に近い幾つもの言葉たちのことを思った。閉じているあなたのまぶたは広くて、くぼみに落ちる影がずいぶん思ったよりも濃い。じっと見つめていると自然と眼窩、という言葉が思い浮かんだ。瞼越しに、こちらからだけ目を合わせているのは変な気分だった。部屋は起きているときより暗いし狭い。あなたは背中をぴったりと床につけて、じっと動かないでいる。絶筆された最後の一文。本当は、もっと続いていくはずなんだろう。シーツの上を這って、体を起こして、うすそうな瞼に口付けた。頬や唇や首とは違う、水を携えた球体にしかない感触。閉ざされた貝のようだった瞼が、うっすらと開く。細い線。だんだんと開かれて、まだ焦点のあわないそこは、深く黒い海のようにうるんでいる。そこにわたしはもう二度と映らないという、そういう類の事実を認識できるようになるのは、精妙な色づかいの色鉛筆を手に入れるのと同じことだ。小さな頃には理解できなかったこと。暗がりと混ざっていく。手のひらの中の貝にちらりと目をやったけれど、閉ざされた殻は何色だったのか、暗さのなかではわからなかった。

Eyehall 広いまぶたを開かせる口づけの向こうに黒い海

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