吉祥寺の姫君

ぼくは今日、吉祥寺の姫君に会いに行く。それはぼくにとっての至福。

「世の中の三分の一は悲しみでできているの」昔、母はぼくにそういった。(残りの三分の二が何なのかは教えてくれなかった。)母はぼくが8歳のときに、笑いながら花瓶を抱えて車に飛び込んだ。その日は雷雨で、ぼくは雷が怖いと小学校まで母に迎えに来てもらった。母は傘ではななく人の顔ほどもある花瓶を抱えてぼくを迎えにきた。止まらないくらいの笑いとともに。

笑う母と交差点まで歩いた後、ぼくの記憶はない。

僕は残りの三分の二を埋めるために生きている。数学(もしくは算数)と論理(特に比喩)を習ったおかげで、"三分の二"にはあらゆるものを収められることがわかったから。何を埋めるべきなのかは今もよくわからない。

吉祥寺の姫君は、マンションの三階に住んでいる。僕がベルを鳴らすと妖艶な声で僕を迎え入れ、甘い紫色のお茶を淹れてくれる。それはぼくにとって至福だ。

彼女は、肌が白く、いつもカーテンのかかった薄暗い部屋で生活している。ピンク色の薄い布生地のドレスを着ていて、ぼくをベッドに横にすると優しく微笑んでくれる。

ぼくはゆっくりと目を閉じて、あらゆることを姫君に任せる。そこには柔らかく、饐えた甘い匂いのする、蜜の淀んだような時間が存在する。それはぼくにとって至福だ。

目を閉じたぼくのなかには、もう取り戻せなくなったいろいろなことが流れていく。壊してしまった人形。気に入っていた野球ボール。初恋。ボタンのほつれた襟元。手間を惜しまずに乗り倒したセドリック。アマルフィの夜。役職。妻。右の肺。汗を弾いたはずの肌。

代わりに今、ぼくは吉祥寺の姫君に会いに行くことによって、至福のときを迎えている。夢の中で母がぼくにむかって笑いかけてくる。エプロンをした母のつくる卵焼きの匂いは今でもなんとなく思い出せる。母は壺を持って笑いながら車に飛び込んだ。たしかにそれはこの目で見た。

吉祥寺の街は、静かな喧騒を土の中に秘めている。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

応援ありがとうございます。おかげさまで真夜中にカフェインたっぷりのコーヒーを飲めます。励みになっております。