ドラマティカ旗揚げ公演『西遊記-悠久奇譚-』はバッドエンドでもハッピーエンドでもなくハッピースタートのお話

ドラマティカ旗揚げ公演
『西遊記-悠久奇譚-』を観劇してきました。

日替わりの面白いやり取りなど書きたいことかたくさんありますが、ここではストーリーの本筋に絞って、わたしの気持ちの整理を兼ねた解釈・考察を書かせていただきます。物語の性質上、8割方三蔵についての話になります。
考察というか、現実と物語がごちゃ混ぜになった、妄想としか言えないような内容が大半占めてますので、合わないと感じられた時点で、このnoteは閉じてください。

また、言い切りで書く箇所もありますが、他の意見・解釈を否定する意図はありません。文書の後ろには「※一個人の感想です」がつくとお考えください。

不要かと思いますが、こんな人間が書きますという簡単な概要です。
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・原作の西遊記は以前ドラマで見た程度。あとはwikiなどで確認しました。
・初観劇が11/13マチネ。そこから千秋楽まで4公演観劇。観たばかりで解釈しきれていない部分、セリフが曖昧な部分も多々あると思います。
・私の中でこのお話が消化しきれていないので、パンフレットも他の方の考察もほとんど読めていません。これ言及されてるよ!とかあってもご了承ください。
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ご確認ありがとうございます。
ここから本文です。




結論はタイトルに書いたとおり。
西遊記-悠久奇譚-という物語は、バッドエンドでもハッピーエンドでもなく、ハッピースタートのお話だと思いました。

なぜならこれは「始まり続ける物語」だからです。






まず、どの物語にも必ず結末があります。
大きく分けると2つ。
1つは結末のわかりわすいもの。恋愛モノであれば、好きな相手と結ばれたり結ばれなかったり、戦記であれば勝敗がついたり、あるいは死であったり。
もう1つは、所謂「オレたちの戦いはまだまだこれからだ」なもの。未来に続く物語を想像させるものです。
(両方を兼ねたものなど色々あると思いますが、ここではこの2つに大別されるものとします。)


次に、この西遊記は2つのどちらに分類されるか考えます。

西遊記という物語の最後の結末は「天竺に辿り着くこと」です。原作では到着後にひと悶着あるようですが、もちろんそんなことを知る由もない劇中の三蔵は少なくとも天竺に辿り着くことを「旅が終わってしまう」と言っているのでここではそれが結末と考えて良いと思います。
それを考えると、天竺にたどり着くことができなかった今回は、後者の「オレたちの戦いはまだまだこれからだ」の結末に該当すると思います。(以下:オレ戦エンドと記載します)


次に、結末をどんなエンドか判断する基準を考えます。

結末のわかりやすいものは判断しやすいです。ストーリーの最後の起承転結の「結」を解釈すればいいからです。
では、オレ戦エンドの場合はどこで判断するのか。
わたしは「未来にどんな結果が待っているか」で判断できると思います。
今回の公演の場合は、劇中の最後に始まった旅の未来を想像します。


上記の考えから、わたしは最初にこの作品を見たとき「これはハッピーエンドなんだ」と思いました。
終盤2周目の悟空は、劇中での1周目以上に確実に三蔵のことを心に刻んでいて「救う」とまで言及していて、確実に前に進んでいます。
明るい未来が見えた気がしたので、そう思いました。


でも、ハッピーエンドと言い切ることに、納得できない気持ちもありました。

全員死んでいます。デッドエンドです。
忘れたくないと願った記憶は、心に刻まれていても、やっぱり消えているからです。
「わたしは、救われてもいいのでしょうか」
主犯たる三蔵は、悟空の言った通り一番苦しんでいます。悩んでいます。
「西への旅のはじまりだ!」
悟空の最後の台詞。それを見てきっと三蔵は、かつて見てきたたくさんの悟空を思い出したことでしょう。あの場で悟空が「救う」と言った言葉だけで、三蔵が救われたとは思えません。

三蔵自身は「すべて覚えている」と言い切っていました。しかしそんな三蔵自身だって、肉体の死を迎えてから概念となる中で、同じ生を繰り返す輪廻の中で、本人も気づかぬうちに、記憶を失っているかもしれません。

だってわたしたち観客は、彼に覚えのない、未知の領域での出来事を、23回繰り返すのを見てきました。
未知の領域の中で三蔵が悟空に言った言葉。
「あなたは今度こそわたしを救ってくれますか?」
あれは三蔵と出会う際に悟空が「前にもこんなことなかったか?」と聞くのと同じ、無意識でも覚えているからこそ出てきた言葉ではないでしょうか。
三蔵のこの言葉を聞く限り、同じループの旅を見たのではなく、何度も繰り返す違う旅を23回を見たのだと感じました。
だって三蔵すら知らない「毎回ちょっとずつ違った旅になって新鮮」をわたしたち観客は見て感じて、知っているのですから。


具体的な数字で言うと、10/23の初演でスタートするのが、11回目の旅だったとします。その公演の終盤に話の早い悟空とはじめる旅は12回目の旅です。
何度も繰り返す違う旅というのは、10/24マチネでは前日と同じ11回目→12回目の旅をやったのではなく、13回目→14回目の旅を見せられたのではないか、という解釈です。
このあとの話は、この解釈を前提に進めます。

反抗的でやっとこさ旅を始める悟空と、話が早い「三蔵を救う」と言う悟空。
2回の旅×23回。
この公演期間中、もしかしたら彼らは46回の旅を繰り返したのかもしれない。失いたくない記憶を失い続ける終わりのみえない旅が続いているのかもしれない。
そう考えたら、とてもハッピーエンドだなんて言えなくなりました。






なぜ、違う旅を繰り返してたとして、三蔵は救われたいと願っているのに、それでもこのループが終わらないのでしょうか。

考えられるのは2つ。
1つは、三蔵が話していた「誤って悟空を殺してしまう」や「金角銀角に殺される」といった、天竺に辿り着けない旅(三蔵の言い方を借りるならExcellentではない旅)になってしまってるから。
もう1つは、三蔵が考えを改めておらず、やっぱり旅を続けたいと弟子たちを殺めてしまうから。
もしかしたら、どちらもあるかもしれません。

そしてなぜ、弟子たちが過去にないほど必死に止めようとしてくれた記憶を、未知の領域での記憶を、それを覚えたまま繰り返したはずの生を三蔵が忘れてしまうのか。
これはきっと「天罰」ではないでしょうか。

この生の繰り返しを見ているのは「わたしたち観客」と書きましたか、もう1人います。
お釈迦様です。
(もしかするとその上司(八戒談)という存在も見ているかもしれません。)
三蔵は、弟子と自らを殺めることで繰り返させるきっかけを作っているのは間違いありませんが、実際にループ=やり直しをさせているのは、天竺にたどり着くことを待っているお釈迦様です。
お釈迦様はきっと、この何度も繰り返す旅を全て見ていることでしょう。そして5人全員で天竺へたどり着くまで、この旅を繰り返させることでしょう。

ループが起きなければ、やり直しなんて無ければ、三蔵がこんな風に狂ってしまうことはなかったはずです。
三蔵だって最初から、こんな意図的なループを起こしたとは思えません。
自身の死も修行の過程だと考えたのでしょう。天竺を目指して西へ進みながら、死という失敗を繰り返すたびに「次こそは、次こそは」と思ったはずです。

しかし僧とはいえ、三蔵は所詮人間。
妖怪である弟子たちとも、ましてや繰り返しを見守るお釈迦様とも死の概念が違います。
「人間の命は短い」
三蔵自身も理解していたことです。
その短い生を生きることを前提とした命が、魂が、概念が、繰り返す生に耐えられるでしょうか。ましてや、愛する弟子たちの死を繰り返し見せつけられるのです。
だから「お釈迦様に繰り返しを強要されている」のではなく「お釈迦様の力を利用して自らの望みで愛しい彼らとの旅を繰り返している」そう考えないと耐えられなかったのでしょう。
これは三蔵自身にしかわかりませんが、自らの心を守るために、考えを置き換えてしまったことすら忘れているとしたら、これはとてもとても悲しいことだと思います。



前述した、救いを求めている三蔵がループを終わらせられない理由2つ。
天竺にたどり着けないから。
または、やっぱり弟子たちを殺してしまうから。

前者の場合、三蔵がその記憶を持ったまま次の生を始めたらどうなるでしょうか。
天竺に辿り着けない=自身や愛しい弟子たちが死んでしまうことです。その死には、それまで忘れていた強い痛みを感じるでしょう。激しく後悔するでしょう。救うと約束してくれた悟空を逆恨みするかもしれません。
後者の場合はどうなるでしょうか。
未知の領域での記憶があってもループを望むようになってしまえば、もう悟空にも、誰にも救えない、本人が救いさえ求めることもできない「人であったナニカ」に成り果ててしまうのではないでしょうか。
どちらであっても、未知の領域での記憶を持ったままの三蔵が次の旅で天竺に辿り着けないことは、三蔵の心を完全に壊すことになるとしか思えません。

そこで下されるのが「天罰」です。

すべてを見ているお釈迦様は、未知の領域で改心のきっかけを手に入れた三蔵に、次の旅でやり直す機会を与えます。
それでも天竺に辿り着けなかった罰として「救われるかもしれないと思えた記憶」を失わせます。前者であっても後者であっても、どんな形であれ「自分の意志で選んだ道」を進んだその記憶を奪われること。これは三蔵自身に認識できなくても、とても辛い罰ではないでしょうか。
しかしそれは同時に、三蔵の心を守り、もう一度やり直すチャンスを与えることになります。
ここでの天罰は、その名の通りの罰であると同時に、三蔵を狂わせてしまったお釈迦様の後悔であり贖罪であり、三蔵の犯した罪への許しであるかもしれません。

もしかすると、天罰という言葉は相応しくなくて「試練」と書いたほうがより正しいでしょうか。
三蔵は、愛と希望のために教典を求め旅をはじめましたが、繰り返す旅の中でもう1つ「自身が陥ってしまった状況からの脱却」という試練を課されているのでしょう。




話を、この作品の結末の解釈へと戻します。

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次に、結末をどんなエンドか判断する基準を考えます。
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では、オレ戦エンドの場合はどこで判断するのか。
わたしは「未来にどんな結果が待っているか」で判断できると思います。
今回の公演の場合は、劇中の最後に始まった旅の未来を想像します。
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もう一度、旅の結末を考えます。


わたしは彼らが、記憶を失い続ける終わりの見えない旅を繰り返すことに希望を見い出せず、ハッピーエンドと解釈できなくなりました。

しかし裏を返せば、これは彼らが幾度となく出会い続け、何度だって、師匠を、弟子を、仲間を愛し続ける物語だと思います。

この物語が真の結末を迎えるのに必要な条件は、三蔵が天竺に辿り着くことを望み、5人全員が欠けることなく天竺に辿り着くことです。口ぶりから察するに「これ以上進んだら、もう旅が終わってしまう」ほど順調だったExcellentな旅は、それほど多くはないのでしょう。
また天罰の件で書いたとおり、天竺に辿り着く以外の結末では、三蔵の心は完全に壊れます。
物理的にももちろんですが、心の問題でも、三蔵はひとりでこの繰り返す旅を終わらせることはできないでしょう。

悟浄を仲間に招き入れる場面で、悟浄はいいます。「動けば変わる。動かなければ変わらない。」これはその前まで三蔵が口にしていた言葉です。
なぜ彼がその言葉を口にできたのでしょうか?偶然でしょうか?
きっと悟空と同じ、以前の旅で三蔵に言われたことを、心のどこかで覚えていたからでしょう。
これを愛と言わずして、なんとだと言うのでしょうか。
悟空然り悟浄然り、きっと玉龍にも八戒にも、三蔵の求めた愛と希望の旅で得たものは、皆の心に確実に残っているのです。

劇の終盤、愛しい弟子たちの力を借りて「一歩進まなければ、その先の景色は見えない」ことを理解できた三蔵。
それだって、何度も何度も何度も何度も記憶から失っているかもしれない。でもその度に、何度も何度も何度も何度も彼らから教えられる。
23回じゃ足りなかったかもしれない。でも、それが無意味だなんて、決めつけることはできません。
24回、25回、もっともっともっと繰り返せば、悟空や悟浄のように三蔵自身の『心』になにかが残るかもしれない。
それが、このループを終わらせる大事な要素だと思います。


彼らのバッドエンドは、そんなきっかけを掴めなくなること。一歩進むことを止めてしまうことです。
しかし、彼らが歩みを止めることはないでしょう。
愛する師匠に、弟子に、仲間に会うために、心に広がるあったかいものに従い、きっと進み続けます。
「意志あるところに道はできる」の言葉通り、意志を持ってこの旅を続ける、歩みを止めない彼らは、どんなに繰り返した先になるかわからないけれど、でも確実に「5人が望んで天竺に辿り着けるExcellentな旅」を迎えることができるでしょう。

この旅は「始まり続ける物語」ではあるけれど、「終わりのない物語」ではないのです。
もしかしたら、11/14の千秋楽で最後に始まった旅が、ループの最後になるかもしれませんね。



なので、物語の「エンド」を決めるとすれば、明るい未来が待っているこのお話は「ハッピーエンド」と呼んでいいのではないでしょうか。


でももっと言えば、


これはドラマティカの旗揚げ公演=始まりの公演であり、
「始まり続ける物語」であり、
ハッピーエンドに向かい始めるであろう、悟空の最後のセリフは「西への旅の始まりだ!」です。

ここまで「始まり」に重きを置いた作品により相応しいのは、ハッピーエンドではなく

「ハッピースタート」ではないでしょうか。







長くなりましたが、わたしが西遊記をハッピースタートのお話だと解釈した考えは以上です。

こじつけのような箇所も、これ説明いるか?みたいな箇所もあったかと思います。最初に書いたとおりわたしの気持ちの整理も兼ねていますのでご了承ください。

後で読み返したらおかしな箇所もあるかと思います。今後わたし自身の解釈も変わるかもしれません。
それでも、いまこうして文字という形にしたことで、わたしはひとつ気持ちの整理がつきました。

繰り返しになりますが、他の解釈等を否定する意図はございません。
あのような物語の終わり方は、こうやって考える余白が残されているのが素敵なところだと思います。
このnoteが、そんな余白に書き込むための、何かの一助になれば幸いです。

長文にお付き合いいただきありがとうございました。

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