くらし

日毎に生活が乾いていく。ほんの一年と少し前までは「一日12時間睡眠に慣れ切った酒クズうんこニートにコンビニバイトなんかできっこないよ~!」と不安に恐れ戦いていたのが嘘のように現在の俺は売り場・レジ・調理場・バックヤードを結ぶ動線を滑らかに乗りこなし、その俊敏にして華麗な働きぶりを目撃した客のジジババ共からは「"蒼白の疾風-ペイルゲイル-"」(あまりの速さにローソンの制服特有の青と白のストライプ模様が残像となって見えることが由来)の呼び名で畏怖と賛美を一身に集めている。「本当の辛さとは現状に満足してないのにこれといった敵が見当たらないことであって、逆に言えば嫌な事があってもそれを打破する為に戦っている間はさほど辛くない」ということを俺の好きなバンドマンが言っていて、確かに俺も社会復帰のために第二新卒向け就職サイトを渉猟したり履歴書に本心とはかけ離れた小奇麗な志望動機をでっち上げたりしている時はなんとなく現状改善に向けて動けている感じがしてさほど辛くないどころか少し希望的な気分になったりしたものだが、そうした状態に慣れ切ってくると今度は漠然としたストレスというか、適温よりもだいぶ低いぬるま湯に浸かっているような、部屋の明かりを付けたいけど眠気に抗えない時のような、遅々として改善されない現状に苛立ちつつも居心地の良さから大きなアクションを起こす気になれないという煩わしさを無視できなくなってくる。停滞を打破するための手段や目標は頑張って探せば見つかりそうなものだが、頑張れないので見つからない。しっぽを見つけたと思ったらすぐに引っ込んで見失ってしまう。かくして俺はそんなこんなでいつの間にやら第二新卒と呼ぶにもかなりギリギリのラインにまで追い詰められ、今日も今日とてレジに立ち、努めて誠実さを装った作り笑いを顔面に貼り付けながら名も知らぬ客たちと貨幣を媒介に手垢を交換していくのであった。ずっと前に読んだ平山夢明先生のエッセイで、自身が小説家という道を選んだ経緯などについて語る流れで「これができたからやっているのではなく、これしかできなかったからやっているだけ」「犬や猫がお尻を舐めて綺麗にしているのを見て『すごい!お尻を舐める才能があるんだね!』と褒める人間はいない。ただ単にチリ紙を使えないからである」といったことが書かれていたが、才能というのはだいたいそんな感じのもんではないかと思う。それ以外に何もできないから、そうするしかない。あるいは他にできることややるべきことがあっても、そうせずにはいられない。他の何を差し置いても、そうしないまま凡庸に生きる道を選べない。夢や情熱と言うと、なんかこう、目的に邁進するポジティブさとか、カラッとした明るいイメージを人は抱きがちだが、実際は必ずしもそういうものばかりではなくて、ある種の妄執とでも呼び表せるような、心を削って涙を流しながらも立ち止まることを己に許せないような、そういう多分にジメジメした悲壮な衝動のようなものがそこにはあって、それを才能と呼ぶんじゃないかと思う。だとしたらやはり、俺には何の才能もないのだろうか。あるいはコンビニ店員の才能があるのだろうか。まあ楽だし向いてる気はするけど。ポイントカードは最初に出してください。

かなり前にツイッターでバズっていたツイートに「トップバリュの袋ラーメンはこの世で一番まずい、ガチの底辺しか食べちゃいけない食べ物」みたいなことが書かれていて、学生時代あれを毎日のように美味しく喰らっていた(何なら今でも美味しく喰らっている)自分はガチの底辺だったのか……と少々驚いた。いやまあ確かに諸手を上げて絶賛できる味では到底ないが値段を考えれば相応だし、仕上げにウェイパーや顆粒出汁で味を調えて、レンジでチンしたもやしや炒めたキャベツなんかを乗せれば、まあなんとかそれなりに、この世で一番なんて大袈裟な枕詞を持ち出さなくてもいい程度には食える一品に仕上がるだろう。動物性タンパクが恋しければウィンナーか煮卵でも添えればよい。そもそもプライベートブランドの袋麺に味なぞ期待する方が間違っていると言ってしまえばそれまでだが、いかがわしい海外の輸入業者が取り扱っているとかならともかく、腐っても大手企業が研究して開発して販売しているのだから、小便か泥水で煮たりでもしないかぎり、適当な調味料ででっち上げてしまえばそれなりの代物にはなるはずだ。自炊で最も大事なのはスキルでも知識でもなく、過度にハードルを上げず、貧しさすらも楽しんでしまおうという遊び心的な気構えではあるまいか、と思う。でもまあ、思えば我が家の人間は俺含め全員、トップバリュの激安クソマズ缶チューハイ――これはもう、どう贔屓目に見ても擁護のしようがないほど不味い。無機物のような味がする――を昔からさしたる疑問もなく愛飲していたし、底辺というほどではないにせよ、世間一般の感覚から見れば十分、貧しい部類に入っているのかもしれない。田舎だからか。あるいは俺が度外れた馬鹿舌なだけだろうか。いずれにせよ困ってはいないのでどうでもいいが。マグカップに生卵と水を入れてレンジで1分チンするといい感じのポーチドエッグができます。

天下に並ぶ者なき生活能力の低さで知られている俺ではあるが、実を言うと料理は嫌いではない。というか普通に好きだったりする。学生時代は辛うじて自炊と呼べなくもないようなことをしていた。まあ大した腕前があるわけでもなければ豊富なレパートリーを持ち合わせているわけでもなく、毎日のように馬鹿の一つ覚えでパスタばっかり茹でて得体の知れないソースを絡めて喰らうか、腐りかけの肉としなびた野菜を得体の知れない味付けで炒めてor煮て喰らうかのどちらかで、要するに下手の横好きではあったのだが、何かを完成させた・やり遂げたという達成感や満足感を短期的なスパンで手軽に摂取できるのは中々に気持ちがよくて精神衛生にもなるし、限られた予算と材料と設備でいかに満足のいくものを作るか素人なりに思案を巡らせる過程にはパズル的な面白さがあった。何より好きなものを好きな時に好きなように食えるのは単純に嬉しいので、狭い台所に立って右往左往する時間はいつもそれなりに楽しかったと記憶している。食事を管理してくれる他者がいないという環境は、人によっては栄養学的な観点を放棄した無軌道な暴飲暴食の原因ともなりうるが、幸か不幸か俺はもともと食が細いうえに割とベジタリアン気味であり(動物愛護とか思想的な理由ではなく、健康を意識しているわけでもなく、純粋に食べ物の好みとして野菜の方が好き)、最近は味覚の方もなんだか老人のそれに近づいてきている(脂っこいものが年々キツくなりつつある)ので健康面での心配はあまりない。そもそも生活の全てを己で管理するのが一人暮らしというものであり、自由とは全ての由を自らに求めることであって、デブが太るのはひとえに克己心の不足が故なのだ。分かったか。分かったら痩せろ。環境のせいにするな。もともと胃袋の容量が小さいのかご飯を食べ始めるとすぐ満腹になってしまい、食べ終わってゴロゴロしてるとまたすぐお腹が空いてきてしまう、というデブとガリの悪いとこ取りみたいなめちゃくちゃ非効率的で不便な体質の持ち主だったのだが、酒を減らすようになってから食欲が爆増して驚くべきことに一年間で10キロ近く太ってしまった。これはまずい。実にまずい。環境のせいにしたい。

少し前まではディスカバリーチャンネルの公式にアップされている外国のおっさんがめっちゃ嫌そうな顔しながら虫などを食べる動画にハマっていたのだが、飽きてきたので今は料理系のユーチューバーがラーメンやキャンプ飯を作る動画を見るようになった。食材が切られて炒められて煮込まれて形と色を変えていく様子というのは、食欲を抜きにしても純粋に映像として面白い。派手に火柱が立ち昇る中華料理の動画を見ていると心が不思議と落ち着いていく。なんかよく分からないけど、ASMRってこういうやつなのかな、と思う。もうしばらくしたら焚き火が燃えるのを映しただけの動画とか雨音が続くだけの動画とかを一人で延々と眺めていそうだ。それはそれで、地味だが穏やかで悪くない気もする。俺は穏やかになりたい。あとラーメンを作る動画ばっかり見てたら自分でもやりたくなってきたので、最近はアマゾンやニトリなどの通販サイトで一般家庭には到底無用の長物となるであろう大容量の寸胴鍋を物色しては「これで鶏ガラやら豚骨やらをバチボコに煮込んだらさぞかし滋味深いスープが出来上がるだろうなァ」などと妄想を逞しくしている。牛すじやホルモンなんかを煮込むのもよさそうだ。あとスキレットに憧れている。皮目をパリパリに焼き上げたチキンソテーでビールをやりたいなァとか、麻婆豆腐なんか作ったらずっと熱々で美味かろうなァとか、考え出すと止まらない。どれもこれも捕らぬ狸の皮算用だが、しかしどんなに小さく無意味な妄想でも、こうやっていずれ来たる可能性に自らを投げ込み前進するのがハイデガー言う所の投企というやつだ(俺は小賢しくも哲学畑の教授に師事していたのでこういう所で大して理解できてない専門用語を振りかざしてカッコつけるのが好き)。先駆的な決意を胸にやっていくのみである。いつかまた台所に立つようになったら、その時は前よりマシな料理を作ってみたい。やっていくぞ。ウオ~~。




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