(He is a guitar prayer)

(この文章は、CRYAMY主宰レーベル「NINE POINT EIGHT」が募集していた全楽曲レビューに自分が送ったものです。たぶん後で消します人から褒めてもらって嬉しかったのでしばらく残します)


誤解を恐れず言わせてもらえば、CRYAMYほど誠実なバンドを自分は他に知らない。

彼らの楽曲やライブを評価する際、かつて「荒々しさ」や「初期衝動」といった形容が用いられることがあったが、これは全く――とまではいかないが、おおむね不適切だと言わざるを得ない。実際のところ、カワノはものすごく考えている。とても丁寧に、繊細に言葉を選んで話す。かつてインスタグラムの日記を読んでいたリスナーならそれは明らかだろう。勢いで誤魔化さず、思考を重ね、言葉を研ぎ澄まし、絶え間ない内省で自らを穿ち続けることで、発するメッセージの純度を些かも鈍らせまいとすることに固執している。それはもう偏執的なまでに、生々しさや真剣味といったものを追求することに拘っている。
月並みな形容だが、彼らの楽曲は等身大だ。紡がれる歌詞はまっすぐで、切実なまでの労りの感情――単純に言い換えれば「愛」に満ちていて、かと思えば逆に、時に痛々しいほど赤裸々で、辛辣に突き放すような、心を鋭く抉るようなことさえ言ってのける。
矛盾しているようだが、しかしこれらは全て同根のものだと思う。無根拠なまやかしや誤魔化しや慰めではなく、嘘や欺瞞といった夾雑物の一切を混入させず、人間の内面から等しく流れ出てくる愛憎美醜の全てをあるがままにさらけ出し、言葉の限りを尽くして届けようとしているのだ。
生々しい血の匂いと、混沌とした痛みの感触を色濃く帯びたそれは、「人間」そのものを歌の形にしたようだと言えるかもしれない。

その姿勢が最も端的に表れているのが『マリア』だと自分は思う。曰く「所信表明」だというこの曲の中で、内省の刃はかつてない鋭さをもって彼自身の内面に向けられている。
他ならぬ自らの歌が、それを聴く者にとって嘘となりうる可能性から彼は目を逸らさない。彼自身が己の半生とまで言い切るほどに様々な思いを託してきた「音楽」そのものが、それによって人を救うという行為が、しかし決して綺麗なだけのものではなく、理想と現実の狭間に人間の生を巻き込んで擂り潰すような、ある種の魔性を秘めたものであること――その裏に多くの痛苦や挫折、不安や葛藤、そして矛盾や欺瞞といったものを(たとえ望むまいとも、結果的に)孕み得る不純で空疎な代物であるという、歌い手にとっても聴き手にとっても容易には受け入れがたい事実。そこにカワノは容赦のない疑いを突きつけ、綺麗事の虚飾を剥ぎ取ってさらけ出す。そうして抉り出された血まみれの情念の塊を、彼はこちらの目をまっすぐ見つめて素手で手渡してくる。
理想と現実、信念と葛藤、あらゆるアンビバレンツを突き抜けた先で、強烈なまでの純粋さで彼は叫ぶ。それでも自分はやるのだと。この歌があなたに届かなければ、あなたに何もしてやれなければ、自分は罵られて死んだとしても当然だと。全てを懸け、命すらも捧げようという覚悟を歌う。こんなにも痛切な所信表明があるだろうか。

一切の不安や雑念を交えず、聞こえがいいだけの軽薄な言葉を投げ合って、信じたいものを信じたいように信じられるなら、それほど楽なことはない。しかし彼はそれを自分に許さなかった。自らの真剣さを僅かも鈍らせまいと、面と向かって届ける言葉の純度に固執してきた。そしてそれでも不完全なのだと、疑いの余地を曝け出した上で、その疑いすら拾い上げようとしている。
疑うことを知らぬままに信じるのは、真っ直ぐな一本道を何も考えずただ歩いているのと同じだ。そして、進む道に迷い、自分さえ疑いながら、それでも最後に自分の意思で信じることを選んで決めたのなら、それは強い指向性と、何より真実味を宿した祈りになる。
信じながら同時に疑っているようなその有り様はひどく不器用で、まさしく身を削るがごとき、間断のない苦痛を自らに強い続けているように見える。その姿は時に哀しく、痛ましい。不毛とさえ評せるかもしれない。だからこそ、それはこの上ない切実さで胸を打つ。ここまで真に迫った表現の形というものを、誇張なく自分は他に知らない。
表も裏も、清も濁も全てを認め、向き合って受け入れる。それは痛みを伴う分、能天気な盲信などよりずっと誠実な姿勢だろう。そこには一切の嘘が無い。少なくとも、嘘を嘘のままにしておくことを彼は決して自らに許さない。望まぬ可能性と向き合う痛みに歯を食いしばりながら、出来得る限りの力で全てを掬い上げようとしている。この曲で歌われているのは、彼がやっているのは、すなわちそういう事だと思う。

この文章を書いている最中(3月1日未明)に、CRYAMYの過去の全音源、全楽曲のサブスク解禁が公式に告知された。
多分に漏れず、自分も複雑な気持ちである。彼らが再三繰り返し説いてきた信念、矜持を改めたことへの驚きが――障害やしがらみを乗り越えて出逢えたからこその重みや思い入れが時間の流れに押し流され、あるいは削り取られて摩耗していくことへの恐れのようなものが、確かにある。
きっと同じようなことを考えているリスナーは大勢いるだろう。裏切られたように感じる人もいるはずだ。だけど間違いなく、それ以上に彼ら自身が多くのことを考え、悩んだだろう。
彼らはより多くへ、より遠くへ届けることを選んだ。「世界を救う」と、「救えなかったら殺してくれ」とまで宣った漢たちが、考えに考え抜いたその果てに下した決断であるならば、自分はそれを支持したい。だって、どう考えたっていい未来に繋がってるに決まってるもん。

ステージに立つ彼らに、ペンキにまみれた似合わないスーツ姿に、「死んでしまえ!」と叫ぶ未来が訪れないことを祈っている。もとい、信じている。

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