Pray

誰も彼もを笑って許してやれそうな気分の時と一人残らず呪い殺してやりたい気分の時があって、前者は大抵酔っぱらっている時で後者は大抵二日酔いの時で、比率としては体感で2:8くらいだったりする。もうなんだか最近は、好きな人以外は全員嫌い、くらいの勢いで心が荒んできていて、それでも人の不幸を喜んだり世間に毒を吐いて悦に入るような卑しい人間にはなりたくないというなけなしの矜持らしきものだけが俺を人の形に留めている。なんか辛そうだったり、悲しそうだったり、しんどそうだったりうまくいかなかったりしている人を見た時に、救われてほしいな、報われてほしいな、と、漠然とではあるが自然と祈ることのできる人間でいられている――まだ一応は。しかしそんな自分に対する疑いもある。この祈りは本物だろうか。本当に相手のことだけを想って、100%相手のために祈ることができているだろうか。いやまぁ考えるまでもなくできていないしそもそも俺ごときにそんな殊勝な行いなど土台できるわけもないのだが、たとえば祈りの総量が全部で100あるとして、俺の場合、純粋な利他の精神はひょっとしたらそのうち30にも満たないんじゃないかと思うようになってきた。では残りの70を占めているのは何なのかというと、これは最近分かってきたのだが、ズバリ恐怖である。恐怖です。俺は怖い。マジで。

祈りとは呪いの謂だ。呪いと言っても、丑三つ時に白装束でトンカチと五寸釘持って神社の境内でチョメチョメ、みたいな古式ゆかしいやつではなく、より正確に言えば呪縛である。生まれや育ち、持って生まれた資質に気質、何らかのトラウマめいた経験、それらに根差した価値観や思考様式など様々あるが、一言で言えば「可能性を縛り付けるもの」というのが俺なりの呪いの定義であり、何かを祈るという行為はまさにそのど真ん中にある。恋も愛も夢も希望も憧れも情熱も全てそうだ。例外はないし異論も認めない。なんとなれば「斯く在れかし」という祈りは、裏を返せばすなわち「それ以外の未来を認めないし許さない」という、自己と世界を縛り付ける呪いに他ならないからだ。「あなたに報われてほしい」という願いは、その実「あなたが報われない悲しみに自分は耐えられない」「あなたが救われなかった世界で生きるのが怖い」という怯えの鏡像でしかない。「つらそうな人を見てると自分もつらい」――巷間言うところの「応援」の正体とはそれだ。救われてほしいと祈ることで誰よりも救われたがっているのは他ならぬ自分なのだ。なんと浅ましく身勝手で、醜い祈りであることだろう。大した力もなく、ありふれた無価値な言葉を遠くから投げかける程度のことしかできない分際のくせに――あるいはそれ故にこそ、手に負えない悲しみの中に自分で自分を閉じ込めてしまう。何かを好きになるということはいつだって一方通行で、実のところ自慰に等しい。没頭してる間はともかく終わって我に返った後がひどく虚しい。こんなこといい加減やめられたらいいのになぁと強く思う。望まなければ失うこともないのだから。昔の偉い人たちも繰り返し説いているように、執着こそが全ての苦しみの根源なのだ。好きなアイドルに彼氏がいるのが判明して発狂するオタクを俺は笑えない。ああいうのはよく不純なファンの典型例みたいに槍玉に挙げられるが、品性の良し悪しを別にすれば、その感情はたとえば、応援していた誰かが道半ばで挫折した時にそれを見ているこちらが感じる悲しみと、根本的な部分では同質のものであるように思える。「あなたは私の望んだようにならなかった」と、そういうことだ。誰かや何かを好きになるということは、それに裏切られる悲しみと――悪意のあるなしに関わらず――常に表裏一体で、そこにある業の深さを軽んじることなんか本来どこの誰にも許されはしないのだと思う。俺はあまねく全てのシニシズムはカスだと考えているし、斜めに構えて冷たく笑うのがカッコいいと勘違いしてるようなクソおもんなパーソンとは死んでも一緒に酒なんか飲みたくないと思っているが、しかし何物にも意味や価値を見出さない姿勢というのは即ちそれによって傷つくことからも自由な境地であるわけで、それはそれで彼らなりの処世術というか、一種のライフハックみたいなもんだったりするのかな、とも思う。たぶんそれがある意味では一番楽なんだろう。だったら俺は苦しんでいたい。これまで散々怠けて楽をして、うんざりするほど沢山のものを取りこぼしてきたぶん、せめて苦しみくらいは自分で納得のいくものを選びたいし、そこに自分なりの意味を見出せる人間でありたい。呪いを恐れない人間はとても尊いし、カッコいい。自分もそんな人間に少しでも近づきたい。自分を呪いながらでも誰かのために祈れたらいい。こんな気持ちもきっと、独りよがりなんだろうけど。眠い。



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